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第二部第九話:砕かれた聖遺物、砂塵の脱出行

第二部第九話:砕かれた聖遺物、砂塵の脱出行


「――見せたいものがあります、リーヴィス」

本陣の最奥。

二重に張られた遮音の結界をくぐり抜けながら、最高指導者たる聖女リディアは、妹の手を引く力を不自然なほどに強めた。

最愛の妹を無傷で取り戻した歓喜の表情は、天幕の奥に足を踏み入れた瞬間、陽炎のように消え失せる。

そこに佇むのは、タルカを守護する「半天使ネフィリム」としての、傲然たる支配者の顔だった。

リディアが豪奢な絹の垂れ幕を跳ね上げた先、豪奢な祭壇の上に据えられていたのは――無残に粉々に砕け散り、濁った硝子の破片と化した「天王玉」の骸であった。

「これは……! そんな、まさか……」

リーヴィスは息を呑み、その場に縫い止められた。

あの戦場を焼き尽くし、魔神の加護すら消し去った絶対的な光。

その源泉が、見る影もなく崩壊している。

「私が我が身を削り、生成した天王玉でしたが……やはり不完全でした。戦場の一撃で全ての天王力を放出し尽くし、もはや、ただの石ころ。何の力も残っていません」

「ならば……ならば尚更、軍を引くべきです! 姉様! 偽りの威嚇でこれ以上の戦争を続ければ、兵たちが無駄に死ぬだけです!」

「ここまで来て、そうもいきません」

リディアは、その背に宿る目に見えぬ一対の光の翼を不穏に羽ばたかせるかのように、凛として言い放った。

超然とした美貌に、焦燥の影がよぎる。

「天王玉がなかろうと、私の天王力を持ってでも、魔王族の不浄どもをすべて討ち倒します。それが天上の法であり、私の使命です」

「もしこの破滅が……天王玉の消失が魔王族に知られれば、私たちはこの魔王界のただ中で完全に孤立してしまいます! 勝ち目はありません!」

「――そうです」

リディアはゆっくりと振り返った。その冷徹な鏡のような瞳に、ゾッとするほど鋭く、暗い光が差し込むのを、リーヴィスは見逃さなかった。

「だからこそ。この事実を、外部に漏らすわけにはいかないのですよ。……たとえ、それが誰であろうともね」

(――レイが危ない!)

