46:取り巻く環境の移り変わり
「おはようございます」
フレイの声に重い瞼を開ける。
顔を向ければ、彼女は不安げな顔を綻ばせた。
「おはよう……お兄様は?」
「もう朝食を召し上がっていらっしゃいます」
「寝たのかしら?」
「さぁー、どうでしょうねぇ? 見回りの時も、明かりはついていたようでしたから……」
「お兄様にも困ったものね」
ルルカはゆっくりと体を起こし、いつもの様にクルクルと動くフレイを眺めていた。
クローゼットからかき集めた制服を、次々とベット横のハンガーラックにかけていく。
「ルルカ様、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫よ。こんなに寝たのは久しぶり」
そう言うと彼女は立ち上がり、洗面台の冷たい水で顔を洗い、用意された柔らかなタオルで顔を包む。
振り返ると、やはりフレイはルルカの表情を探る様子がある。
胸の奥の魔力の源、オドから温かさが灯る。
――けれど、カサブランカへ行けば興味本位の視線を向けられる事もあるかも。
しかし不意に、エルウィンの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「うん、大丈夫」
「はい、大丈夫ですよ」
そう言ってくれるフレイに脱いだ服を手渡し、ブラウスを受け取った。
彼女の笑顔は力強く、彼女の手は温かい。
◇◇◇
歳の離れたアッシュとは、カサブランカへ一緒に登校する事はなかった。
それでも一般の歳の離れた兄妹よりは、一緒に学校へ向かう機会は多かった。
そして今日は特別、馬車から降りて兄の母校でもある、カサブランカまでの道を行く。
「あそこのランチは、安くて旨いんだよなー」
郊外にある僅かにある学生たちの為のお洒落だったり、がっりとだったり学園に無い特色を押さえた個人店が並ぶ通りの前でそう兄は言う。
顔にはやはりフレイと同様に、ルルカの表情をとても深く探っていた。
「エルウィンとは舞台を見に行ったか? バルコニー席とボックス席とあるが、 バルコニー席の方が俺はすきだな」
「まだですわ。きっとエルウィン様にはボックス席が相応しいのでしょうけど、私は……」
「ははは、そうかもな。アイツは案外、お前の事に関しては、熱い情熱をもって事にあたるようだ。
それについてお前が戸惑わないように、今はゆっくりと関係を深める事を第一に考えた方がいい。
それにしてもアイツの精神力というか、忍耐力に頭下がるよ」
「お兄様、彼は騎士なのです。騎士は乙女や、淑女を守るために力を尽くすものです。お兄様の考えは余計な詮索ですわ」
「……お前は、あのエルウィンを見ていないから……」
そう小声で呟く兄を、妹はもう、大袈裟なんだからと一瞥しただけだった。
しかしカサブランカの校門を過ぎ、校内の敷地へ入ると、街路樹のマロニエから庭木のギンバイカに代わり、人通りが少なくなったためか、兄の言葉は熱を帯びてくるようになる。
「お兄様、相変わらずですわね。私はそんなに頼りないですか?」
「そんな事はない……だが、心配なんだ」
「お前が連れ去られた事について、口止めはしてある。しかし人の口に戸はたてらず、エルウィンとの婚約の話が公になれば、僻みや、やっかいな噂をそれこそ、今回の事件が掘り返してゲスな想像と、脚色でいいまわる奴が居ないとも限らない……」
そう兄は真剣に、ルルカの目を見て語っている。
真剣な眼差しに、逃れるように、彼女は足元の小石を蹴り歩き始めた。
そんな事にはならない、そう言い切れないのは、今回の事件がルルカ自身の不注意から始まってしまってしまった出来事だったから、もっと距離を取っていれば、フレット様の話に気を取らなければ、連れ去らる事もなかったかもしれない。
けれども、その事ばかりに囚われてしまっては、きっとあの人の傍で立つ事はできないし、夢を追う事はできはしない。
「その様な時は、お兄様がなんとかしてくださるでしょう?
