第二部第十六話:混濁の魔塔、虚栄の玉座
第二部第十六話:混濁の魔塔、虚栄の玉座
テルセイ魔導帝国の最奥に鎮座する黒鉄の宮殿。
その重苦しい空気の中に、一人の少年が立っていた。
無王ネヴェラードの血を引き、魔王母メルフェレーンが産み落とした半魔王族――ネヴェル。
その容姿には、魔王母の面影を残す妖艶な紫の双眸と、人間の逃れられぬ業を宿したかのような、どこか卑屈で鋭い顔立ちが同居していた。
魔王母の子、という肩書は一見すれば響きが良いが、悍ましき多産である彼女の血脈において、その類のものなど五万と転がっている。
さして珍しくもないどころか、純血を重んじる魔王族の社会において、「半分が卑しい人間」であるネヴェルは、常に陰で指を差され、蔑まれる存在に過ぎなかった。
その歪んだ生い立ちが、彼の魂を飢えさせ、異常なまでの支配欲へと駆り立てていた。
ネヴェルは今、世界を揺るがす絶対の禁忌――「魔王玉」をその手に携え、帝国の絶対支配者である魔王デルージャの前に平伏していた。
玉座に君臨するデルージャは、山をも圧する巨躯と、触れるものすべてを腐食させる黒い魔王力を放つ、冷酷無比なる純血の魔王である。彼は、持ち帰られた魔王玉を一瞥したものの、それを手に入れたネヴェルを褒め称えようとは微塵もしなかった。
「……その玩具は、お前のような雑種にふさわしくない」
デルージャは低く、地鳴りのような声で吐き捨てると、傲慢に巨腕を伸ばし、ネヴェルの手から魔王玉を力ずくで奪い取ろうとした。ネヴェルの細い指先が、恐怖と屈辱でわずかに震える。
しかし、その刹那――デルージャの動きが、唐突に、不自然なほどピタリと止まった。
伸ばされた巨腕が空中で硬直する。デルージャの濁った瞳の奥で、どろりとした漆黒の光が明滅した。
魔王はそのまま奇妙な沈黙を保った後、まるで操り人形の糸が切り替わったかのように、ゆっくりと手を引いた。
「いや、よい……。その魔王玉の管理は、お前に一任する、ネヴェル」
その声には先ほどの威圧感はなく、どこか虚ろで、平坦な響きが混じっていた。
謁見の間に控えていた他の高位魔王族たちも、一斉にざわめき立った。
普段であれば、雑種が至宝を独占することなど許すはずのない貪欲な奴らだ。
しかし、彼らもまた、口々に異議を唱えようとした瞬間に口を噤み、凍りついたように動かなくなった。
誰も口を挟まず、手を出そうともしない。異様な静寂が宮殿を支配する。
ひれ伏したまま、ネヴェルの口元が醜く、歪に釣り上がった。
(――かかった)
魔王たちは気づいてすらいない。
彼らはその強大すぎる力ゆえに油断し、ネヴェルが携えてきた魔王玉の「本質」に触れ、すでに精神の奥底からネヴェルに操られ、その支配下に置かれていたのだ。
「勝った……」
歪んだ笑みを浮かべたまま、ネヴェルは掠れた声で呟いた。
自分が何に勝ったのか、その実態は彼自身にもよく解っていなかった。
しかし、これまで自分を文字通り泥のように扱ってきた純血の魔王どもを、指先一つで操り人形に変えた瞬間、彼は自らがこの世界の、人生の「絶対的な勝者」であることを、狂おしいほどの確信とともに噛み締めていた。
人生の勝者となった半魔王族の少年は、その支配をより絶対的なものにするため、すぐさま狂気の狂挙へと取り掛かった。
テルセイ帝国の中心部に、天空を突き刺すような漆黒の巨塔が建設され始めたのだ。
「もっと高く、もっと黒く築け! 世界の澱みをすべてここに集めるのだ!」
ネヴェルの命令に、操られた魔王や亜人、そして奴隷となった人間たちが昼夜を問わず駆りだされ、血を流しながら石を積み上げた。
完成していくその塔は、周囲の空間に漂うあらゆる魔王力を強引に吸い上げる、巨大な「漏斗」の役割を果たした。
集められた濃密な闇の魔力は、塔の最上階に据えられた魔王玉へと絶え間なく注ぎ込まれ、限界を超えて増幅されていく。
魔王玉によって何十倍、何百倍にも膨れ上がった魔王力は、どす黒い霧となってテルセイ地方の全域を覆い尽くすように充満していった。
それは、聖女リディアが掲げる「真の天王玉」の光を相殺し、せき止めるための、絶対不可侵の闇の防壁となった。
だが、その代償はあまりにも凄惨だった。
あまりに濃密すぎる魔王力の霧に長期間曝されたテルセイの人間たちに、恐るべき異変が起こり始めたのだ。
優しかった親が、従順だった市民が、突如として目を血走らせ、獣のような咆哮を上げて隣人の喉笛を噛み切る。
精神が汚染され、内に秘めた悪意や嫉妬が増幅され、狂暴化、邪悪化していく。
さらに変貌は精神に留まらなかった。
生きたまま皮膚が黒くひび割れ、頭部から醜悪な角が生え、爪が鋭く伸びていく。――人間が、生きたまま「魔王族」へと変貌する者が続出したのだ。
阿鼻叫喚の地獄絵図が広がる帝国を見下ろしながら、ネヴェルは狂気的な冷徹さでそれを肯定した。
(いや……これは戦時下にあっては、むしろ都合が良い。いくらでも湧き出る、恐怖を知らぬ兵隊だ)
利用できるものは、同胞の肉体だろうが、人間の変わり果てた姿だろうが、すべて貪り尽くす。
塔の頂上、どす黒い光を放つ魔王玉を両手で高く掲げ、ネヴェルはまるで世界そのものを手玉に取ったかのように、高慢に、狂ったような笑い声を荒涼とした夜空に響かせた。
その悍ましき哄笑と、世界を侵食せんとする絶望的な魔の奔流を――。
遥か遠く、硝煙と聖なる光の入り混じるイスキスの地で、聖女リディアは確かに感じ取っていた。
新しく強固に築かれた石造りの要塞のテラス。
真の天王玉を胸に抱き、夜の冷気に髪を揺らせながら、リディアの瞳が、暗雲の向こうの南方の空を見つめる。
その視線の先では、星々さえも澱んだ紫の雲に覆い隠されようとしていた。
「……来ましたか」
リディアの呟きは、冷たく、どこまでも静かだった。
かつて妹の命と引き換えに手に入れた光の力。
それと同等、あるいはそれ以上の禍々しい「闇のうねり」が、確実に覚醒し、牙を剥こうとしている。
世界は完全に二つに割れた。
光を掲げる冷徹な半天王族リディアと、闇を操り勝者となった半魔王族ネヴェル。
二人の若き支配者が、世界の覇権を懸けて睨み合う、果てしない戦いの幕が、静かに、そして決定的に切って落とされた。




