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第二部第二十一話:血の約束、偽りの天冠

第二部第二十一話:血の約束、偽りの天冠


薄暗いミレトー王宮の謁見の間。

かつて奴隷剣士の軍勢を率い、圧倒的な武勇で大陸を震撼させた覇王アレクサンダーは、巨大な玉座に深く背を預けていた。

その逞しかった身体は重苦しい沈黙に包まれ、かつての太陽のような快活さは見る影もない。

静寂を引き裂くように、軽やかな足音が大理石の床に響く。

現れたのは、若き宰相ガーヴィであった。

「グランバード陛下! ご機嫌はいかがですか。お顔の色が優れないようですが」

ガーヴィは洗練された身のこなしで一礼した。

端正な顔立ちに浮かぶのは、完璧に計算された臣下としての微笑。だが、その切れ長の琥珀色の瞳の奥には、冷酷な嘲笑が張り付いている。

「……貴様の顔を見るまでは、上々だったさ」

アレクサンダーは低く地鳴りのような声で鼻を鳴らし、睨みつけた。

「釣れないですな、義父上ちちうえ

「貴様に義父上呼ばわりされる覚えはない!」

「おや、おかしいですな。貴方が愛娘をこの私の前に差し出したのをお忘れですか? ――この国の豊かな支配権と引き換えにして」

ガーヴィがその瞳を妖しく一閃させた瞬間、アレクサンダーの衣服の隙間、褐色がかった肌の表面に、ドクドクと不気味な脈動を伴って漆黒の「契約の呪紋」が浮き上がった。

激しい激痛が全身を走り、アレクサンダーは玉座の肘掛けをギリギリと軋ませて耐える。

「くっ……。あれは、間違いだった。いや、あの時は……そうするしかなかったのだ……」

苦悶の喘ぎの中で、アレクサンダーの記憶は十五年前の、あの泥濘の戦場へと逆流していった。


十五年前、地獄王グランバードことアレクサンダーの軍勢は、破竹の勢いでイスキスの地を席巻し、東へ東へと進撃を続けていた。しかし、このミレトーの地に足を踏み入れた途端、戦況は一変した。

狡猾な魔王族の包囲網に嵌まり、補給線を断たれ、軍勢は完全に孤立無援の危機に陥ったのだ。

全滅を覚悟したアレクサンダーの前に現れたのが、当時のこの地を支配していた魔王ガルブであった。

ガルブはアレクサンダーの最愛の妻であり、魔王族をも魅了する美貌を持つレイミアに目をつけ、「女を引き渡せば、ミレトーの支配権を譲り、軍勢を逃がそう」と持ちかけてきた。

