第四話:俺の散髪
>>カイト
「そろそろ夏毛に生え変わる頃よねえ……。」
美久がそう呟いた途端、俺はビクリッと思わず前進の毛を逆立たせた。嫌な予感しかしない。
「今度の土曜日に予約して美容院へ連れて行って上げなくちゃね。カイト!」
予感的中……。諦観のあまり俺は心の中で嘆息した。
別に美容院へ行く事自体が嫌いな訳ではない。行きつけの美容師さんは少しおネエキャラじみた変な小父さんだけれども、腕は信頼に値する人だし、他のスタッフもそんな小父さんの目に適った腕の立つ猛者ばかりである。それに赤ん坊ではあるまいし刃物に抵抗感がある訳でもないし前述の理由で毛を切る事に恐怖症も持ってない。寧ろ毛を切ったらさっぱりするし、美久の趣味とは云えお洒落も出来るし、シャワーを浴びてすっきりするから美容院へ行くのは好きな方だ。
だが、この時期に美容院へ連れて行かれるのは大嫌いだ。何故か?って、禿げるからさ。
俺達のような、北ヨーロッパやアラスカや北日本等の、北部の寒い地方で産まれた犬は年に2回、春先と秋の終わりに、冬毛から夏毛、夏毛から冬毛へと体毛が全て入れ替わる。最近は空調機器の進歩の恩恵にあやかり過ぎて冬毛から夏毛に生え変わらない軟弱者も居るらしいが、俺は何だかんだと屋外で過ごす事が結構あるので、そこは心配ない。その代わり、抜けた毛がそこらいっぱいに散らかりまくって綿埃の溜まる元凶となってしまう。
そうして部屋が汚れるのが美久にとっては非常に不快な事らしく、毎年2回、この時期には美容院へ強制送還され、電動バリカンによって地肌を露出する状態、所謂『禿』にさせられるのである。
犬用の鋭くて柔らかい刃のそれとはいえ、俺達犬は人間と違って肌がデリケートだから、地肌が直に晒されるのはあまり心地良いものではない、大変不快だ。
しかも俺の場合、全身の毛を丸刈りされたら、毛がフサフサしてもふもふとした可愛い容姿が一変してブルテリアのような間抜け面を衆目に晒す事になる。はっきり言って恥ずかしい。
人間からしたら毛を刈って無くしてしまえば部屋を汚さずに済んで都合が良いのだろうが、年に二回定期的に禿になる事を強要される此方としては堪ったものではない。
とは云うものの、まさか罷り間違っても使い魔の俺がマスターに逆らえる訳もなく、週末に美容院へ送り込まれた。
ちょっと女っぽい言動が目立つ、立派な鼻髭を生やしたダンディーで筋骨隆々のバイセクシャルな中高年の店長と、その同い年の美人妻、そして彼らの男前な長男と母親似の長女、及び数人のスタッフが常駐する、青山界隈の素敵な街並みの雰囲気によく溶け込んだ小洒落たペット専用の美容院である。
まあジタバタした所で仕方がない。今が辛くても、きっと夏毛が生え揃えばきっと見られる物になる。それまでの辛抱だ。あれ、何だろう?目から汗が……。
「じゃあ、お願いします。」
「はーい、じゃあお預かりしますね。」
美久の柔らかい胸の中から店長のがっしりした腕の中に抱かれ、クリーニング店のアイロン台か大型工作機械の作業台を彷彿させるトリミング専用の台座の上に降ろされる。
さあ、このままトリミングならぬ丸刈りにされるのかと息を飲んで待ち構えていると、店長のおじさんはそのまま台を離れ、隣の台で別の女性スタッフによってトリミングを終えたプードルを洗う為にシャワー台の方へ行ってしまった。
しかし、隣に居た奴を連れて行く間際、店長が一人のスタッフにこう声を掛けたのを俺は聞き逃さなかった。
「じゃあ、香苗ちゃん。5番台の、あそこにいる女の子のテリアの子、お願いね。」
「は、はい!店長!」
「やだ。心配しなくても大丈夫よ。あの子、ウチに来る子達の中でも一番大人しい子だから。落ち着いてやれば香苗ちゃんでも出来るわ。」
え?何?と些か不穏な空気をひしひしと感じて心細くなっていると、俺の傍らに一人の若い女のスタッフが立っている事に気が付いた。
