第二部第一話:昏き胎動、双眸の残照
第二部第一話:昏き胎動、双眸の残照
見渡す限りの赤土の平原が、二つの巨大な殺意を隔てて静まり返っていた。
北方より威風堂々と進軍してきたのは、神聖タルカ法国の精鋭軍である。
西日に照らされた白銀の鎧は、規律正しく整列した万の兵たちの呼吸に合わせて波打ち、一点の乱れもない「静」の威圧感を放っている。
彼らは天上の法を尊び、神の代行者としての矜持をその盾に刻んでいた。
対する南方、地平線を黒く塗り潰すように布陣するのは、テルセイ魔導帝国。
軍装は統一されず、鋼の鎧を纏う人間、粗末な革具に身を包んだ小鬼や屍鬼といった亜人たちが、獲物を前にした獣のごとく入り混じっている。
陣営の後方では、山のような巨躯を持つ怪奇な魔獣たちが、鎖を軋ませて地響きのような唸りを上げていた。
帝国の若き傭兵隊長レイは、愛馬の首を軽く叩きながら、その冷徹な双眸で敵陣を見据えていた。
整った顔立ちは若さに似合わず落ち着き払い、戦場の熱気から切り離されたような静寂を纏っている。
「……なかなか攻めて来ないね。随分長いこと、お互いの顔を拝んでるじゃないのさ」
苛立ちを隠そうともせず馬を寄せたのは、女戦士ミュロンだ。
レイよりもさらに幼い面影を残しながらも、好戦的な光を宿した瞳が獲物を求めて細められている。
「落ち着けよ、ミュロン。もう直ぐ日が暮れる。そうなれば、夜を友とする我らが有利だ」
レイは淡々と答え、後方の魔獣たちに視線を投げた。
魔王族が支配するテルセイ帝国において、魔力を持たぬ人間は最下級の奴隷階級に過ぎない。
魔王族から離反し、天王族の軍門に降った数千年前の「裏切り者」の子孫たちは、今や天王族と契約することでその身に天王力を宿し、魔王族と泥沼の代理戦争を続けていた。
「なんでも良いからトットとおっ始めて欲しいね」
ミュロンはぶっきらぼうに言い捨て、退屈そうに大きな欠伸を一つした。
「……大した度胸だな」
レイは苦笑した。
死の淵にあってなお、これほど不遜に振る舞える彼女の精神は、ある意味でどの魔獣よりも強靭に見えた。
「当たり前でしょ! レイは私が守ってあげるよ!」
ミュロンは小さな皮の胸当てをドンと拳で叩き、不敵に笑った。
その瞬間、後方から馬を飛ばしてきた伝令が叫びを上げる。
「伝令! 日没と共に進軍開始! 総員、抜剣せよ!」
太陽が地平線の彼方へ没し、世界が紫紺の闇に包まれる。
それが殺戮の幕開けの合図だった。
レイは腰の剣を抜き放ち、天へと掲げた。
「全ての戦果を、我が主・守護魔神バローダに捧ぐ!」
「「「魔神バローダに!」」」
傭兵団の咆哮が夜気を震わせる。
戦場で屠る敵の魂はすべて生贄となり、魔神の餌となる。
その対価として、彼らは人を超越した「魔王力」を授かっていた。
「進軍せよ!」
日没を合図に、号令のラッパが鼓膜を突き抜ける。
テルセイの騎馬隊が、黒い濁流となってタルカの防衛線へ押し寄せた。
対する法国軍は、巨大な盾を隙間なく並べ、その間から無数の槍を突き出す「重装歩兵密集陣」でこれを迎え撃つ。
「――穿て」
疾走する馬上で、レイは右腕の皮膚に刻まれた「呪紋」をなぞった。
魔神との契約の証たる魔法陣が、脈動するように不気味な紫の光を放つ。
瞬時、レイの指先から放たれた衝撃が敵の前列を直撃した。
大地が爆ぜ、猛烈な炎の壁が法国兵たちを飲み込んでいく。
「そんじゃ! コッチも行くよー!」
ミュロンが掌をかざす。
彼女の呪紋が輝くと同時に、戦場に局地的な竜巻が巻き起こった。
密集していた法国の兵士たちは、重い鎧ごと木の葉のように宙へ巻き上げられ、陣形は瞬く間に瓦解した。
「突撃! 隙を突け!」
レイの率いる傭兵団は、混乱に陥った前線を容易く食い破り、第二陣へと深々と食い込んだ。
血飛沫を浴びながら敵陣を蹂躙するレイの視界に、四頭立ての白馬が引く豪華な「指揮車」が捉えられた。
そこには、前線に防御魔法を供給し続けている高位の神官が乗っているはずだ。
神官は天王族の加護を色濃く受けた「高貴な生贄」であり、雑兵百人を屠るよりも魔神への供物としての価値が高い。
「道を開けろ」
レイは左手をかざし、行く手を阻む護衛騎士たちに向けて爆縮の呪文を解き放った。
轟音と共に防衛線が吹き飛び、レイは愛馬を跳ねさせ、疾走する指揮車へと鮮やかに飛び移った。
「無礼者め! 天罰を食らうが良い!」
指揮官らしき男が剣を振り回して立ち塞がるが、レイの冷徹な一閃がその喉元を易々と断ち切った。
崩れ落ちる指揮官。
護衛たちは恐れをなして車から飛び降り、逃げ惑う。
静まり返った指揮車の奥。
レイが剣を向けた先に、一人の女性が座っていた。
装飾の施された聖衣に身を包んだその神官は、死を前にしても取り乱すことなく、静かにレイを見つめていた。
「……女か」
剣の先を突きつけたまま、レイの動きが止まった。
その女神官の瞳に惹きつけられたのだ。
テルセイの女たちが持つ情熱や殺意、あるいは絶望に彩られた濁った瞳とは違う。
それは、深い森の泉のように透き通り、慈悲と強さを宿した、見たこともないほど「綺麗な瞳」であった。
戦場の狂騒が遠のき、レイの心に予期せぬ戦慄が走った。二人の視線が交差した瞬間、運命の歯車が、かつて三人の英雄が辿ったあの残酷な輪廻へと再び噛み合い始めた。




