第二部第七話:真砂のオアシス、異形の絆
第二部第七話:真砂のオアシス、異形の絆
「……少し、休もう」
馬を止めたレイの、低く掠れた声が夜気に溶ける。
たどり着いたのは、砂漠の端にぽつんと佇む小さなオアシスだった。
水面に映る歪んだ三日月が、波紋とともに優しく揺れている。
レイは馬から飛び降りると、怯えるリーヴィスの華奢な身体をそっと抱きすくめるようにして、地面へと下ろした。
ようやく訪れた、ひと時の休息。
リーヴィスは逃げ出そうとはしなかった。
逃げたところで、この見渡す限りの荒野では飢えと渇きに干責めにされるだけだ。
彼女は泥に汚れた聖衣の裾を気に留めることもなく、ひざまずいて透き通ったオアシスの水を掌で掬い、喉を潤した。
その無防備な横顔を眺めながら、レイもまた、張り詰めていた剣士の気をわずかに緩めていた。
しかし、静寂は突如として破られる。
「――あっ……!」
リーヴィスが短い悲鳴を上げ、数歩後ずさった。
水際、揺れる葦の根元に、どす黒い血溜まりを作って横たわる影があった。
浅黒い醜悪な皮膚、異様に長い牙、そして酷く不格好な体躯。それは法国の聖典において「根絶やしにすべき悪鬼」と記された、一体のゴブリンだった。
驚愕に目を見張るリーヴィスを置き去りにし、レイは迷うことなくその異形へと駆け寄った。
「おい、ゴビンゴ! しっかりしろ、ゴビンゴ!」
レイの必死な声音には、ただの怪物を憐れむ以上の、明らかな「情」が籠もっていた。
このゴブリン――ゴビンゴは、過酷な戦場を幾度もともに潜り抜けてきた、レイの数少ない友人だったのだ。
胸を深く切り裂かれ、微かな呼吸を繰り返す友の姿に、レイは冷汗を流しながらリーヴィスを振り返った。
「頼む、リーヴィス! 君の癒しの術で、こいつを治してやってくれ!」
「……ですが、私の術は『天王力』です。魔王族の血を引く彼らにとって、光の法は毒に……っ」
「いいから、何とかしてくれ! 君の制御次第で、命を繋ぎ止めるくらいはできるはずだ!」
レイの必死な瞳に圧され、リーヴィスは躊躇いがちにゴブリンの浅黒い皮膚に、その白く柔らかな手を触れた。
彼女が唇を微かに動かし、天の法を紡ぐ。リーヴィスの掌から、清冽な銀色の光が放たれた。
「――ゴアァァッ!」
ゴビンゴの口から、引き裂かれるような絶叫が漏れる。
光が傷口を塞いでいくと同時に、天王力の純粋な拒絶反応によって、彼の皮膚は火傷のように赤くただれ、激しく煤けていく。しかし、リーヴィスが極限まで出力を絞り、純粋な「生命の活性」へと術を歪めたことで、致命傷はみるみるうちに塞がっていった。
激しい喘ぎとともに、ゴビンゴの濁った黄色い瞳が開かれる。
「よう、ゴビンゴ。気がついたな」
「レイ……俺は、一体……。――ッ!? その女はっ!」
意識を取り戻したゴビンゴは、目の前に佇む金の髪の女神官を見るや否や、傷む身体を引きずって飛び退き、牙を剥き出しにして身構えた。
「落ち着け、彼女はお前を助けてくれたんだ」
「なんだと……?」
ゴビンゴの顔が、あり得ないものを見たと言わんばかりに歪む。
法国の人間、とりわけ神官にとって、自分たち亜人は見つけ次第皆殺しにするのが当たり前の存在だったからだ。
「そう殺気立つなよ。今は、俺の所有物だ」
レイはリーヴィスの前に立ちはだかり、彼女を庇うように背後に隠した。
その時、周囲の葦原がガサガサと不気味な音を立てて揺れた。
闇の中から、十数体のゴブリンたちが、血に飢えた目で槍を構えて現れる。
敗戦の混乱と殺気を取り込んだ彼らの瞳は、理性を失いかけていた。
レイはリーヴィスを片腕で背後に押し込みながら、腰の剣の柄にそっと手をかけた。全身の細胞が再び戦闘態勢へと切り替わる。
同じ帝国の軍勢とはいえ、理性の薄いゴブリンの群れが、極限状態で「人間の極上肉(神官)」を前にすれば、どう転ぶかは分からなかった。
緊張の糸が張り詰める中、ただれた身体を起こしたゴビンゴが、前に進み出て仲間の群れを遮るように手を挙げた。
「……ゴブリンは恩に着ない。義理も返さない。……だが、レイ。ここは見逃してやる。行け」
低い、濁った声だったが、そこには確かな戦友への情義があった。
「そいつはありがたい。気が変わらないうちに、退散させてもらうよ」
レイはジリジリと後退しながら、リーヴィスを連れて愛馬へと戻り、一気にその背へと飛び乗った。
手綱を引くと、葦毛の馬は再び夜の砂漠へと走り出す。
「……ああ見えて、あいつは義理堅い奴なんだ」
背後で怯えるリーヴィスに向けて、レイは風に声を乗せるようにそっと呟いた。
リーヴィスは何も答えず、ただレイの引き締まった背中に顔を埋め、彼の細い腰を強く抱きしめた。
(私たちは、あの異形たちを『悪』と切り捨て、殺し続けてきた……)
だが今、自分の紡いだ光で、確かに一匹のゴブリンの命が救われ、そしてその怪物の「情け」によって自分たちの命が救われた。
レイの背中の温もりを通じて、リーヴィスは、自分がこれまで教わってきた聖典には決して記されていない、不都合で、しかし酷く人間臭い「共存」という名の現実を、心の奥底で深く、静かに噛み締めていた。




