第二部第八話:聖域の欺瞞、音無き一撃
第二部第八話:聖域の欺瞞、音無き一撃
夜明け前の蒼い霧が、なだらかな丘陵を優しく包み込んでいた。
丘の頂に馬を止めたレイの視線の先、眼下に広がる広大な盆地に、松明の火を点々と灯した神聖タルカ法国軍の巨大な野営地が見えた。
白亜の天幕が整然と並ぶその光景は、ここが彼らの旅路の終着点であることを告げていた。
「……ここでお別れだ」
レイは馬の背から滑り降りると、リーヴィスの華奢な身体を両手で支え、地面へとそっと下ろした。
彼女の足が草を踏みしめ、二人の間にわずかな距離が生まれる。
「……ありがとうございます、レイ」
「いいってことよ。俺の気まぐれに付き合わせて悪かったな」
レイはぶっきらぼうに笑ってみせたが、その瞳にはかつてない深い名残惜しさが宿っていた。
リーヴィスは静かに彼を見つめ返し、やがて何かを決意したように、ゆっくりと長い睫毛を伏せて目を閉じた。
レイは吸い寄せられるように一歩踏み出し、彼女の滑らかな額に、慈しむような優しい口づけを落とした。
それは、邪と聖という相容れない境界を越えた、刹那の誓いでもあった。
「……これから、どうなさるのですか? 魔神を裏切った今、帝国へ戻れば処刑は免れないでしょう」
目を開けたリーヴィスの翠玉の瞳には、純粋な慈愛の心情が揺れていた。
「さあな。ほとぼりが冷めるまで、どこか静かな土地で身を隠すさ。元々根無し草の傭兵だ、どうとでもなる」
「――なら、私と一緒に来てください!」
リーヴィスは一歩詰め寄り、レイの逞しい腕を強く掴んだ。その掌の熱に、レイは「はあ?」と、素頓狂な声を漏らす。
「私と一緒に、聖女リディア姉様を説得してください。天王玉の光で敵を焼き尽くすだけでは、本当の平和は来ません。私は……あなたと、そしてあのゴブリンと触れ合って確信しました。私たちは、話し合えるはずです。戦争を止めましょう。それに……命を救っていただいたお礼も、まだしていませんから」
まっすぐで、いささかの曇りもない救済の意志。
レイはしばらく沈黙し、彼女の無謀とも言える提案の重さを量っていた。
だが、彼女の瞳に宿る光が、どうしても愛おしかった。
「……いいだろう。君のその大それた賭け、俺も一枚乗らせてもらうよ」
レイの言葉に、リーヴィスは世界で最も美しい微笑みを咲かせた。
二人が丘を下り、法国軍の防衛線へと近づくと、即座に白銀の鎧を纏った騎士たちが殺気を放って彼らを取り囲んだ。
「――そこまでだ、異端の者! 聖なる陣に何用か!」
「待ち狂いなさい! 私は神官リーヴィスです!」
リーヴィスが毅然と前に進み出ると、騎士たちの間に激震が走った。
「おぉ、リーヴィス様! ご無事で……! しかし、その後ろの男は帝国の!」
「この方は、魔王軍の地獄から私を救い出してくださった恩人です。お願いです、今すぐ聖女様にお取次ぎを!」
神官の言葉に驚愕した騎士の一人が、弾かれたように本陣へと馬を走らせた。
数騎の護衛騎士に厳重に囲まれながら、レイの馬は野営地の奥へと進む。
すれ違う兵士たちからは、リーヴィスの帰還を神に感謝する歓声が上がる一方で、その背後に従うレイに対しては、針のように鋭い不信と憎悪の眼差しが集中していた。
レイはそれを傲然と受け流し、不敵な笑みを崩さない。
やがて本陣の巨大な天幕の前で馬を降りた二人を迎えたのは、目を見張るほどの後光を纏った女性だった。
最高指導者である聖女、リディア。
彼女は人間ではない。
天王族の血を濃く引く「半天使」である。
透き通るような白い肌に、超然とした美貌。
背後には目に見えぬ一対の光の翼が揺らめいているかのような錯覚を覚えさせる、圧倒的な聖性の権化。
「――リーヴィス! よくぞ、よくぞ無事で……! 私は心配で胸が張り裂けそうでしたよ!」
厳格な聖女としての仮面をかなぐり捨て、リディアは最愛の妹を狂おしいほどに強く抱きしめた。
その抱擁の激しさに、彼女が妹に対して抱く、信仰をも超越した「執着」と「溺愛」が透けて見える。
リディアはリーヴィスの身体に傷がないかを何度も確かめた後、ようやくその視線をレイへと向けた。
その瞳は冷徹な鏡のようでありながら、底知れぬ威圧感を秘めている。
「……我が妹を、魔の汚濁から救い出してくれたこと、心よりお礼申し上げます。異国の戦士よ、タルカ法国は信義を重んじます。あなたを国賓として歓迎しましょう」
リディアは傍らの騎士に命じ、レイを別の天幕へと案内し、最上級のもてなしをするよう告げた。
「姉様、お話ししたいことがたくさんあります。帝国の人間とも、私たちは――」
「ええ、分かっていますよ、リーヴィス。まずは二人だけで、ゆっくりと無事を神に感謝しましょう」
リディアは人払いをして、リーヴィスの手を引くように本陣の天幕へと消えていった。
一方、レイは数人の騎士に連れられ、少し離れた上級客用の天幕へと案内されていた。
天幕の中には豪奢な絨毯が敷かれ、豪勢な料理や酒が用意されていた。
「ここで旅の疲れを癒されるが良い。聖女様からの贈り物だ」
案内した騎士は慇懃無礼に一礼すると、天幕の幕を下ろした。
一人残されたレイは、並べられた料理には目もくれず、ふっと息を吐いて腰の剣の柄に手をかけた。
(出来すぎているな。半天使の聖女が、帝国の傭兵をこうも簡単に信用するか?)
リーヴィスの純粋さは本物だとしても、あのリディアという女の瞳の奥にあったのは、妹を無傷で返されたことへの安堵と――それ以上に昏い、全てを支配せんとする傲慢な光だった。
回れ右をして、今すぐここを脱出すべきか。
そう思考が傾いた、まさにその刹那。
気配が、完全に消えた。
戦場で培ったレイの驚異的な野性の直感が、背後からの「殺意」を察知した時には、すでに遅かった。
天幕の影から、音もなく、光の屈折すら歪めるほどに高度な隠蔽魔法を纏った「何者か」が肉薄していたのだ。
(――しまっ……!)
回避の動作を起こそうとした瞬間、レイの後頭部に、肉体を内側から破壊するような凄まじい衝撃が炸裂した。
激痛と、視界を真っ白に染める白銀の雷光。
重力に抗えなくなったレイの肉体は、絨毯の上へと崩れ落ち、彼の意識は深い、暗黒の底へと急速に引きずり込まれていった。