緩やかにカールした髪量の多い茶髪のロングヘアーの、程好く膨らんだ形の良い胸元が際立った、庇護欲を擽る小動物のような雰囲気を纏った背の低い女性だった。ここに数ヶ月に一度のペースで通い始めて4年以上になるが、初めて見る顔である。
「お姉さん、誰?」
「あら?……あれ?」
俺が鳴いたのとほぼ同時に美久が戸惑ったような声を上げると、その女性は俺の御主人の方に顔を向け、頬を紅潮しつつニコリと微笑んだ。
「初めまして。今日からトリミングスタッフとしてデビューする事になったんです。宜しくお願いします。」
ほんわかとして、口調も丁寧な穏やかそうなお姉さんだが、その何とも表現し難い緩い雰囲気が却って俺の不安を煽ぐ。前世から脈々と受け継ぐ直感的な経験上、こういう人に刃物を持たせてはいけない気がする。ましてやその切る対象は罷り間違えば血みどろになって命を落としかねない生物である。心の奥底から強烈な警報音が鳴り響き、俺の本能が『逃げろ!』と必死に促している感じがしたが、足が竦んで動けない。丁度普通の人の腰辺りの高さがあるこの台は、子供の小型犬の俺が飛び降りるには高過ぎた。
「それじゃあ、始めますよ~♪」
そんな、まるでぽかぽかと暖かい陽の光が燦々と降り注ぐ彩り豊かなお花畑の中に居るようなのんびりした声と共に、ブィイイイイイイイン……と処刑の時を告げる電動カミソリのモーター音がゆっくりと近付いて来た。もう内心大混乱で冷や汗が出っ放しである。滝のように体を伝って滴り落ちてきた汗が、失禁したのかと思わず目を疑う程の水溜まりを俺の足元で作り上げていた。
ブィイイイイイイイン……バリバリバリバリ……!
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!痛いいいいいいいい!痛いよ――――!お母さ――ん、美久――!うわあああああああああん!」
バリカンの網目状の外刃が身体に接触するや否や、激しく細やかに往復する内刃に毛ごと皮膚が巻き込まれ、摩り下ろすようにズタズタに切り裂かれた瞬間、あまりの激痛から俺は号泣しながら断末魔の声を上げて身を捩った。そして泣き喚けば喚く程、地肌が鋭い刃物によって傷付けられていく。無間地獄で阿鼻叫喚とはいかないまでも、絶対トラウマになるだろこれ、とぼんやりと遠のく意識の中で俺は考えた。
体表中の至る所に出来た切り傷に無理矢理軟膏を塗り込まれ、それによる激痛でまたまた失神し掛けて青息吐息になりつつ俺は洗面台の上に放り込まれた。まるで最期の時を告げるかのようにズルズルと擦れる音を上げながら黒いシャワーヘッドの鎌首が持ち上がる。
表皮にある全ての汗腺から吹き上がる冷や汗が傷口を舐めている。そのヒリヒリと震えるような痛みが、更に俺の恐怖心を増大させる。
「は――――い。それじゃあ、シャワーを浴びましょうね。」
「止めてええええええ!やだあああああああああ!」
人の所業とはとても思えない無情な宣告と共に黒い影が俺を覆い、シャワーヘッドのポツポツと穴の空いた湯が出る部分が向けられる。キャンキャンと泣き叫ぶが、犬の鳴き声を人間が解する事が出来る訳もない。
お姉さんの手がシャワーの蛇口に伸びる。
キュルリ……シャアアアアアアアア…………。
「ギャアアアアアアアアア!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛いよ――――!」
暖かいお湯が身体に掛かった瞬間、超高圧電流が頭から尻尾まで走ったような言語に絶する痺れを伴った痛みが襲い、俺は七転八倒して自分でも有り得ないと思った程天高く飛び上がった。
そして運良く洗面台から店の床の上に叩きつけられた俺は、四苦八苦して意識が朦朧としたまま、当てずっぽうで脇目も振らず出口に向かって駈け出した。
「あ、ちょっと待って!」
「カイト!待ちなさい!」
後ろから女性二人の声が追い掛けて来るが知った事ではない。これ以上こんな所にいたら本当に死んでしまう!
