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第二部第二十九話:新生の産声、そして遙かなる旅路

第二部第二十九話:新生の産声、そして遙かなる旅路


地王暦元年のことである。


激動の夏が過ぎ去り、大地の結界がミレトーを包み込んでから数ヶ月。

大陸を吹き抜ける風が寒冷な冬の訪れを告げ、その年の末が間近に迫った頃。

厳かさとぬくもりを湛えたミレトーの壮麗な大教会の一室に、天を割るような、力強く気高い赤子の産声が響き渡った。

「――お生まれになりました! 元気な、本当に元気な男児にございます!」

産婆の歓声とともに、祝福の鐘の音が王都の冬空へと鳴り響く。

ベッドの上で、大粒の汗に濡れた金髪を乱しながらも、聖母のような慈愛の微笑みを浮かべているのはリーヴィスであった。

その腕に抱かれた小さな命――レイとの間に生まれた我が子を、彼女は壊れ物を扱うように優しく、しかし確かな温もりを確かめるように抱きしめた。

宰相ガーヴィという巨悪の呪縛から解き放たれたアレクサンダー王は、レイの地王力によって胸元の呪紋を完全に浄化され、かつての全盛期を思わせる圧倒的な覇王の権勢を完全に取り戻していた。

そして、新体制となった王国の宰相の座には、なんとあの老兵ハボンが就任したのだ。

「これなるは、我がアンクール王統の未来を担う若君……! おお、何という誉れか!」

豪奢な宰相の衣服に身を包みながらも、ハボンは相変わらず涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、赤子の前に平伏して号泣していた。

かつて泥を啜りながらレイを育てた老兵は、今や一国の政を司る重臣として、その変わらぬ忠義を捧げている。

王妃レイミアは、夫アレクサンダーの傍らで、愛おしげにその光景を見つめていた。

生き別れだった息子のレイス、そして心に深い傷を負った娘のミレース。

さらには新しくこの世に生を受けたレイスの愛児。

失われたはずの家族が再び集い、育まれる新たな命の温もりを前に、彼女は静かに祈りを捧げ、至上の幸せを噛み締めていた。

そして、その変化はミレースの心にも訪れていた。

愛するガーヴィを失い、一時は現世のすべてを拒絶するかのように心を閉ざしていた十四歳の少女。

しかし、兄であるレイとの間にあった凍てつくようなわだかまりは、赤子の存在によって次第に雪解けを迎えていった。

気づけばミレースは、ゆりかごの横にそっと寄り添い、小さな赤子の手を自らの細い指で包み込むようにして、熱烈に溺愛するようになっていたのだ。

「この子は……私たちが築いた『有限城』の、光そのものね」

彼女の深緑の瞳には、かつての冷徹な操り人形の影はなく、一人の叔母としての、そして未来を見つめる王女としての穏やかな光が宿っていた。


いつしか、ミレトーの救世主として教会に留まるリーヴィスは、人民の間で「地王母ちおうぼ」と称され、敬われるようになっていた。

彼女の存在そのものが、新しく生まれた地王界の平和と繁栄の象徴となっていたのだ。

大結界の恩恵により、ミレトーの教会では新たな試みが始まっていた。

かつてのように「神や他の王族と契約を結び、力を分け与えてもらう」のではなく、人間の内なる魂を研ぎ澄まし、「自らの体内から純粋な王力を捻り出す」という、地王力の画期的な運用法の伝授である。

もちろん、誰もが簡単に使える奇跡ではなかった。

厳しい修練と、強靭な精神が求められる。

しかし、教会に通う志高き戦士や魔導師たち、さらには街の亜人たちの中にすら、自らの肉体から仄かな地王力を漂わせる者が現れ始めていた。

「俺たちの身体が変わっていく……。人間やゴブリンの枠を超えて、新しい種族へと向かっているんだ」

それは、ただの技術の伝播ではない。

ミレトーを中心とした世界が、神々の支配から脱却し、「地王族」という新たなる高次の存在へと進化し始めている胎動を、人民は誰もが肌で感じ取っていた。

その一方で、世界の調和は未だ薄氷の上の平穏であった。

天王族の聖女リディアは、儀式の後、すぐさまイスキスの城塞へと帰還した。

彼女は再びその氷の美貌を引き締め、国境線に陣取る魔王族を鋭い眼光で牽制する、終わりのない防衛の日々へと戻っていった。

対するネヴェルは、テルセイ魔導帝国の玉座の後ろに潜み、影の支配者として暗躍しながら、自らの「魔王玉」の力をさらなる深淵へと高めていた。

イスキスとテルセイ。

光と闇の両雄が睨み合うその国境線は、ミレースの大結界によって一応の「停戦状態」とはなったものの、実際には、血で血を洗う局地的な小競り合いが日常茶飯事のように続いており、一触即発の緊張感が大地を包んでいた。

