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第二部第十七話:境界の孤独、邂逅の旅路

第二部第十七話:境界の孤独、邂逅の旅路


イスキス地方の最前線。

そこは今や、光と闇の絶対的な結界が激突し、互いを激しく削り合う「世界の裂け目」と化していた。

聖女リディアが掲げた真の天王玉による純白の結界と、遥か東のテルセイ魔導帝国から這い寄るネヴェルの漆黒の魔王力。

二つの超常的な力が激突するその狭間に、見えない、しかし絶対的な境界線が成立していた。

その泥にまみれた戦場で、ゴブリンの戦士ゴビンゴは、それまで悪鬼のごとき武勇を誇り、血飛沫の中で斧を振るっていた。

人間の戦士にも劣らぬ引き締まった褐色の皮膚を持つ彼は、その頑強な肉体で数々の修羅場をくぐり抜けてきた。

だが、リディアの帰還以降、戦場を満たした天王力の奔流は亜人たちを恐怖させ、ゴビンゴもまた、軍勢の潮流に流されるようにして後退を余儀なくされていた。

しかし、戦況が膠着し、南から「魔王力の霧」がなだれ込んできた時、不気味な異変が起こった。

周囲のゴブリンや野獣、亜人たちが、そのどす黒い霧を吸い込んだ瞬間、一斉に血の涙を流して狂い始めたのだ。

彼らの精神はみるみる邪悪に染まり、筋肉は異常に膨張し、皮膚は不気味に黒く変色していく。

肉体的な戦力が爆発的に強化されていくその有様に、ゴビンゴは最初は「これで人間どもを圧倒できる」と満足感を覚えていた。

だが、異変はすぐに致命的な形で彼を襲う。

「……グルルル……キサマ、何だ……? その『濁り』は……!」

一匹の巨大化した黒いゴブリンが、濁った瞳を血走らせ、鋭い牙を剥き出しにしてゴビンゴを睨みつけた。

気づけば、周囲の仲間たちが一斉に戦いを止め、ゴビンゴを取り囲んでいた。

彼らの目は、敵である人間を見るそれよりも、さらに深い、生理的な嫌悪と敵意に満ちていた。

魔王力の霧に完全に汚染され、凶暴な「魔の怪物」と化したゴブリンたちにとって、正気を保ち続けているゴビンゴは、あまりにも異質で許しがたい「異物」だったのだ。

「おい、どうしちまったんだ!? 仲間だろ、やめろ、やめろーーっ!」

ゴビンゴは悲痛な叫びをあげた。だが、理性を失ったかつての同胞たちは、容赦なく肉薄し、鋭い爪や大槌を振り下ろしてくる。

ゴビンゴは生き延びるため、必死に斧を振るい、仲間の包囲を辛うじて掻き分けて、命からがら狂気の戦場から逃げ出した。

――なぜ、自分だけが狂わずに済んだのか。

ゴビンゴには知る由もなかった。

彼のその肉体の奥底には、かつてあの優しき少女、リーヴィスから注がれた「癒しの天王力」の温もりが、今も消えずに息づいていたのだ。

聖女の妹が遺したその清らかな奇跡が、ゴビンゴの精神のコアを守る盾となり、ネヴェルの邪悪な魔王力による汚染を完全に拒絶していた。

そればかりか、リディアが放つ強烈な天王力の結界に対しても、確かな耐性を与えていた。

天の光と魔の闇、双方から拒絶され、しかし双方の力を身に宿した奇妙な存在となったゴビンゴは、わけもわからぬまま、ただ生き延びるために、血塗られた戦場を後にした。


東へ、東へ。

魔王軍の追っ手からも、人間たちの眼からも逃れるように、ゴビンゴは荒涼とした岩場をひたすら走り続けていた。息を切らし、褐色の身体を縮めて岩の亀裂を通り抜けたその時――。