当然、アレクサンダーは激怒し、その提案を叩き斬るように拒絶した。

すると、ガルブは不敵に笑い、もう一つの条件を提示したのだ。

「では、お前たちの間に生まれる『娘』と交換しよう」

その瞬間、アレクサンダーの心に致命的な隙が生まれた。

当時、彼らの間にはまだ娘がいなかった。――「今いない娘」との取引ならば、目の前の軍勢と最愛の妻を救うための方便として、乗っても構わない。

そう己に言い訳をして、アレクサンダーは魔王との絶対的な契約を結んでしまったのだ。

ガルブは不気味な笑みを浮かべ、契約の証としてアレクサンダーの肉体に強固な呪紋を刻みつけた。

しかし、運命は残酷だった。翌年、レイミアとの間に、目に入れても痛くないほど愛らしい王女ミレースが誕生したのだ。

激しい後悔と恐怖に駆られたアレクサンダーは、片腕たるミノタウルス・クレイトスとロシェの二人だけを伴い、契約を無効化するために魔王ガルブの根城へと乗り込んだ。

死闘の末、アレクサンダーの大剣がガルブの心臓を貫き、魔王は絶命した――はずだった。

ガルブの死と共に呪紋も消え去り、平穏が戻ったと誰もが信じていた。

だが、すべては仕組まれた狂言だった。

ミレースの十ニ歳の誕生日の席上。

若き天才宰相として宮廷にのし上がっていたガーヴィが、公然と王女への求婚を申し出たあの悪夢の日。

「貴様! 身の程を知れ!」

アレクサンダーは激昂し、腰の剣を抜いてガーヴィを切り捨てようとした。

しかし、刃が届く前に、ガーヴィの瞳が妖しく光り、消えたはずの漆黒の呪紋がアレクサンダーの身体に猛烈な激痛と共に蘇ったのだ。

「あまり魔王族を舐めないでもらいたいですね、覇王アレクサンダー」

魔王族の血の契約は絶対であり、魂に刻まれる。

ガーヴィの正体こそ、あの時死を偽装し、人間の皮を被って宮廷の底から這い上がってきた魔王ガルブその人であった。

呪紋の絶対的な拒絶権の前に、アレクサンダーは指一本動かすことができず、ただ絶望に打ちひしがれるしかなかった。

その時、緊迫する座を収めたのは、わずか十ニ歳のミレース自身だった。

彼女は冷徹なほどに気丈な態度で、怯えることなくガーヴィの前に歩み出た。

「父上がお決めになったことであれば、私に異論はありません。お受けいたします」

白いドレスの裾を揺らし、ミレースは静かに手の甲を差し出した。

ガーヴィは歓喜に瞳を歪め、恭しく跪くと、その少女の滑らかな肌に口付けを落とした。

その光景、自らの過去の過ちが愛娘の未来を縛り付けたという事実は、長きにわたりアレクサンダーの精神を内側からじわじわと蝕み、今も彼を苦しめ続けていた。


「……話が長くなりましたな」

ガーヴィは懐から一通の羊皮紙を取り出し、玉座の前の机に滑らせた。

「陛下! 神聖タルカ法国との同盟案は完全に破棄いたします。ミレトー王国は、これより始まる大戦において『完全なる中立』を宣言いたします」

「ふん……。何を今更。どうせ、裏でもう決めたことであろうが!」

アレクサンダーは呪紋の痛みに耐えながら、忌々しそうに吐き捨てた。

国政の全権はすでにガーヴィに奪われている。

今更、王である自分の許可などただの飾りに過ぎない。

「おやおや、形の上とはいえ、王であるあなたの認可をいただきませんとな。形式は大事ですよ。それに……これは、ミレース様ご自身の強い『希望』でもあるのですから」

ガーヴィがその名を口にした瞬間、アレクサンダーの動きが微かに止まった。

「ミレースが……そう言うのであれば、仕方あるまい」

娘の名を出されては、アレクサンダーに拒む術はなかった。

彼は震える手で重い羽ペンを握ると、王国の運命を分かつ「中立宣言書」の末尾に、己の署名を乱暴に書き殴った。

ガーヴィは満足そうに書状を回収し、胸元に収めた。

(――果たして、本当に操っているのはどちらだ?)

ガーヴィが下がろうとしたその瞬間、アレクサンダーの脳裏に、ふと妙な疑問がよぎった。

娘の望みを全て叶える美貌の宰相ガーヴィ。

だが、あの無限城に酷似した「予言の六塔」を建てさせたのはミレースだ。

ガーヴィが娘を操っているのか、それとも、娘が魔王をも手玉に取り、この状況を作り出しているのか。

アレクサンダーの脳裏に、かつて妻レイミアの望むまま魔王族や世界を敵に回し、不敵に笑いながら全てをひっくり返していった「若き日の自分自身」の傲慢な影が重なる。

血は争えない。

あの娘の中には、間違いなく自分の、そしてレイミアの狂気が流れている。

アレクサンダーは不快そうに手を振り、ガーヴィをその場から下がらせた。

一人残された薄暗い謁見の間。

覇王は自らの肉体を蝕む呪紋をなぞりながら、自嘲気味に、口の端を吊り上げて歪に笑ってみせるのだった。

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