リーヴィスは本能的に察知した。

姉が、天王玉の秘密を守るために、自分たちを連れてきた「異端の傭兵」の口を永久に封じるつもりであることを。

「姉様、私は……!」

言いかけるよりも早く、リーヴィスは身を翻し、天幕を飛び出していた。

背後から響くリディアの冷厳な静止の声を振り切り、彼女は自らの掌に意識を集中させる。

かつてレイに触れた際、その身に記憶したかすかな魔力の残滓――高位神官としての「探知の術」が、野営地の北端の暗がりを指し示していた。


「ハァ、ハァ……!」

息を切らせてリーヴィスが辿り着いたのは、普段は罪人を拘置する臨時の天幕だった。

布を跳ね上げた瞬間、鼻を突く鉄錆の臭い。

そこには、衣服を裂かれ、白銀の光を帯びた拷問具によって全身をズタズタに傷つけられたレイが、血の海の中で倒れていた。

「――レイ!!」

「なっ、リーヴィス様!? なぜここに!」

拷問を執行していた二人の聖騎士が、驚愕して剣に手をかける。

しかし、リーヴィスはそれを力任せに押し除け、血塗れのレイの身体に覆い被さるようにして、その逞しい胸にしがみついた。

「離れてください、リーヴィス様! そいつは我が軍の切り札を探りに来た、テルセイの薄汚いスパイかもしれません!」

「この人は違います! 私の命の恩人です! 下がりなさい!」

叫びながら、リーヴィスは涙を流して両手を掲げた。

彼女の純白の聖王力が、レイの傷口へと注ぎ込まれる。

肉を引き裂いていた天王力の呪縛が解け、レイの傷がみるみるうちに塞がっていく。

「……う、ぐっ……」

意識を取り戻した瞬間、レイの戦士としての本能が爆発した。

彼は自身の身体を抱きしめる金の髪の頭部を視界に捉えると同時に、電雷のごとき速さで身を起こし、その太い右腕でリーヴィスの首を後ろから強く締め上げた。

完全に「人質」の構えだった。

「ひっ、リーヴィス様を放せ、貴様ァ!」

騎士たちが一斉に剣を抜く。

だが、首を絞められながらも、リーヴィスの翠玉の瞳は酷く穏やかだった。彼女はレイの腕の震えから、彼が本気で自分を殺すつもりはないことを見抜いていた。

「……私は、大丈夫です。……全員、武器を引いて、下がりなさい」

リーヴィスは途切れ途切れの声で、毅然と騎士たちを威圧した。

レイは彼女の喉元に指を食い込ませたまま、ジリジリと後退する。

リーヴィスは自らレイの歩調に合わせ、彼を誘導するように、天幕の外に繋がれていた愛馬の元へと歩を進めた。

「……私も、連れて行ってください」

馬の背に鮮やかに跨り、手綱を握り直したレイの背中に向けて、リーヴィスは真摯な瞳で懇願した。

「おい、冗談だろ。ここから先は、本物の命懸けになるぞ」

「構いません。ここに残れば、私はただの『操り人形』です。あなたと共に……行かせてください」

レイは一瞬、獰猛に唇を歪めると、彼女の手を強く引っ張り上げて自分の背へと乗せた。

「振り落とされるなよ、聖女様!」


「曲者を逃すな! 囲めッ!」

葦毛の馬が猛然と駆け出すと同時に、野営地全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

行く手を阻むように白銀の騎士たちが壁を作る。

「――眠りなさい(スリープ)! ――縛られよ(パラライズ)!」

レイの背後から、リーヴィスが目にも留まらぬ速さで神聖魔術を編み上げていく。彼女が放つ白銀の波動が直撃した騎士たちは、次々と落馬し、あるいはその場で硬直して道を開けた。

「おやめなさい! 弓を引いてはなりません、リーヴィスに当たります!」

本陣から駆けつけたリディアが、激昂して弓兵たちを制止する。

しかし、そのリディアの顔から完全に「妹への慈愛」が消え失せていた。

「ならば……私がその足を奪いましょう!」

リディアは両掌を前に突き出し、自身の限界を超える天王力を凝縮させた。

大気がキチキチと悲鳴を上げ、絶対的な光の奔流がレイたちの背中に向けて放たれようとした、まさにその時。

ゴォォォッ!!

突如として、どこからともなく狂い咲いた猛烈な砂嵐が、レイたちの周囲をドーム状に包み込んだ。

リディアの放った光の弾道は、激しく渦巻く砂の壁に乱反射し、虚しく霧散していく。

騎士たちの視界も完全に遮られた。

「……ちっ、身内の追っ手か!?」

レイが手綱を握り直しながら砂嵐の向こうへ視線を走らせると、そこには、赤土の大地に深く杖を突き立て、静かに大地の精霊を操る「見慣れぬ男」の姿があった。

さらに、行く手の天空から、バサバサと強烈な風を切る音が響く。

「――こっちだよ、若いの!」

見上げれば、背中に禍々しくも美しい「竜の翼」を生やした一人の女が、空から急降下してきていた。

その瞳には、魔王族とも天王族とも異なる、絶対的な強者の輝きがある。

レイは直感した。

この異常な状況で現れた異形の者たちが、決して自分たちの敵ではないことを。

「捕まってな! 飛ぶよ!」

竜翼の女が天空で不可思議な陣を描いた瞬間、まばゆい空間の歪みがレイたちを馬ごと包み込んだ。

次の刹那、爆音とともに砂嵐が晴れた時には、荒野の真ん中から、レイとリーヴィスの姿は跡形もなく消え去っていた。

後に残されたのは、最愛の妹を未知の勢力に奪われ、怒りと屈辱に震える半天使リディアの、凄まじい絶叫だけであった。

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