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第二部第二十八話:幕間の岐路、それぞれの誓い

第二部第二十八話:幕間の岐路、それぞれの誓い


「……リーヴィス。リーヴィス、起きなさい」

子守唄のように優しく、しかしどこか冷涼な響きを持った声が、まどろみの深淵にいたリーヴィスの意識を揺り起こした。

ゆっくりと重い瞼を開いたリーヴィスの視界に飛び込んできたのは、見紛うはずもない、白銀の法衣に身を包んだ実の姉の姿だった。

「リディアお姉様……っ!」

驚きのあまり、リーヴィスはシーツを掴んで跳ね起きようとした。

しかし、リディアは手袋に包まれた細い手をそっとリーヴィスの肩に添え、それを物静かに制した。

その氷細工のように美しいかおには、いつもの厳格な聖女の表情ではなく、肉親に向ける微かな憂いが滲んでいる。

「無事にあの悍ましき無限城を脱出できたのですね。……あなたならきっと大丈夫だと、私は信じていましたよ」

リディアの口から紡がれたのは、優しい嘘だった。

実際にはリーヴィスを見捨て、天王玉の確保を優先したのであった。

その言葉の温かさに、張り詰めていたリーヴィスの目から大粒の涙が溢れ、ポロポロと頬を伝い落ちる。

「お姉様こそ、よくご無事で……。それに、その手にあるのは……」

リーヴィスは震える手で、リディアの指先を力無く握りしめた。

リディアのもう片方の掌の上には、至高の神聖さを放つ「天王玉」が、静かに、しかし圧倒的な光を湛えて浮遊していた。

リディアはその輝きを妹へと向け、厳かに、天王界の最上級の祝福の呪文を唱え始める。

「――光満ちる天上の御名において。あなたと、あなたの胎内に宿る新しき生命に、大天使セレシオンと聖王フレイアードの不滅の祝福がありますように」

本来の天王界の厳格な規律に照らし合わせれば、婚姻の儀も経ぬまま、ましてや「黒い死神」と恐れられる人間の男の種を宿すなど、決して許されざる大罪であり、不潔の極みとして断罪されるべき事象であった。

だが、現在のリディアの瞳はすべてを見通していた。

妹リーヴィスは、もはや天王族の庇護を必要としない、全く新しい世界の住人――「地王界」の象徴となる存在であることを、誰よりも深く理解していたのだ。

「……私は、もうタルカには戻りません。ここで、あの方と共に生きます」

涙を拭い、リーヴィスは母としての強い光を瞳に宿して告げた。

「お好きなようになさい。あなたには、あなたの歩むべき道があります。――健やかに」

リディアは冷徹なほどに淡々とそれだけ言うと、妹の手をそっと離した。

彼女が身を翻した瞬間、教会の空間がガラスのようにひび割れ、不気味な漆黒の亀裂が口を開く。

聖女はその闇の中へと、光の残照だけを遺して音もなく消え去っていった。


一方、六つの塔による大結界の儀式を終えたばかりの学院の塔。

そのどす黒い瘴気が渦巻く一角に佇むネヴェルの元にも、予期せぬ恐るべき「客人」が姿を現していた。

「――死ねぇぇ、ネヴェルッ!!」

空間の闇を引き裂くような怒号とともに、巨大な戦斧を両手で振りかざし、獰猛に斬りかかったのはゴブリン、ゴビンゴであった。

刃がネヴェルの首皮一枚に迫る。

しかし、魔王力を掌握したネヴェルは、見向きもしなければ、眉一つ動かさなかった。

「……身の程を知れ、羽虫が」

ネヴェルが指先をわずかに動かした瞬間、虚空から実体のない「魔王力の見えない鎖」が無数に這い出て、ゴビンゴの太い四肢と首元を瞬時にがんじがらめに縛り上げた。

「ぐううぅぅっ……、が、はっ……!」

骨が軋み、肉がひしゃげるほどの強烈な圧迫に、ゴビンゴは圧殺されかけながらも、血走った眼でネヴェルを睨み据えた。

「貴様の、貴様らのせいで……テルセイの仲間たちはみんな、狂っちまった……! おかしくなっちまったんだ! ……元に戻せ……っ、それができないなら、今すぐここで殺してやる……!」

ゴビンゴはありったけの精神力と野生の全エネルギーを爆発させ、ネヴェルの呪縛を解こうと足掻いた。

だが、圧倒的な魔王玉の出力の前には、身動き一つすることすら叶わない。

「無駄な足掻きはやめろ、ゴブリン。――もっとも、今の私には、貴様ごときの矮小な命をわざわざ取ろうという興をそそられんがな。大人しく、これから世界がどう変転していくか、その特等席で見物しているがいい」

ネヴェルのどこまでも傲慢で不遜な態度。それが、瀕死のゴビンゴの魂の底にある「何か」を烈火のごとく刺激した。

(俺は……ここで終わるわけにゃいかねえ……!)

