EP 3
月兎の秘密と隠された心音 ~私の鼓動は、あなたを恐れたりしませんよ~
ポポロ村の夜空に、白銀の月が煌々と輝いていた。
満月まで、あとわずか数日。
村は秋の豊穣を前にして穏やかな空気に包まれていたが、ポポロ村出張所の一室だけは、ひっそりと重苦しい静寂に沈んでいた。
「……うるさい。うるさい、うるさい……っ」
薄暗い自室のベッドの上で、新村長であるキャルル・ムーンハートは、シーツを頭から被り、自慢の長いウサギ耳を両手で必死に押さえつけていた。
いつもなら、タローマン製の安全靴を履いて元気に村を見回り、「規律を守りなさい!」と回し蹴りを放っている彼女の姿は、そこにはない。
小刻みに震えるその背中は、怯える迷子のように小さく見えた。
月兎族。
彼らは月の満ち欠けによって己の力を増減させる、獣人族の中でも極めて特殊な上位種族である。
特にキャルルは、レオンハート獣人王国の第三姫君にして近衛騎士隊長候補という、類まれなる血筋と才能を持っていた。
その卓越した身体能力に加えて、彼女にはもう一つ、恐るべき特性がある。
――『超高精度の聴覚』、すなわち『心音探知』である。
(……トクン。あぁ、腰が痛い。明日の畑仕事、休みたいなぁ……)
(……ドクン、ドクン。今年の冬は越せるだろうか。不安だ……)
(……トク、トクン。村長さん、最近怖い顔してる。怒られるのかな……)
「ちがう、ちがうの……っ。私は、みんなを怒りたいわけじゃ……」
耳を塞いでも無駄だった。
キャルルの耳は、物理的な音だけでなく、周囲の人間が抱える『不安』や『疲労』、『苦痛』といった生々しい感情を、心臓の鼓動として直接拾い上げてしまうのだ。
普段であれば、なんとか意識してシャットアウトできる。だが、満月が近づくにつれ、彼女の感覚は強制的に鋭敏化し、コントロールを失っていく。
さらに恐ろしいのは、明後日に迫った『満月』の夜だ。
満月の光を浴びた月兎族は、アドレナリンと闘気が飽和し、理性を失った『暴走リジェネ・モンスター』と化す。
患者を助けたい、不届き者を正したいという善意だけが暴走し、マッハ1の速度で周囲を破壊しながら、己の血と闘気を他者に流し込んで強制回復させる、歩く大災害。
「私なんて……ただ壊して、無理やり治すだけの道具だ。だからレオンハートでも、王族の籠の鳥として扱われて……」
自由になりたくて、亡命した。
このポポロ村で、村長として、みんなの役に立ちたかった。
けれど、自分の本質はただの壊れた兵器だ。満月になれば、また無意識のうちに村の施設を壊し、村人たちに恐怖を与えてしまう。
「怖い……誰か、私の音を止めて……っ」
ギリッと歯を食いしばり、涙をこぼしたその時。
『コンコン』
控えめなノックの音が、部屋に響いた。
「キャルルさん。起きていますか? 織姫です」
「っ……! お、織姫お姉様……? だ、大丈夫です! 私、もう寝るところですから!」
キャルルは慌てて涙を拭い、努めて明るい声を出そうとした。
しかし、ドアの向こうの織姫にはお見通しだったのだろう。ガチャリと静かにドアが開き、エプロン姿の織姫が、湯気を立てるマグカップを二つ乗せたお盆を持って入ってきた。
「ウソですね。あなたの耳、さっきからずっと垂れ下がったままですよ」
「うぅ……っ」
図星を突かれ、キャルルはシーツをギュッと握りしめた。
織姫はキャルルのベッドの傍らに丸椅子を引き寄せ、腰を下ろす。そして、甘く芳醇な香りのするマグカップを、そっとキャルルの手元に置いた。
「夜用に、薄めに淹れたポポロ・コーヒーです。少しミルクを多めにして、お砂糖も入れました。……飲みませんか?」
「…………ありがとうございます」