運良く店の出入り口の傍まで辿り着くと、幸運かな、茶色いミニチュアダックスフントを連れたどこか上品そうな年配のご婦人が、表通りから店内へ入って来るに当たってドアを30cm位開けた。
無論、ぼんやりとした視界の中でもそれを認識した俺は、これ幸いとドアの隙間に飛び込んで表通りの歩道へ躍り出た。
そして、そのまま車道を通って逃走する為、俺は素早く銀色のビュイック・ルサーンに変身するとそのまま道路の上に踊りで……。
ガタンッ!と言う衝撃と痛覚が俺を襲った。どうやらたまたま通り掛かったミニバンと左側面と正面のオフセットで衝突事故を起こしてしまったらしい。
思わぬ止めを刺されて、今度こそ俺は気絶した。
目を覚ますと、自分に大きくて濃い黒い影が覆い被さっている事にすぐに気が付いた。見上げると、見覚えのある白と茶色の斑の巨大な体躯の大人の雄のセントバーナードが心配そうに俺を見下ろしていた。
「え……え――っと……。」
「気付いたようだな……。坊主。」
俺がよろよろと起き上がると、そのセントバーナードのおっさんは徐に口を開いた。見掛けの年齢相応に低くて少し曇った渋い声が、子供の俺には及びも付かぬような経験と含蓄をその内包に察せさせる。
周りを見ると、昼間なのに薄暗くて狭い、所々に中の物が地面まで溢れ出た大きなバケツのような青いゴミ箱が置かれている汚い路地の中間辺りにいる、と云う事が朧気ながらも認識された。どうやら先程の車道の上からこの雄犬によって雑居ビルと雑居ビルの間の隙間のようなこの場所まで運び込まれたらしい。
俺が地べたにちょこんと座ると、そのセントバーナードはこう自己紹介した。
「俺はこの辺りの魔犬共の顔役をやっているセントバーナードの吾朗という者だ。お前もウチのマスターの店でトリミングをしている常連なら見た事はあるだろう。な、カイト。」
ああ、そうだ。何処かで見た事があると思ったら、さっき逃亡してきた美容院のオネエ系店主の一家の飼い犬ではないか……。そう気付いた途端、何故か俺は安心して座り込んでしまった。
吾朗さんは、俺のすぐ傍に頭を接近させると、赤く滲んだ線のような切り傷をそっと舐めた。まだ疼く傷周りの皮膚にヒリヒリとした痛覚を感じ、俺は思わず身悶えた。
「まだ、痛むかい?」
「は……はい。」
「すまんな……。」
そう、突然静かに吾朗さんが呟いたので、何故この人は俺に謝っているのだろう、と俺は内心首を傾げた。寧ろ、そのまま轢き殺されてもおかしくなかった場所から俺を救ってくれたのは他ならぬ彼である。俺が彼に感謝しこそすれ、彼の方から謝罪される謂れはないし、いくら自分のマスターの所で起こった事故だといえ、直接関わっていた訳ではない彼の謝辞を受け取っても、それはそれで反応に困るし、強く文句を言えなくなってしまう。
そんな俺の困惑を余所に、吾朗は話し続ける。
「あの娘も、悪気があった訳じゃないんだ……。ただ、ちょっとだけ不器用でな……。」
ちょっと不器用ってレベルでは無かったと思うが……。というか、本当に悪意が無ければ、剃刀の刃が当たって血が出た時点で作業を止めるだろ。常識的に考えて……。
そうクレームを付けたくて堪らなかったが、本当に申し訳なさそうに此方を伏し目がちに見つめる彼の様子を凝視すると、喉元まで出掛かった言葉が何故かつっかえてしまった。
「どうしようもないドジだが……、今日この時の為に一生懸命練習はしていたんだよ。だから……、申し訳ないが今回は大目に見てやってくれないだろうか……。」
「は、はあ……。」
俯きながらもジッと俺を見据える吾朗さんの視線を浴びて、もし首を横に振ったらどうなるのだろうか?と不穏に思いつつ俺は頷いた。
「無論、ただでとは言わん。それなりの償いは此方もさせて貰う。」
「…………。」
「ところで、君はイベリコ豚のベーコンとかは嗜むかね?」
そう訊ねられて、俺は慌ててブンブンと首を横に振った。産まれて以来、その辺のスーパーマーケットでも簡単に手に入るようなドッグフードとかおやつなら食べさせて貰った事はあるが、そんな如何にも高そうな舶来品を振舞われた記憶は無い。
「俺の友人から礼として貰ったのだがね。何せ、大量に有るから独りじゃ食べきれなくてな……。お詫びと言っては難だが、君にも少し分けてやろう。……ついておいで。」
