第二部第二話:煉獄の余燼、捕囚の瞳
第二部第二話:煉獄の余燼、捕囚の瞳
女神官リーヴィスは、幼き頃より「慈悲」という名の重荷を背負ってきた。
戦争には断固として反対しながらも、彼女が最前線の泥濘に身を投じたのは、たった一つの祈りゆえだ。
(一人でも多く……傷ついた魂を、光のもとへ繋ぎ止めたい)
しかし、目の前の現実は、彼女の純粋な信仰を無残に踏みにじった。
視界を埋め尽くすのは、雪崩のように押し寄せるテルセイの魔王軍。
鉄錆と腐肉の臭いを撒き散らす魔獣の群れが、悲鳴を上げる間もなく味方の兵士たちを肉塊へと変えていく。
空を舞う悪鬼が魔法の業火を降らせ、地を這う餓鬼が息絶えぬ者の喉を掻き切る。
そこに慈悲など微塵も存在しない。
ただ効率的な殺戮が繰り返される地獄の底で、リーヴィスは己の無力さを呪い、迫り来る敵の刃に瞳を閉じた。
(……ああ、せめて次の生では、誰も傷つかぬ世界を)
だが、いつまで経っても「死」の衝撃は来なかった。
代わりに彼女の鼓膜に届いたのは、鋼が震えるような低い溜息と、混乱に満ちた周囲の怒号だった。
レイは、剣を向けたリーヴィスの姿に、呼吸を忘れていた。
返り血で汚れた戦場にあって、彼女だけがまるで聖域から切り取られたかのように神聖で、かつて見たことがないほどに「美しかった」。
その時だった。
タルカ軍の後方、遥か天を突く山嶺の向こうから、夜を昼に変えるほどの強烈な閃光が降り注いだ。
「……っ、なんだ!?」
レイが腕をかざして光を遮ろうとした瞬間、彼の肉体に異変が起きる。右腕に刻まれたバローダの呪紋が、焼けるような熱を発したかと思うと、煙を上げて剥がれ落ちていったのだ。
「こいつは……マズい!」
周囲を見渡せば、空を舞っていた魔神たちが悲鳴を上げて内側から燃え上がり、石塊となって墜落していく。
契約魔神バローダとの繋がりが絶たれた――それは、傭兵にとって最大の武器であり盾である「魔王力」の喪失を意味していた。
「危ない!」
黒焦げになった巨大な魔獣の死骸が、重力に従って指揮車へと落下してくる。
レイは咄嗟にリーヴィスの細い腰を引き寄せ、彼女を抱いたまま車から飛び降りた。
着地の衝撃を殺し、駆け寄る愛馬の背へリーヴィスを放り投げると、自らも跨り手綱を引く。
「ミュロン、退却だ! 急げ! ここはもう死に体だ!」
「何がどうなっちまったんだよ! 呪紋が消えちまった!」
「バローダの奴がやられたか、契約が強制的に断たれたかだ。これ以上はタダ働きどころか、命を捨てるだけになる。逃げるぞ!」
テルセイ軍は総崩れとなった。
空を支配していた怪物たちが一掃された恐怖は、瞬く間に地上軍へ伝染し、軍勢は散り散りに敗走を始めた。
幸いにも法国軍の追撃は緩やかだったが、レイたちは一刻の猶予も置かず、闇に紛れて戦場を離脱した。
数刻後、戦場のはるか後方。
古びた砦の跡地に設営された野営地に、レイたちは辿り着いた。
出迎えたのは、白髪混じりの髭を蓄えた守備隊長、ハボンである。
かつての傭兵団長であり、レイにとっては父親代わりとも言える数少ない「信頼できる人間」だ。
「お頭、御無事でなにより。……だが、その呪紋の跡はどういうことです」
ハボンはレイの腕を見て、眉をひそめた。
「魔神どもが消えた。……追撃が来るぞ。見張りを通常の三倍にしろ」
レイは愛馬から、気を失ったままのリーヴィスを下ろした。
「……その娘は? タルカの神官とお見受けしますが」
「そうだ。……新しい魔神と契約するための『生贄』にする。こいつなら、バローダ以上の高位魔神を呼び出せるはずだ」
「ははあ、こいつは上玉だ! これほどの神官なら、さぞかし強力な加護が得られますぜ」
下卑た笑いを浮かべるハボンを、レイは冷徹な眼差しで射抜いた。
「ハボン。誰にも触れさせるな。生贄の価値が下がる。天幕に閉じ込め、厳重に拘束しておけ」
焚き火を囲む傭兵団の間では、憶測と動揺が渦巻いていた。
「怪物だけが死んだ? 天使の介入か?」
「人間には効かない魔法なんて、聞いたことがねえ」
「魔神が死んでちゃ、癒しの魔法も使えやしねえ」
ミュロンが苛立たしげに己の腕を眺める中、レイは静かに立ち上がった。
「いずれにせよ、現状のままでは戦にならん。まずは態勢を立て直す。……そのための『代償』を払いに行く」
レイは部下たちの視線を背に、リーヴィスが閉じ込められた奥の天幕へと向かった。
幕を捲れば、そこには月の光に照らされたリーヴィスが、縄で縛られたまま横たわっていた。彼女のまつ毛が微かに震え、ゆっくりと瞳が開かれる。
「……目が覚めたか。君たちの『神』が何をしたのか、教えてもらいたい」
その低い声は、かつて三人の運命を狂わせた「地獄王」の如き覇気を、微かに孕んでいた。