「ぐぅぅぅぅ、おおおおおっ……!!」

ゴビンゴの肉体が、異様な変貌を遂げ始める。

かつてリーヴィスから授かり、彼の理性を保ち続けていた僅かな「天王力」の残滓が、ネヴェルの魔王力に完全に押し潰されて消滅した。――だが、その光が消えた空白の体内から、底知れぬ未知の濁流がドクドクと、凄まじい勢いで流れ込んできたのだ。

それは純粋にして凶暴な、目覚めたばかりの「地王力」。

「ぐ、あぁぁぁぁーーーッ!!」

ゴビンゴは雄叫びとも悲鳴ともつかない、大地を揺るがすような絶叫をあげた。

その瞬間、彼を縛り付けていた魔王力の鎖が、内側から弾け飛ぶようにして木っ端微塵に粉砕されたのだ。

自由になった両腕で、彼は再び戦斧を最高潮の力で振りかざし、ネヴェルの脳天へと叩きつける。

ズガァァァンッ!!

激しい砂塵が舞う。しかし、その強烈な一撃は、すでに空間を転移していたネヴェルの残像をすり抜け、虚しく地面を叩き割っただけに終わった。

「――素晴らしい。神にも魔王族にもよらず、己の精神から力を紡ぎ出すか。……ゴブリンよ、また会おう。お前が真の戦士となった時にな」

暗闇の深淵に吸い込まれるようにして、ネヴェルの不気味な気配は完全に消失した。

後に残されたのは、ゼェゼェと荒い息を吐きながら、自らの掌に宿った新緑の輝きを見つめる、ゴビンゴ一人の姿だけであった。


遠くミレトーの強固な城壁を遥かに見渡せる、小高い丘の上の岩陰。

ミュロンと巨漢のバルトは、夜風に砂防の外套をはためかせながら、ミレトーを囲む六つの塔から天へと放たれる、極彩色の光の帯をじっと見つめていた。

新月の闇を切り裂くその光景は、恐ろしいほどの神聖さを醸し出している。

「……綺麗でやんすねぇ、お嬢。いや、あっしとしては、その光に照らされてるお嬢の方が、よっぽどお綺麗だと思うんですがね……なんて、へへっ」

バルトは大斧を地面に突き立て、照れ隠しのように武骨な髭面を掻きながら、隣のミュロンを見上げた。

バルトなりの、傷ついた彼女を元気づけようとする精一杯の冗談だった。

しかし、ミュロンからの返答はない。

彼女の細い身体はピクリとも動かず、その瞳はただ、六つの塔の光をじっと凝視していた。

「……欲しい……。あの力が、欲しい……。レイを……絶対の力が……」

「お嬢……?」

地を這うような、不気味に響くミュロンの呟きに、バルトの背筋に冷たい戦慄が走った。

ゆっくりと振り返ったミュロンの顔――その首筋から顔面にかけて、紫色の禍々しい「メルフェレーンの呪紋」が脈打つように浮かび上がり、その瞳は完全に正気を失った、底知れぬ魔の深淵へと変貌していた。

彼女の中に深く潜み、レイへの嫉妬心を餌にしていた魔王母メルフェレーンが、ついにその精神の表層へと這い出てきたのだ。目の前にいるのは、もう彼が知っている、勝気で不器用な「お嬢」ではなかった。

だが、バルトは突き立てた大斧の柄を、文字通り指が白くなるほどの力でギリギリと握りしめた。

(たとえ、お嬢の魂がどれだけ深い闇に落ちようが……悪魔にその身体を乗っ取られようが、関係ねえ)

彼にとっての絶対の主は、世界でただ一人、このミュロンだけなのだ。

バルトは狂気に染まりゆく彼女の横顔を、どこまでも濁りのない、一途な忠義の瞳で見つめ返した。

たとえ世界を敵に回すことになろうとも、命に代えてもこの人を守り抜く。

極彩色の結界が夜空を焦がすその不穏な光の夜、無骨な戦士は、己の魂を賭けた絶対の誓いを胸に刻み込むのだった。

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