第二部第十話:無王の居城、世界樹の楔
第二部第十話:無王の居城、世界樹の楔
世界の五大版図――光を戴く天王界、深淵が這う魔王界、高傲なる竜王界、死寂を統べる冥王界、そして底知れぬ海王界。
そのすべての境界線が交わる中心部には、どの王の法も届かぬ永久の緩衝地帯が存在する。
赤黒い雲が渦巻く荒野のただ中に、その城は忽然とそびえ立っていた。
「無限城」。
完全な幾何学を描く六角形の堅牢な外壁。
その六つの角には、天を突き刺すかのように黒亜の尖塔が立ち並び、各界から漏れ出す五色の魔力が、城の結界へと吸い込まれては明滅を繰り返している。
空間の歪みを抜けたレイとリーヴィスは、馬とともにその広大な大理石の謁見の間に降り立っていた。
「ようこそ、我が無限城へ。……私はネヴェラード。しがない一人の魔導士です」
玉座の前に佇む主が、静かに声を紡いだ。
その名は、古き言葉で「無王」、あるいは「無能王」を意味する。
頭部を完全に覆う漆黒のフードの奥は底知れぬ暗闇であり、顔はおろか、その肉体さえもこの世に実在しているのか疑わしいほどに希薄な存在感を放っていた。
「助けてもらったことには感謝するが……ただの親切というわけではなさそうだな」
レイはリーヴィスを背後に庇い、傷ついた肉体を強引に奮い立たせて腰の剣に手をかけた。
呪紋を失った今でも、彼の野性の直感は目の前の「影」が持つ底知れぬ脅威を捉えていた。
「これは話が早い。左様、実はあなた方に、ある偉大なる儀式へ協力していただきたいのです」
ネヴェラードの声に呼応するように、玉座の影から、それぞれ異相を宿した四人の若者が音もなく姿を現した。
「紹介しましょう。……まずは我が息子、ネヴェル。魔王族の血を引く半魔王族です」
ネヴェラードの右小脇に進み出たのは、まだ少年と言っていい年頃の繊細な容貌の魔術師だった。
だが、その夜の帳を紡いだような銀の髪と、すべてを見透かすような冷徹な紫の瞳には、かつてレイが戦場で見たどの魔族よりも純度の高い、苛烈な王の気配が揺らめいている。
「そしてこちらが、冥府の静寂を宿す者。半冥王族のブルドです」
一歩前へ出たのは、灰色の僧衣を纏った少年だった。頭髪を剃り上げた若き体躯からは想像もつかないほど、その風格は泰然自若とした高位の僧侶のそれである。
光を反射しない底なしの灰色の瞳は、ただ見つめられるだけで魂の体温を奪い去るような死の冷徹さを秘めていた。
「あちらの柱の陰にいるのが、風の精霊を操っていたハミッシュ。半海王族の少年です」
一見すれば、穏やかな人間の少年に見える。
しかし、その瞳は深く澄んだ深海の色――青一色であり、耳の後ろに刻まれた微かなエラと、指の間に張られた半透明の水かきが、彼が常世の海の支配者の血を引く証拠だった。
「最後に、先ほどあなた方を空から運んだ、半竜王族のアストレイア」
腕を組み、不遜な笑みを浮かべて壁に背を預けているのは、先ほどの竜翼の女だった。
爛々と輝く紅蓮の双眸。
人間離れしたしなやかな肢体のところどころには、鋼をも弾くであろう鈍色の竜鱗が美しく硬質な輝きを放っている。
「いかにも裏で何かを企んでいそうな面子だな」
レイは唇を歪め、一層警戒を深めた。
「我らの目的は一つ。万界を統べる真なる『王者の石』の生成である」
ネヴェラードが両腕を広げると、謁見の間の中央に五つの魔法陣が浮かび上がった。
「天王玉、海王玉、冥王玉、竜王玉、そして魔王玉……これら五つの至高の王玉を、同時に、そして完璧な形で生成する。それが我らの悲願なのです」
ネヴェラードの言葉に、リーヴィスはハッと息を呑んだ。
「タルカの天王玉は……不完全であったろう、リーヴィス様。半天使の聖女が独力で紡いだ光など、一発限りの紛い物。不純物を取り除き、永遠に枯渇せぬ真の王玉を生成するには、五界のバランスを完全に保ち、すべてを『一度に』鋳造せねばならんのです。そのために、この若き血をここに集めた」
だが、ネヴェラードの言葉の通りであれば、決定的な不均衡が存在した。
ここにいるのは四人。肝心の「天王族」の座が空席なのだ。
「……まさか、リディア姉様を……!」
リーヴィスが震える声で叫ぶ。
ネヴェラードはフードの奥の闇を小さく揺らした。
「そう。あなたには、聖女リディア様をこの無限城へ引き寄せるための、最良の『餌』となっていただく」
「おい、ふざけるな――」
色めき立つレイを、ネヴェラードの冷徹な声が遮る。
「何、悪いようにはしない。これは天王族にとっても、あるいは世界のすべての人間にとっても、救いの話だ。それぞれに完璧な王玉を分け与えることで、五界の力の均衡は永久に固定される。領土を巡る戦乱はなくなり、真の平和が訪れるであろう。……リーヴィス様、神に仕える者として、ご協力願いたい」
リーヴィスは悲痛に唇を噛み締め、明言を避けた。
一方的な破壊ではない、誰もが望む「均衡の平和」。
しかし、そのために最愛の姉を罠に嵌めることなどできるはずがない。
だが、今の彼女たちに拒絶の選択肢は残されていなかった。
ハミッシュが静かに杖を振ると、水流の結界がリーヴィスを包み込み、彼女は一先ず、城の奥の客室へと監禁されることとなった。
「ネヴェルよ。リディアを連れてまいれ。……くれぐれも、丁重にな」
「御意、父上」
父ネヴェラードの命に、銀髪の半魔ネヴェルはうやうやしく一礼した。
その直後、彼の身体は紫の魔力の霧へと変わり、空間の隙間へと音もなく姿を消した。
「まもなく、世界を変える我が魔術が完成する」
無王ネヴェラードの厳かな宣言が、無限城の冷たい大理石に響き渡る。
ブルドが、アストレイアが、そしてハミッシュが、それぞれの野心と未来を胸に、静かにその首を垂れた。
残されたレイは、己の無力さを噛み締めながら、遠ざかっていくリーヴィスの気配と、近づきつつあるさらなる激動の予感に、ただ不敵に奥歯を噛み締めていた。




