第二部第五話:混迷の夜、揺らぐ忠義
第二部第五話:混迷の夜、揺らぐ忠義
夜風が野営地の篝火を激しく煽り、影を長く引き延ばしている。
足早に自らの持ち場へ戻ろうとしていたミュロンは、闇の中でふと足を止めた。
胸の奥が、燻る残り火のように熱く、重い。
彼女は先代団長ハボンの実の娘である。
粗野な傭兵たちの間で育ちながらも、その剣技と度胸は男顔負け。
本来ならば彼女が父の後を継ぐはずだったが、ハボンが次代の長として指名したのは、レイだった。
ミュロンに不満はなかった。
むしろ、レイという男の静かな覇気に、彼女は人知れず惹かれていた。
いずれは彼の伴侶となり、二人でこの傭兵団を大陸一の規模に育て上げる――それが彼女の描いた、唯一の幸福な未来図だったのだ。
しかし、父ハボンはその交際を断固として認めなかった。
「ミュロン。身の程をわきまえろ。お前ごときがレイ様の隣に立つなど、あってはならぬことだ」
団長であるはずのハボンが、年若いレイに対して見せる、時折の跪くような恭順の仕草。
ミュロンは勘付いていた。
(レイには、私たちの預かり知らぬ秘密がある。あれは、どこか遠く高貴な……この泥に塗れた傭兵団には収まりきらない血を引いているのだわ)
父に刷り込まれた「主従」という壁。
それに抗う唯一の術として、ミュロンは彼に反発し、悪態をつくことでしか、己の焦がれるような恋心を誤魔化せなくなっていた。
だが、今夜ばかりは勝手が違った。
あの女神官を見つめていたレイの、蕩けるような瞳。
それを思い出すたび、怒りよりも先に、胸を引き裂かれるような悲しみが込み上げてくる。
「……あんな言い方、しなきゃよかったかな」
ミュロンは独り言を漏らし、気づけばレイの天幕の前でモジモジと立ち尽くしていた。
しおらしい気持ちが湧き上がり、謝罪の言葉を喉の奥で何度も繰り返す。
意を決して、彼女は天幕の布を捲った。
「入るよ。……レイ、さっきはちょっと、やり過ぎたっていうか……」
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
整えられた寝台、置かれたままの装備。
主を失った空間に、ミュロンの心臓が不吉な音を立てて跳ねる。
彼女は弾かれたように外へ飛び出し、巡回中の巨漢の傭兵、バルトを呼び止めた。
「おい、バルト! レイを見なかったか!?」
「あん? お頭なら、さっき人質の天幕に向かいましたぜ」
バルトは下卑た笑いを浮かべ、黄色い歯を剥き出しにした。
「今頃は、あのピチピチした神官様と『お楽しみ』の真っ最中かもしれませんや。お嬢も野暮な真似は――」
「バカ野郎ッ!」
ミュロンの怒声が夜の静寂を切り裂いた。
彼女が走り出そうとすると、バルトがその太い腕で彼女を制止しようとする。
「お嬢! 落ち着きなせえ! 男には抜き差しならねえ時があるんでさあ!」
「放せ! 生贄の価値が下がるだろ、このスットコドッコイ!」
叫びながらも、ミュロンが恐れていたのは「生贄の価値」などではなかった。
レイがあの聖女に魂を奪われ、自分たちの手の届かないところへ行ってしまうこと。
それが何よりも耐え難かった。
バルトの腕を振り切り、泥を跳ね飛ばしながらリーヴィスの天幕へと突っ込む。
だが、そこにあるはずの見張りの姿がない。
「どうなってんだ……まさか!」
天幕を乱暴に引き絞り、中に飛び込んだミュロンは絶句した。
そこには、千切れた縄と、わずかに残る聖水の香りが漂うだけ。
人質も、そして彼女を尋問しにきたはずのレイも、影も形もなかった。
「……いない。二人とも、消えた?」
レイが女神官に唆されて逃げ出したのか、あるいは彼が独断で彼女をどこかへ連れ去ったのか。
混乱がミュロンの思考を掻き回す。
しかし、立ち止まっている暇はなかった。
天幕の裏手、湿った地面に、闇夜に紛れるように続く二組の足跡。
一方は引きずられたような、もう一方は力強い踏み込みの跡。
「待ってなさいよ、レイ……! 勝手な真似は、私が許さないんだから!」
嫉妬、不安、そしてハボンから禁じられたはずの烈火のごとき執着。
ミュロンは腰の短剣を確かめると、夜の森へと続く足跡を追い、獣のような速さで走り出した。
その瞳には、かつてないほどの鋭い決意が宿っていた。




