第二部第二十話:嫉妬の軛、呪縛の羅針盤
第二部第二十話:嫉妬の軛、呪縛の羅針盤
その夢の中で、ミュロンはいつも、果てしない荒野をただ一人で走り続けていた。
遥か前方、彼女が焦がれてやまないレイの背中が見える。
しかし、その強固な腕は、自分ではなく別の女を、あの清廉で忌々しい聖女の妹リーヴィスを、壊れ物を扱うかのように愛おしげに抱き寄せていた。
どれだけ声を張り上げても、どれだけ地を蹴って手を伸ばしても、二人の背中は遠ざかるばかりで、決して追いつくことはできない。
「――レイ……! なぜ私を見ない……!」
胸の奥底からドロドロとした激しい嫉妬心が湧き上がり、五臓六腑を焼くような猛烈な怒りと憎しみが彼女の魂を満たす。
世界への呪詛が最高潮に達したその瞬間、決まって「アイツ」が暗闇の深淵から這い出てくるのだ。
魔王母、メルフェレーン。
実体のない漆黒の霧のような、しかし酷く生々しい肉感を持ったメルフェレーンの影が、背後からミュロンの身体にしなだれかかり、その細い首筋や肢体に淫らに絡みついてくる。
「……ああ……、う、あ……っ」
金縛りに遭ったように指一本動かせぬまま、ミュロンはメルフェレーンの影にその肉体を、精神を、容赦なく弄ばれていく。魔王母の冷たくて生温かい指先が肌を這うたび、ミュロンの心に渦巻いていた「レイへの執着」や「リーヴィスへの憎悪」といった強烈な負の感情が、ズルズルと内側から吸い取られていくのが分かった。
それは、魂の髄まで侵食するような、快感を伴う凄惨な苦しみだった。
(この地獄から解放されるには……レイを見つけるしかない。いや、違う。あの女――リーヴィスを殺さねば、私は一生この闇から抜け出せない……!)
早くイスキス地方へ潜入し、タルカ軍の目を盗んでレイをあの女の手から奪還しなければ。
憎悪の炎を再燃させるミュロンに対し、彼女の胸元を愛撫していたメルフェレーンの影は、ふっと妖艶に微笑んだ。
そして、細長い指先を突き出し、ある一定の「方向」を無言で指し示した。
それは、彼女たちが目指していたイスキス地方やミレトー王都ではなく、さらにその「南方」の荒野だった。
「……そこに、レイがいるってのかい……?」
ミュロンが夢の中で喘ぎながら問いかける。
メルフェレーンの影は、慈母のようでありながら底知れぬ邪悪さを孕んだ瞳で深く頷くと、ミュロンの細い顎を持ち上げ、さらに深く、その身体への愛撫を続けていくのだった。
「お嬢! 起きてくだせぇ! お嬢っ!」
鼓膜を揺らす武骨な大声と、肩を激しく揺さぶる強靭な力によって、ミュロンは強制的に覚醒の世界へと引き戻された。
「……っは、あ、……ぁ!」
大きく息を吐き出しながら目を見開いたミュロンの視界に、岩屋の天井と、自分を本気で心配そうに覗き込んでいる巨漢バルトの髭面の顔が飛び込んでくる。
「ひでぇうなされ方でしたぜ! 額も身体も、まるで知恵熱でも出たみたいにガタガタ震えちまって……!」
バルトの太い指が触れようとした瞬間、ミュロンはそれを烈火のごとき勢いで撥ね退け、寝台代わりにしていた外套から弾かれたように飛び起きた。
「うるさい! 何でもないと言ってるだろ……っ!」
怒鳴り散らす彼女の呼吸は酷く乱れ、その肌は夢の余韻を残すように妙に熱く火照り、汗ばんでいた。
胸の動悸が収まらない。
バルトにその醜態を悟られまいと、ミュロンは髪を乱暴にかき上げ、冷え切った瞳に無理やり鋭さを戻した。
「……レイは、ミレトーに向かってる。いや、ミレトーのさらに南だ」
ミュロンは確信に満ちた、凍りつくような声で告げた。
その唐突な断言に、バルトは大きな頭をひねり、武骨な眉を寄せる。
「は? なんでそんなことが分かるんでやす? お頭がどこに移動したかなんて、密偵だって掴んじゃいねえはずですが……」
「何でもだよ! 四の五の言わずについておいで!」
ミュロンが荷物を掴んで立ち上がったその瞬間、彼女の衣服の隙間――首筋から胸元にかけて、ドクドクと脈打つようにして、不気味な紫色の「メルフェレーンの呪紋」が、まるで生き物のように浮かび上がった。
それは彼女がレイへの執着と嫉妬の炎を燃やすたびに、連動して肉体を侵食する呪いの刻印。
今も、夢の中で触れられた首筋のあたりが、メルフェレーンのザラザラとした舌で直に舐め上げられたかのように、生々しく疼いてやまない。
魔王母はミュロンの嫉妬心を餌にして、彼女の肉体を「レイを感知する生きた羅針盤」へと作り変えていたのだ。
ミュロンのただならぬ気迫と、その肌に走る異様な気配を察し、ハボンは沈黙した。レイの行方が分かったという歓喜と、目の前の一見して正気とは思えぬミュロンの様子に、複雑な表情を浮かべる。
冷徹な判断力を失いつつあるミュロンだったが、戦士としての本能だけで、二手に分かれる決断を下した。
「いいかい。レイの情報を完全に掴むまでは、全員で動くのはリスクが高すぎる。……ハボン、それにゴビンゴ。あんたたちは予定通り、このままミレトーの王都へ向かいな」
「しかし……! お頭が南方にいるというなら、ワシも一刻も早く……!」
ハボンが忠義の情から身を乗り出すが、ミュロンはその言葉を片手で冷酷に遮った。
「黙っておくれ、親父。あんたのその衰えた身体じゃ、南の荒野の行軍にはついてこれないよ。……バルト、あんたは私と来な。力尽くでも道を切り開くよ」
「へっ、お嬢の頼みとあっちゃあ、地獄の果てまでお付き合いしやすぜ」
バルトは己の大斧を叩き、獰猛な笑みを浮かべてミュロンの背後に従った。
ゴブリンの戦士・ゴビンゴは、ミュロンの首筋に走る呪紋の気配を、その鋭い野生の勘でじっと見つめていた。
彼の体内にあるリーヴィスの「癒しの天王力」が、ミュロンから放たれる魔王母の邪悪な残照に、かすかに拒絶反応を示してピリピリと痛む。
だが、旧知の仲間であるミュロンを信じ、今はその指示に従うことを選んだ。
「わかった、ミュロン。俺とハボンの親父で、ミレトーの王都側はきっちり探っておくからな」
「ふん……恩に着るよ」
ミュロンはそれだけ言い残すと、防砂の外套を翻し、バルトを伴ってミレトーのさらに南方へと急進路をとった。
彼女の胸中で燃え盛る嫉妬の炎が強まるほどに、羅針盤たる呪紋は激しく疼き、彼女をレイの元へと狂おしく誘っていく。
一方、ハボンとゴビンゴの二人は、重い足取りながらも、予定通りミレトー王都へと向かって歩みを進める。
王女ミレースと宰相ガーヴィが「予言の六塔」を築き、アレクサンダーが呪いに悶える因縁の王国。
その世界の中心へと、導かれて行くのだった。




