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第二部第十五話:イスキスの防壁、天王の天秤

第二部第十五話:イスキスの防壁、天王の天秤


イスキス地方のなだらかな丘陵地帯は、今や鉄と血、そして異形の腐臭が立ち込める泥濘の戦場と化していた。

天王玉を喪失し、その象徴たる聖女リディアをも欠いた神聖タルカ法国軍の陣地は、完全に追い詰められていた。

幾重にも築かれた土塁や木柵は亜人たちの怪力によって文字通り噛み砕かれ、兵士たちはひたすらに、ただひたすらに、聖女の帰還を祈りながら決死の防衛戦を維持していた。

対する魔王軍は、天王玉の「崩壊」という事実を知らぬがゆえに、極めて慎重かつ狡猾な布陣を敷いていた。

前線を埋め尽くすのは、法国の土地に未だわずかに残る天王力の影響を受けにくい、屈強な亜人たちの混成部隊。

そして、その影に潜む本物の魔王族たちは、さらに悍ましい手段を選んでいた。――人間の兵士の肉体に「取り憑き」、その精神と肉体を内側から乗っ取って前線へ潜り込んでいたのだ。

人間の皮を被り、その肉体を媒介にしている限り、聖なる力に直接接触しないため、天王力による拒絶反応を無効化できる。

だが、この寄生戦術には致命的な制約があった。器となっている人間が絶命すれば、宿主である魔王自身もまた、その魂を道連れにされて消滅してしまうのだ。

そのため、取り憑いている人間が致命傷を負った「死ぬ寸前の刹那」、肉体を突き破って外へと飛び出さねばならない。

「……魔王退散!」

泥塗れの法国騎士が剣を突き立てた瞬間、その傷口から黒い霧のような影が絶叫を上げて飛び出す。

しかし、それを待っていたかのように、後方の神官たちが放つ薄光の天王力が、空中へと晒された魔王の本体を正確に射抜いた。

さしもの魔王族とて、無防備な魂の状態で聖なる光を浴びれば、ただでは済まない。肉体を捨てる一瞬の隙を狙い撃ちにする法国軍の執念深い抵抗の前に、戦線は泥沼の膠着状態に陥っていた。


その凄惨な最前線から少し離れた岩陰で、戦況をひどく退屈そうに見つめる者がいた。

傭兵団を率いるミュロンである。

彼女は返り血で汚れた美しい前髪を無造作にかき上げ、細められた冷ややかな瞳で戦場に視線を投げ、小さく吐き捨てた。

「つまらないね」

神だの魔王だのという大義名分を掲げ、他人の皮まで被って殺し合う連中のために、自分たちの命を落とすなどアホらしい。

ミュロンにとっては、国家の存亡などどうでもよかった。

そんなことよりも、彼女の心を完全に支配しているのは、ただ一人の男、レイの行方だった。

「お頭を……お頭を探しに行かねばならぬのだーーっ!」

傍らで、ハボンが痛切な叫び声を上げていた。

取り乱したその表情にあるのは狂気であった。

突如として姿を消したレイの身を引き裂かれそうなほど深く心配する、真摯な忠義の情だった。

「あのお方はお一人で何を背負い、どこへ行かれたというのだ」……その一念だけで、ハボンは目を血走らせ、今すぐにでも戦場を飛び出そうと地を蹴っていた。

「うるせーよ親父! わかってんだよ、探しに行くだろうがよ!」

ミュロンはハボンの肩を強く掴み、その焦燥を受け止めるように鋭い声で怒鳴りつけた。

女性ながらに傭兵団を束ねる彼女にとっても、この不毛な戦争にしがみつく理由など、もうどこにもない。

レイがどこへ行き、どんな窮地に立たされているのか。

それを突き止め、連れ戻すことだけが、彼女たちが動く唯一の絶対的な理由だった。

何よりもあの女、リーヴィスと共にいることが許せなかった。

ミュロンは凛とした佇まいで、周囲に控える屈強な傭兵たちを見回すと、獰猛で美しい笑みを浮かべて大声を張り上げた。

「そんじゃあ、野郎ども! 各自散らばりな! あの傲慢な裏切り者を、私の前に連れてきな!」

地鳴りのような応えと共に、それまで法国軍の強力な肉壁として機能していた傭兵団は、戦令を完全に無視して一斉に四方へと散り散りになっていった。

だが、皮肉にも、この最大の手駒が戦場を放棄した直後、タルカ軍の運命は劇的な反転を迎えることになる。


「――リディア様が、リディア様が戻られたぞーーっ!」

血と絶望に染まっていた法国軍の陣営に、割れんばかりの歓喜の叫びが木霊した。

兵士たちの視線の先、傷つき倒れた死体の山を越えて歩み進み出る、一人の少女の姿があった。聖女リディア。

その表情には、年若き乙女の瑞々しさは微塵もなく、ただ冷徹極まる神聖な意思だけが宿っていた。

彼女が細い両手で天高く掲げたのは、まばゆい、そして底知れぬ威圧感を放つ「真の天王玉」であった。

次の瞬間、戦場全体を覆い尽くすほどの、無限とも思える純白の天王力が炸裂した。

それはこれまでの不完全な光とは一線を画す、圧倒的な神威。

泥に潜んでいた魔王族どもは、その光が肌に触れただけで肉体を内側から焼かれ、恐怖の悲鳴を上げて一斉に退散していった。主を失い、聖なる熱波に怯えた亜人たちもまた、武器を投げ捨てて一目散に後方へと退却していく。

「リディア様……追撃のご命令を! 今こそ悪鬼どもを根絶やしに!」

興奮に震える騎士が叫んだが、リディアはそれを冷ややかに制した。

彼女の瞳は、退却する敵ではなく、今踏みしめているイスキス地方の土壌を見つめていた。

「否。追撃は厳禁です。今は、このイスキス地方の防衛線を確固たるものにすること。一歩も引かぬ絶対の拠点を築きなさい」

彼女は自らの力を過信していなかった。

手に入れた真の天王玉の輝きを見つめながら、その横顔に深い陰が差す。

一人の老騎士が、周囲の兵たちに聞こえぬよう、声を潜めて恐る恐る尋ねた。

「……して、リーヴィス様は……。妹君は、いずこに……?」

その問いに、リディアの動きが一瞬だけ止まった。

だが、彼女は表情一つ変えず、ただ静かに首を振った。

その瞳の奥にある冷徹な光に、問いかけた騎士は息を呑む。

「――リーヴィスの生命と引き換えにして、私はこの真なる天王玉を手に入れたのです。だからこそ、我らはこの戦いに、何があっても勝たねばなりません」

その声には、実の妹を犠牲にした者だけが持つ、退路を断った修羅の覚悟が満ちていた。

私情を捨て、冷徹な神の代行者となった聖女の姿に、周囲の騎士たちは畏怖のあまり、言葉もなくその場にひれ伏した。

しかし、魔王軍を退けたとはいえ、勝利の道は果てしなく遠い。

テルセイ魔導帝国には、これと対をなす「魔王玉」が渡っているはずなのだ。

天の光と魔の闇、二つの絶対的な力が今、この世界の両端で拮抗しつつある。

リディアは真の天王玉を胸に抱き、地平線の彼方を見つめながら、血を流し続ける世界での、果てしない長期戦を覚悟していた。

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