吾朗さんはそう言って俺から背を向けると、おいでおいでをするように尻尾を振り、白い光が細く眩しい柱を創る路地の出口へ向かってのっそりと歩き出した。
そして、もう20mも行けば表通りと云う所で急に立ち止まると、回れ右をし、丁度右側のビルの壁にある緑色の粗末な扉を、真鍮製の丸いドアノブに掛かっていた黒と黄色の斑の作業用ロープを咥えて引っ張るような感じで開け、内側に鬱蒼と広がる暗がりの中へ平然と入って行った。
「さあ、カイト君。君も入り給え。遠慮する事はない。」
「は、はあ……。それではお言葉に甘えて……。お邪魔します。」
此方を振り返って扉を押さえる五郎さんに促されるまま、俺もビルの中へ足を踏み入れた。
店の蛍光灯の白い光が薄っすらと入ってくるので目が慣れると段々周囲の様子が判る程度の明るさは保たれているものの、両側の棚にダンボール等が雑多と積まれた、廊下とも倉庫とも見当のつかない藍色の闇が覆い被さるその場所は、どうやら件の美容院のバックヤードのようだった。と同時に、急に立ち止まった吾朗さんの傍にある草臥れた緑色の毛織の毛布が中に敷かれた大型犬用の大きな犬小屋から鑑みて、彼の寝食の場でもあるらしい。
俺から見て奥の方、白い光が此方へと漏れでている店舗スペースの方から、
「カイト!カイト!」
と俺の名前を何度も連呼する、殆ど発狂しているとしか思えない美久の絶叫がガンガン響いてきている。
少し可哀想かな……、とも思いかけたが、俺は逃亡中である手前、自分からノコノコと彼女の前に現れるような真似はしたくなかった。母親と喧嘩をして家を飛び出した悪餓鬼が、不安と後悔で泣き叫びながら自分を探す彼女の姿を認めて心を痛めつつもその場から立ち去るように、ざまみろと軽侮し、ダンボールとダンボールの影にそっと身を潜めた。
別にイベリコ豚のベーコンとやらを御馳走になってからでも遅くはないと、何故かその時は感じたのだ。マスターに途轍もない心配を掛けているという罪悪感など、微塵も感じなかった。
最低だな、俺って……。
吾朗さんは、犬小屋の毛布の中に鼻先を突っ込んで何かゴソゴソと音を立てると、5kgはあろうかと思われる肉の塊を取り出した。恐らくこの肉塊が噂の高級肉だろう。いくら防腐処理が生肉よりはある程度なされているベーコンだとはいえ、こんな物をねぐらに持ち込んでいてよくバレなかったものだ、と俺は心底感心した。同時に、こんな物を他犬からほいほい貰える五郎さんって何者なのだろう?と云う疑念も噴出する。
そんな俺の心境など関係なしに、吾郎さんはその肉を200gばかし切り分けると、ホイと俺の足元に放り投げた。
「ほれ、食べ盛の子供だ。この位は食べられるだろう?」
「い、良いんですか?こんなに頂いて……。」
並外れた彼の気前の良さに、思わず俺は畏まって居住まいを正した。
「何、気にする事はない。この程度の物なら掃いて捨てる程あるからな。これだって同じベーコンの塊があと2つ3つあるからな。この位、君にやったところで大した事にはならんよ。遠慮せずに食べなさい。」
「は、はあ……。」
本当、何者なのだろう……、この人。
猜疑心からくる極度の緊張の所為で折角のお高いお肉をよく味わう事は出来なかったが、量が量だけに腹が満たされたので、何もかもがどうでも良くなった俺はその場で四つん這いになった。
泣きつかれたのかさっきから美久の悲鳴が途絶えたし、散々な目にあったとはいえつまらないプライドの為に隠れん坊をするのにも飽きたし、何よりも血が乾いて瘡蓋になって切り傷が治癒しかけている。もうそろそろ戻った方が良いだろう。
俺は立ち上がった。
「おや、もう行くのかね?」
俺が動いた気配に気付いたのか、吾朗さんも顔を上げた。
「ええ、御馳走様でした。」
「何、ほんの詫びの気持ちを俺なりに示しただけさ。……そこまで送ろう。」
そう言って、吾郎さんは明かりが漏れ出る方に向かって静かに歩き出し、俺も彼の後を追い掛けた。
明るい店舗の中に入ると、美久や店長一家、そして他のスタッフや客達も総出で集まり、想像以上の騒動に発展していたのを目の当たりにして、俺は心底仰天した。
すっかり意気消沈して生気と云う物が感じられず、本当に抜け殻のようになって呆然と椅子に座り込む美久の足元に近付くと、俺は鼻先を彼女の足首にチョンチョンと押し付け、キャンキャンと鳴いて彼女に自分の存在を訴えた。