彼の目の前に、不自然なほど静まり返った人間の小集団が現れた。

「――動くな」

低く、しかし聞き覚えのある鋭い女の声が響いた。

ハッと顔を上げたゴビンゴの視界に飛び込んできたのは、三人の人間の影だった。

中央に立つのは、鋭利な一対の双剣を腰に帯びた女戦士ミュロン。

返り血で汚れた前髪の隙間から覗く彼女の瞳は、底冷えするような夜の色のようで、その美しい顔立ちには一切の慈悲がなかった。

彼女のすぐ後ろには、主を失った心痛からひどく痩せ細りながらも、鋭い眼光だけは失っていない老兵ハボンが、身構えるように槍を構えている。

そしてもう一人、巨体を誇る重戦士バルトが、武骨な大斧を低く構えて威圧していた。

かつてあれほどの大軍勢を誇っていた傭兵団は、レイを探すために散り散りとなり、今やこの信頼できる三人だけが行動を共にしていた。

お互いの顔が月の光に照らされた瞬間、二人の目が同時に見開かれた。

「……あれ? ミュロンじゃねえか!」

「ゴビンゴ……!? お前、なんでこんなところにいるんだい」

二人は元々、レイの周辺で何度も顔を合わせ、互いの実力を認め合っていた旧知の仲だった。

ミュロンは構えていた双剣の柄からそっと手を離し、驚きと、どこか安堵の混ざった表情を浮かべた。

ハボンとバルトも、相手が旧知のゴブリンだと気づき、張り詰めていた殺気を緩める。

「お前こそ、その間抜けな面を狂戦士どもにへし折られたと思ってたよ。魔王軍の前線はどうなってる?」

ミュロンが歩み寄り、ぶっきらぼうながらも気遣うように声をかける。

「それが、仲間たちがみんな急に狂っちまって、俺を殺そうとしてきたんだ! 俺は必死に逃げて……それに、これだけはお前たちに伝えなきゃと思ってた。俺、オアシスで、レイと、それからタルカの神官の女に会ったんだ!」

レイの名前が零れ落ちた瞬間、三人の空気が劇的に変わった。

「何だと……!?」

ハボンが痛切な声をあげて一歩前へ踏み出し、ミュロンの瞳には、それまでの冷徹さを吹き飛ばすような、激しい感情の炎が灯った。

彼女は一瞬でゴビンゴの前に踏み込み、その褐色の肩を強く掴み揺さぶった。

「今、何と言った。レイに会った、と言ったのか? 。アイツは今、どこにいる!?」

ミュロンの美しくも鬼気迫る顔が迫り、ゴビンゴは圧倒されながらも、自分がオアシスの辺りで見た光景、レイの圧倒的な佇まい、そしてリーヴィスという少女がそこにいた事実を、記憶を振り絞って夢中で話し歩み寄った。


ゴビンゴの話をすべて聞き終えたミュロンは、ゆっくりと彼を解放し、深く息を吐いた。

その横顔には、お頭がまだ生きているという確信と、彼が自分たちの想像もつかない巨大な運命の渦中にいるという予感が、複雑な影を落としていた。

「お頭……やはり、あのお方は何か大きな目的のために……」

ハボンが胸に手を当て、涙を浮かべながら安堵の呟きを漏らす。

バルトもまた、担いだ斧の重みで小さく頷いた。

「あんのスケベ野郎!下心丸出しで裏切りやがったな」

ミュロンはゴビンゴの褐色の顔を見つめ、不敵で、どこか妖艶な笑みを浮かべた。

「仲間を失って行く宛てがないんだろ? だったら私たちの旅についてきな。あんたの腕っぷしは、これからの旅に必要だ」

「ああ、もちろん行くさ! 俺もレイのことが気になって仕方ねえんだ!」

こうして、旧知の絆で結ばれた、一匹の異端のゴブリンと三人の傭兵という、奇妙ながらも固い結束を持つ四人の道連れが成立した。

現在のイスキス地方は、真の天王玉を手に入れた聖女リディアの絶対的な統治下にあり、タルカ軍の厳重な警戒態勢が敷かれている。

正面から潜入することは、元傭兵団の面々にとっても、そして何よりゴブリンであるゴビンゴにとっても自殺行為に等しかった。

「イスキスへ入るには、迂回路を使う。まずは東のミレトー王国へ向かうよ」

ミュロンが防砂の外套を翻しながら、遥か東の地平線を指し示す。

ミレトー王国。

それはタルカ法国の東に位置し、未だ大戦の直接的な戦火からは一線を画しているものの、様々な思惑や密偵が入り乱れる境界の国であった。そこを経由し、タルカ軍の背後から潜入するルートを突く――それが、冷徹な判断力を持つ女副官ミュロンの立てた策だった。

ゴビンゴは、自らの身体に宿るリーヴィスの光の温もりを感じながら、ミュロンたちの後を追って歩き出した。

世界の覇権を懸けてリディアとネヴェルが睨み合うその裏側で、レイの真意を求める者たちの、静かなる潜入の旅が今、始まった。

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