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第二部第六話:混迷の逃走、深淵の誘惑

第二部第六話:混迷の逃走、深淵の誘惑


銀の月光が、濡れた葦原をうっすらと照らしている。

その静寂を切り裂くように、一頭の葦毛の馬が夜の闇を疾走していた。

鞍の上には、手綱を握るレイと、彼の背中に必死にしがみつくリーヴィスの姿がある。

「……どうして、私を助けてくださるのですか?」

馬の激しい蹄音に掻き消されそうな、震える声。

しかし、その問いはレイの背中から直接、彼の鼓膜へと伝わった。

レイは前方の暗闇を鋭く見据えたまま、自嘲気味に口角を上げた。

「さあな! 魔王族の連中にくれてやるのが惜しくなった……それだけのことだ!」

風を切って走る馬上で、レイ自身も自らの行動に困惑していた。

冷静な傭兵団長としての計算を、一人の男としての衝動が易々と塗り潰している。


リーヴィスは、レイの背中に伝わる筋肉の躍動を感じながら、絶望的な予感に唇を噛んだ。

これは「救済」などではない。

ある種の独占欲による拉致なのだ。

それでも、今は魔神の生贄となる地獄から遠ざけてくれるこの男の背に、縋る以外に道はなかった。


「追っ手だ……!」

リーヴィスには聞こえぬ微かな地響きを、レイの野生が捉えた。

追跡者は、二人乗りの馬にみるみる肉薄してくる。

闇から飛び出してきたのは、身軽な馬を駆るミュロンであった。

「何やってんだい! コンチクショーッ!」

馬を並走させ、怒髪天を突く勢いでミュロンが罵声を浴びせる。

その瞳は夜目にも赤く燃え、裏切られた無念さと嫉妬が火花となって散っていた。

「タルカに返してやることにしたんだ! 追うな、ミュロン!」

「はぁ!? 何バカなこと言ってんのさ! ……あんた、まさか、本気でこのアバズレに惚れちまったのかい!?」

ミュロンが吐き捨てたその一言は、レイの心臓を雷打した。

(――惚れた?……それだ!)

その瞬間、レイの胸中の霧が晴れた。

己の不合理な行動、リーヴィスへの異常なまでの執着。

そのすべてに「恋」という名の、あまりにも原始的で強力な理由がついたのだ。

レイの顔に浮かんだ「得心」の表情を見て、ミュロンは自らの失言を呪った。

最悪の推測を、自らの口で真実に変えてしまったのだ。

「……逃がしゃしないよ!」

ミュロンが剣を抜こうと身を乗り出した瞬間、レイの動きはそれより遥かに早かった。抜剣の閃光が闇を走り、ミュロンの馬の手綱を根元から鮮やかに切り落とす。

「うわっ!?」

制御を失った馬が大きくよろめき、ミュロンは何とか体勢を立て直したが、その足は完全に止まった。

レイを乗せた葦毛の馬は、一度も振り返ることなく、深い闇の迷宮へと吸い込まれていく。

「……バカヤローッ!!」

暗闇に取り残されたミュロンは、荒野に膝をつき、拳を地面に叩きつけた。

「あの女……絶対に、絶対に殺してやる。レイをたぶらかした報いを受けさせてやる……!」

憎悪という名の黒い焔が、彼女の小さな身体を焼き尽くさんばかりに燃え上がる。

その時、どこからともなく、湿り気を帯びた妖艶な声が耳元で囁いた。

「……うふふふ、可哀想に。許せないわよねぇ、あんな泥棒猫」

「……っ、誰!?」

ミュロンは弾かれたように辺りを見渡したが、そこには静まり返った荒野があるだけだ。

しかし、背後からフワリと、温かく粘りつくような何かが自分を抱きしめている感触が伝わってきた。

「私はメルフェレーン。魔王母メルフェレーンよ。……あなたの憎悪、とってもイヤらしくて、甘い香りがするわ」

ザラリとした、猫の舌のような感触がミュロンの首筋を這う。

恐怖で凍りつくはずのミュロンの身体が、なぜかその不気味な愛撫に熱を帯びていく。

「私があなたの望みを叶えてあげる。……愛も、復讐も。あなたはただ、その欲望の赴くままに、私を受け入れればいいのよ」

ミュロンを包んでいた「何か」が、影のように彼女の背中から皮膚の内側へと、ズブズブと音を立てて侵入してくる。

抵抗する意志は、甘美な快楽の波に呑み込まれて霧散した。

先ほどまでの刺すような憎しみは、とろけるような法悦へと変質していく。

「あ……ああ……」

ミュロンの瞳から理性の光が消え、深い紫色の魔性が宿る。

彼女の憎しみは食べ尽くされ、代わりに、より強大で、純粋な「邪」のエネルギーが、彼女の身体を新たな魔の器へと作り替えていった。

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