「カイト……?」
頭上から美久の掠れた声が聞こえてきた。見上げると、目尻に涙の粒を浮かべて目を真っ赤に腫らした彼女が凝視するように俺を見下ろしているのが目に入る。
そして、美久が椅子から立ち上がって膝を曲げて床の上に腰を下ろした次の瞬間、唐突に彼女の両腕が伸びてきて、俺はガシッと彼女の胸の中に、これ以上になく力強く抱き締められた。
「カイト!カイト!……あなた、何処に行っていたの?事故に巻き込まれて死んだんじゃないかって、凄く心配したのよ!」
感極まった美久がまた号泣し、
「良かった、良かった。」
等と周りの人達が騒ぎ立てる中、そこまで大げさに振舞わなくても良いではないかと思う嫌悪と、さっさと出てくれば良いものをしょうもない羞恥心から愚図愚図と潜伏していたのは流石に無思慮が過ぎたか内省する後悔の間で、不貞腐れた俺は主人の腕の中からもぞもぞと上半身を這い出し、下を覗き込んだ。
美久の足元には、何時の間に近接していたのか、五郎さんが座って俺を仰視していた。
「それじゃあな、カイト君。頼むから、これでトリミングを怖がる事なくウチに遊びに来てくれよ。今度はもっと凄い物を用意しておくからな!」
もっと『凄い物』とは何だろう?さっきまでの猛省は何処へやら、美久に抱っこされて帰宅の途に着いた間中、俺はずっとその事ばかり考えていた。
週明け、魔獣の預かり所のプレイスペースで、禿な上に傷だらけ、おまけに額に大きく腫れた赤いたん瘤が出来た醜い体を極力隠すように、100系後期のチェイサーの模型に化けた挙句物陰に潜んだ俺は、ムックに向かって五郎さんの事を手短に話して聞かせた。
ムックは珍しく黙って俺の話を傾聴していたが、俺が話を終えると溜息混じりにこういった。
「カイト、お前もつくづく残念な奴だなあ!折角稀有な御馳走を出して貰ったんだからよくよく味わってくれば良かったのに……。本当、勿体無いなあ。」
「無茶を云うなよ。ムック!」
と、俺も負けじと反論する。
「お前だって、あの時の俺と同じ状況に立たされたら、きっとそんな余裕なんて吹っ飛ぶに決まっているさ。」
「どうしてそういう事が言える?」
「だって考えてみろよ。行きつけの店の飼い犬という以外はよく知らないおっさんに冗談ではなく馬鹿高い物を椀飯振舞されたら、普通不気味に思うだろうが!」
「どうして?お前はそこの家の従業員に、過失とは云え、傷害を被られたのだろう?慰謝料として考えたら正当な対価じゃないか?」
怪我をした事への引換としての慰謝料とか、嫌な言い方だな……。ムックの言葉を不愉快に感じたけれど、強いてそれを表に出さないように注意しつつ俺は彼との会話を続行した。
「そりゃお前、仮にそうだったとしてもその慰謝料代わりの物の価値の度が過ぎているだろう?イベリコ豚のベーコンの塊200gだぞ!却って裏があるのではないかと怪訝に思うのは当然だろ。本当、怪しすぎて美味しい物も喉に通らなかったよ!」
「何を言っているんだか……。結局は手前の腹の中に収めたんだろ?」
「そこを突っ込むなよ。……というか、遠慮したら遠慮したでどうなるか判らないから、勧められた以上食べるしか無かったよ……。」
「しかし、その吾朗って犬、何者なんだろうな?」
「普通のおじさんでは無いと思うよ。何処かの犬からのお礼だと言ってベーコンの大きな塊を見せてくれた上に、同じものがもっと沢山あるって話していたもの。」
「なあ、カイト。そのおっさん、自分はこの辺りの顔役だ、って言っていたんだよなあ?」
「ああ。」
「じゃあ、そのおっさん、周辺の犬猫から謝礼や見ヶ〆料を分捕るヤクザの組長とか、そういう者じゃねえの?」
「魔犬に暴力団もヘチマもあるのか?」
「犬のお巡りさんという取り締まる奴が居るんだから、当然取り締まられる奴らだって居るだろうよ。俺達だってそうだろうが。」
「まあ、そう言えば、そうだけれどさ……。」
「ま、もしもシノギの犬なら極力必要以上に関わらない方が良いかもしれないな。」
「そうだねえ。君子危うきに何とやらとも言うものねえ……。」
そう答えて茶を濁したものの、果たしてその時に自分はちゃんと断れるだろうか?と不安に思うと共に、もっと凄い物は何かと期待に胸を膨らませる、そんな相反する気持ちを抱く俺が、確かにそこに居た。