それにエルウィン様もいらっしゃいます。そんな事にはなりませんわ。
そう考えなければ、進めない事もありますわ。
進んで、学んでそしてやっとエルウィン様の隣りへと立てるそうでしょう? お兄様。
不出来な妹を、どうか取り立ててくださいませ」
そう言うと、彼女は蹴っていた石から視線をあげて、にこやかに微笑む。
「いつの間にか、男をその気させる笑みを覚えたか……」
彼はボソッと、そんな事を妹に聞こえないように呟いた。
「聞こえましてよ。それよりお兄様は、いつ意中の女性を連れて来てくださるの?」
「何を言っているだお前は、仕方のないやつめ」
「昨日の……、荷馬車の上で眠った時に、久しぶりに、剣術部のお姉様がたの夢を見ましたわ。
けれど、目を覚ますとお兄様の上着があっただけ。
……お兄様は上流階級のお姉様がたが、おつけになる香水などつけませんのにね」
兄はばつが悪いと言うように、顔を覆った。
「違うんだ。あっ……、ふぅ……、ルルカの居場所がわからない。
そんな時に、何て言うか……、女性と会っていたわけではなく。
家に戻らない俺を心配して、執事が王室へ寄越し着替えや、軽食を届けてくれただけだ。
大丈夫。大丈夫」
兄は私の肩のすぐ下の腕を、パンパンと掴んで、離す
「お兄様……どこかのお屋敷に住んでらっしゃるの?」
「ジョフ ハルバード様……」
「えっ?」
「これはまだ、発表前なんだが……、あのじっ様から遺産としていろいろ譲られていてね。
そこには、この地、ルーフェンの屋敷も入っていた。
やはりそこで生きる人々も含めてね。
しかし弁護士が手筈を整えるまで、いろいろ秘密になっている。
新鋭貴族から見れば、ハルバードは旧貴族へついたと思うだろうしね」
「まぁ……」
「そうなんだ。まぁー大変なんだ。だが、もうすぐだ。お前にも、俺の宝物を見せてやれるよ……」
――兄は嘘をついている。兄妹ですものわかります。
「それはとても楽しみですわ。絶対、絶対約束よ」
「ああ……任せておけ」
胸こそ叩く事はなかったが、兄はちゃんと約束してくれた。
兄は私が悲しむ様な事はしない。きっと大丈夫だろう。
そして夏の盛りをとうに過ぎても、緑に覆われた花壇が見えてくると、剣術部の白いシャツとズボンの姿のエルイン様が、今日もハーブに水をやっていた。
「ルルカ、おはよう」
「エルウィン様、ごきげんよう」
「よう! エルウィン」
兄妹で道を歩いて行くと、彼がホースを置いてやって来る。
「俺はバージンロードの新婦父じゃないんだから、そんな笑顔でやってくるな」
「お兄様!?」
ルルカは振り返り、アッシュの顔をまじまじと見た。
「それについてなのですが、以前話した内容の、結婚の際のしきたりなどを、まとめた物を持って来ました。急かすつもりはありませんが、無駄な作業は省く必要があります」
「ありがとうございます。こちらでも、今回の一件が落ち着き次第、家に帰りもっとよく相談してまいります。では、紅茶を淹れて待ってますね」
「俺はここまでだ。一度、他の場所に顔を出してくるわ」
「「いってらっしゃい」」
そう言って、アッシュは来た道を引き返す。
◇◇◇
王室の玉座の間からアッシュが出て来ると、兵士によって豪華絢爛な扉は閉ざされた。
そしてアッシュが歩きだす。
壁にもたれていた、王国の錬金術師の制服姿のエルドアが、眼鏡を指を押し上げると、アッシュの隣りに並び歩き出す。
「アッシュ、いい調子です。クリアードの海軍が、海賊討伐に本腰を入れたようですよ」
我が国を後ろ盾に、悪質な経営を行ってドスカレッド、そして我が国への敵意は民衆に渦巻いているだろうクリアードが、政府の信用を落とす行為に乗り出す。そこには今回も、何ならの力が働いている。
「へぇーやっとか、よく他国の船が領域をうろうろしているのに、呑気でいれたものだ」
「それだけ貧しいのでしょう。それ故、ドスカレッドに目をつけられ、いや、アンドルという国に目をつけられ策略の舞台の一つに……。ですから、クリアードの自らの意思で行なっているのか疑問が残る所ですが」
「アンドルに尻を叩かれて? 恐ろしくマッチポンプだな」
「何にせよ、クリアードの海軍が出て来てくれて、良かったです。早く鎮火できますし……近隣の国であるアンドルの海軍に、領海侵犯という真実を掘り起こした様な理由で、我が国の海軍の船が沈められ、大戦が勃発。って可能性はある程度は低くなったでしょうから」
「そうだな」
そうアッシュは短く答えた。
なんとか、今の所は軌道にのっているようだ。
アンドルからの帰国の際、手紙ではあるが、我が国の将軍たち尻を叩かれ、クリアードの知人に頼みで、偉いさんとの面会をし、王の代行者として海賊出没地域での、我が海軍の入港と航行の許可をわざわざとった甲斐があったと言うわけか……。
「しかし、海賊退治に駆り出されていた、クリアードの南東海域に置いていた船は、すぐにはもといた南東海域には戻らず、アンドルのクリアード上陸に備え、付近の海域で待機するようです」
「そこら辺は専門外なので、とんとわからない」
「またまた、でも、新しい弟さんは、そこら辺詳しそうなので、一度、改めて教えて貰うといいですよ」
「エルウィンはまだ婿じゃない!」
「わかりました。まだですね」
そうエルドアは『わかっていますよ』と言いたげに微笑んだ。
そしてアッシュの言葉を待った。
「王は……新鋭貴族をすべての、罪を隅々まで出し尽くすという方向を選ばれなかった」
「それはそうですね……。それをやってしまえば、王自身の支えを自ら無くす行為でしょうから」
「だが、ふたたび、この様な事が起きないよう、見せしめが必要だ。ペイジ家とアルセル家は称号と領地と財産すべて没収される事となった……」
「それは……」
エルドラはその家の、令息と令嬢がルルカに何をやったか知っている。
けれど、彼の表情から同情の色が浮かんでいる。
人の死は辛く、耐えられないものだ。
だが、この世界には生きながら、死の責め苦を受ける者もいる。
貴族から転落し、平民になった者の苦しみを俺は知らない。
それに、ルルカは彼らの苦しみを思い、心を痛めるだろう。
……しかし、その気持ちについても正確にはわからない。俺は妹ではないのだから。
続く