キャルルは震える手でマグカップを受け取り、一口すする。
温かくて甘い液体が胃の腑に落ちると、張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ解けるのが分かった。
「……織姫お姉様には、隠し事はできませんね。私の心音、うるさかったですか?」
「いえ。ただ、今日一日、あなたがずっと村人たちの顔色を窺って、辛そうに耳を押さえていたのを見ていましたから。……限界社畜だった頃の私と、同じ顔をしていましたよ」
織姫は、ふふっと小さく笑って言った。
「他人の機嫌や、ため息の音、舌打ちの音。そういうものを敏感に拾い上げてしまって、『私がなんとかしなきゃ』って、自分をすり減らしてしまう。……キャルルさんは、優しすぎるんです」
「違います!」
キャルルは、バンッとシーツを叩いて叫んだ。
「私は優しくなんかない! 満月になれば、自分を抑えられなくなる! 村の人たちの痛みの音が聞こえると、無理やりにでも治したくなって、建物を壊してでも突っ込んでしまう! 私は……ただの欠陥品です! こんな化け物、この平和な村にはいちゃいけないんだ……っ!」
感情が堰を切ったように溢れ出し、大粒の涙がポロポロとシーツに染みを作っていく。
暴走する自分への恐怖。
居場所を失うことへの絶望。
それが彼女の心を蝕んでいた正体だった。
織姫は、黙って彼女の叫びを受け止めた。
『人を動かす』において、最も重要なのは「相手の言葉を遮らず、最後まで傾聴すること」だ。
そして、キャルルが泣きじゃくり、呼吸を乱してうつむいたところで。
織姫は静かに手を伸ばし、キャルルの銀色の髪と、長く垂れ下がったウサギ耳を、優しく、本当に優しく撫でた。
「……っ」
「キャルルさん。あなたのその『耳』で、私の心臓の音を聞いてみてください」
織姫の静かな声に導かれるように、キャルルはピクッと耳を動かし、織姫の胸の奥から響くリズムに意識を集中させた。
――トクン。……トクン。……トクン。
それは、酷くゆっくりで、規則的で、穏やかな音だった。
キャルルは目を見開いた。
「……どうして? どうして、そんなに落ち着いているんですか? 私が暴走したら、お姉様だって怪我をするかもしれないのに。怖くないんですか……?」
「怖くありませんよ。だってあなたは、こんなにも村の人たちの痛みを自分のことのように悲しめる、心優しい女の子なんですから」
織姫は、キャルルの涙を指先でそっと拭いながら微笑んだ。
「心音は嘘をつかないんでしょう? なら、私のこの鼓動が、あなたを欠陥品だなんて微塵も思っていない証明です」
「お姉様……っ、お姉様ぁ……っ!」
キャルルはたまらず、織姫の胸に飛び込んで号泣した。
織姫は、まるで妹をあやすように、背中をトントンと優しく叩き続ける。
彼女の抱えていた孤独と自己嫌悪を、まずは『受容』すること。それが、論理的でありながら誰よりも他者に寄り添う、織姫なりの戦い方だった。
(さて、キャルルさんの心のケアはできました。あとは、物理的な『満月の暴走』対策ですね)
織姫は、腕の中で泣き疲れて眠りにつきそうなキャルルを撫でながら、脳内の『善行通販』のウィンドウを思い浮かべる。
(満月の強制ハイテンションを相殺するほどの、究極のリラックスアイテム……。フフッ、地球の英知と神々のポイントの力、見せてあげましょう)
「安心して眠ってください、キャルルさん。明日の夜には、私が完璧な『処方箋』を用意しておきますからね」
織姫の規則正しく穏やかな心音を子守唄にするように、その夜、キャルルはポポロ村に来て初めて、深く静かな眠りにつくことができたのだった。