また、半竜王族のアストレイアと、半海王族のハミッシュの二人は、ミレトーの政争には深く関わらず、それぞれの王玉の「真の所有者(正統なる純血の王族)」を求め、再び果てしない世界の地平へと旅立っていった。

そして、静寂を好む半冥王族のブルドは、荘厳な寺院の奥底で、相変わらず胡坐を組み、物言わぬ冥王玉を前に深い瞑想を続けていた。

彼はその理知的な瞳を閉じ、冥王界の至宝から世界の真理を貪欲に学び取ろうとしていた。

「王玉は、純潔なる王族へと受け継がれるべきである」

それこそが、かつてこの世界を裏から設計した「無王ネヴェラード」の絶対の遺志であった。

「半王族」が歴史の表舞台に集められたのも、神々の介入を防ぎ、人間のための世界――すなわちこの『地王界』を盤石に創り上げるための、使い捨ての歯車に過ぎなかったのだ。

地王界がここに成立し、歯車としての役目を終えた以上、手元にある王玉を本来の主たちへ返すことこそが、歴史の筋というものだろう。

もっとも、リディアやネヴェル、そしてブルドといった、力そのものに魅入られた超越者たちに、そのような殊勝な意思は微塵もなかったが……。

それどころか、「王玉」という絶対的な力の器がこの現世に存在していると外界に知れ渡った以上、それを中途半端に抱え込んでいては、いずれ結界の向こう側の未知なる脅威から、苛烈な侵略を招きかねないという大いなる危険をも孕んでいた。


「――どうしても、行くというのか? レイス」

王宮のテラス、遮るもののない冬の青空の下で、アレクサンダー王は寂しげに、しかし息子の決意の固さを知りながら問いかけた。

再会を果たしてからまだ日も浅く、父親らしいことを何一つしてやれていないという無念さが、その厳格な横顔に滲んでいた。

「まあな。王玉の行く末を、この目で最後まで見届けなきゃならねえ。それに……結界の外にゃ、まだまだ小賢しい魔王族の残党どもが蔓延っていやがるからな」

レイは漆黒の外套を風に翻し、ニヒルな笑みを浮かべた。

その手元で、大地の至宝「地王玉」がドクドクと、まるで行く手を祝福するように温かい脈動を刻んでいる。

「そう暗い顔すんなよ、親父殿。今の俺にとっちゃ、このミレトーの大地は俺の身体の一部みたいなもんだ。まあ、いつでもチョチョイと、風のように戻って来れるさ。心配しないでくれよ」

レイは地王玉を親指でチラつかせながら、軽口を叩いて父親の肩を叩いた。

「レイ……どうか、お身体に気をつけて」

背後から、静かな足音が近づく。

純白の法衣を纏ったリーヴィスが、愛おしげに赤子をその胸に抱いたまま、レイの隣へと寄り添った。

彼女の瞳には、夫を戦地へと送り出す寂しさと、それを遥かに凌駕する、絶対的な信頼の光が宿っている。

レイは何も言わず、大きな腕を伸ばして、リーヴィスと、その胸の中でスヤスヤと眠る我が子の二人を、壊れぬように優しく、しかし力強く抱きしめた。

その胸の鼓動を、大地のぬくもりを、自らの魂に深く刻み込むように。

「――行ってくる」

耳元で、ただそれだけを短く、ぶっきらぼうに告げた。

それが、「黒い死神」と呼ばれた戦士の、不器用で最大の愛の誓いだった。

振り返る。

その視線の先には、これからの世界の混沌が、そして新たなる王玉の戦いが待ち受けている。

しかし、今のレイの足取りに迷いはなかった。

彼が踏み出す一歩一歩に、ミレトーの大地が共鳴し、確かな力を与えてくれる。

後に――ミレトーを中心に、西のタルカ、イスキス、南のテルセイを含むこの大結界の内側の地域全体を、人々は深い親愛と敬意を込めて、「リーヴィッシュ」と呼ぶことになる。

地王母リーヴィスの名を冠したその聖域は、これから始まる、さらに苛烈なる運命の嵐の中で、人類の、そして進化した地王族の最後の砦となるのであった。



(第二部・完 / 第三部へ続く)

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