当事者達と同窓会
鏡の前に立った俺は、しばらく自分の顔を眺めていた。
いや、正確には顔ではない。頭だ。
つるりとしている。
見事なまでに。
昔は髪があった気がするのだが、いつ頃からこうなったのかはよく覚えていない。思い返そうとすると頭の奥に妙な違和感が生まれるので、最近は深く考えないことにしていた。
それより今日は久しぶりの集まりだ。
高校時代の友人達と会う約束をしている。
一也。
健二。
さやかちゃん。
そして俺。
四人が揃うのは何年ぶりだろうか。
高校を卒業してから、それぞれ違う道を歩き始めた。頻繁に連絡を取り合っていたわけでもない。それでも不思議と縁だけは切れなかった。
俺は机の上のパソコンへ視線を向ける。
モニターにはゲーム画面が映っていた。
相変わらずボスは強い。
昨日も死んだ。
一昨日も死んだ。
たぶん今日までで六回は死んでいる。
それでもやめられない。
あのゲームには人を引き込む何かがあった。
「まったく……」
思わず苦笑する。
大学を卒業してからというもの、俺の生活はほとんどこのゲーム中心になっていた。
就職活動は上手くいかなかった。
何社受けても落ちた。
履歴書を送り、面接へ行き、落ちる。
それを繰り返しているうちに気力が尽きた。
だからといって将来への不安がないわけではない。
だが考えても仕方がないことは考えない。
それが俺の生き方だった。
「……そろそろ行くか」
時計を見る。
約束の時間が近い。
俺はゲームを終了させ、椅子から立ち上がった。
立ち上がった瞬間、ほんの僅かに身体が揺れた。
最近よくある感覚だった。
まるで重心がずれているような。
何かが足りないような。
だが理由は分からない。
病院へ行くほどでもない。
だから今日も無視する。
俺は財布だけをポケットへ押し込み、家を出た。
※
待ち合わせ場所は駅前だった。
夏の名残を残した夕方の空気が街の上に漂っている。
日は傾いていたが、地面にはまだ昼の熱が残っていた。
駅前には仕事帰りの会社員や買い物帰りの家族連れが行き交い、それぞれの生活へ帰っていく。
その人波の向こうに、一人の男が立っていた。
一也だった。
すぐに分かった。
高校時代より大人びているが、穏やかな雰囲気は変わっていない。
子供好きそうな顔をしている。
実際、今は児童保護施設で働いているらしい。
「よう」
俺が声をかけると、一也は振り返って一瞬びっくりしたような顔をし笑った。
「久しぶりだな、どうしたんだその」
一也が何か言おうとした直後だった。
遠くから大きな声が聞こえてきた。
「おーい!」
人混みの中を大股で歩いてくる男。
健二だった。
相変わらずだった。
歩き方も。
笑い方も。
声の大きさも。
大学院へ進学して研究をしているとは思えない。
高校時代のまま歳だけ重ねたような男だった。
そしてその隣には、さやかちゃんがいた。
白いブラウスに落ち着いた色のスカート。
派手ではない。
むしろ控えめな服装だった。
だが不思議と目を引く。
整った顔立ちのせいかもしれないし、歩き方のせいかもしれない。
あるいはその静かな微笑みのせいかもしれなかった。
二人は高校の時から付き合っているが、この様子だと今もうまくいっているのだろう。
「雄大さん」
さやかちゃんが会釈する。
「お久しぶりです」
「久しぶり」
俺が答える。
すると健二が俺の顔を見て吹き出した。
「おいおいどうしたんだよ、それ」
腹を抱えている。
「遠くからだと雄大って分かんなかったよ」
「だから、何がだよ」
「お前のその頭だよ」
一也も肩を震わせている。
「最初見た時、俺も誰か分からなかったよ」
「そんなに変か?」
「変だろ」
健二は即答した。
「高校の時はちゃんと髪あっただろ」
「そうだったっけ?」
「そうだったよ」
「覚えてないな」
本当に覚えていなかった。
すると三人が同時に顔を見合わせる。
それからなぜか声を上げて笑った。
俺には何がおかしいのか分からなかったが、まあ楽しそうだからいい。
久しぶりに会ったのだ。
こういう時間も悪くない。
「立ち話もなんだし」
一也が言う。
「店に入ろうか」
「賛成です」
さやかちゃんが頷く。
健二も大きく手を振った。
「よし、今日は飲むぞ」
俺達は駅前の居酒屋へ向かって歩き始めた。
並んで歩く三人の背中を見ながら、俺は少しだけ懐かしい気持ちになった。
高校時代。
放課後。
くだらない話をしながら帰った帰り道。
あの頃は将来のことなど何も考えていなかった。
だが今、それぞれ違う人生を歩いている。
それでもこうしてまた集まれる。
その事実が、なぜだか少し嬉しかった。
居酒屋の暖簾をくぐると、焼き物の匂いと酒の香りが入り混じった空気が鼻をくすぐった。
平日の夜だというのに店内は賑わっていて、あちこちの席から笑い声が聞こえてくる。
案内された四人席に腰を下ろすと、ようやく久しぶりに四人で集まれたという実感が湧いてきた。
注文を済ませ、飲み物が運ばれてくる。
ジョッキの表面には細かな水滴がびっしりと浮かび、冷気が白く曇って見えた。
俺はそれを見つめながら、ふと高校時代を思い出していた。
あの頃は酒なんて飲めなかった。
放課後に集まっても、コンビニで買ったジュースを片手に馬鹿話をするくらいだった。
それが今では居酒屋で酒を飲む年齢になっている。
時間というものは、思っている以上に早く流れてしまうらしい。
「それじゃあ」
俺はジョッキを持ち上げる。
「久しぶりの再会に」
三人もそれぞれグラスを掲げた。
「乾杯」
「乾杯」
ガラスの触れ合う澄んだ音が鳴る。
冷えた液体が喉を流れ落ちていく感覚に、自然と肩の力が抜けていった。
しばらくは近況報告だった。
一也は児童保護施設で働いている。
健二は大学院で研究を続けている。
さやかちゃんは大学四年生。
そして俺は相変わらずゲームばかりしている。
並べてみると、自分だけ少し取り残されているような気もしたが、不思議と惨めな気分にはならなかった。
この三人の前では、高校時代のままの自分でいられるからかもしれない。
「それで一也」
健二が箸を動かしながら尋ねる。
「施設の仕事って大変なのか?」
「大変だよ」
一也は苦笑した。
「子供相手だからね」
その表情には疲労もあったが、それ以上に充実感があった。
本当に好きでやっている仕事なのだろう。
「でも後悔はしてないかな」
そう言って一也はグラスを傾けた。
「あの仕事を選んで良かったと思ってる」
その言葉に嘘は感じられなかった。
昔からそういう奴だった。
誰かのために動くことを苦にしない。
俺には真似できない性格だった。
「そういえば」
俺は思い出したように尋ねる。
「名前のない少女事件ってあったよな」
一也が小さく頷いた。
「ああ」
ニュースでも大きく報道されていた虐待事件だ。
その少女が保護された施設こそ、一也の勤め先だった。
「会ったことあるのか?」
「いや」
一也は首を横に振る。
「俺が働き始めた頃には、もういなかった」
少しだけ残念そうな声だった。
「先輩達から話は聞いたけどな」
「どんな子だったんだ?」
一也は少し考えるように視線を落としてから口を開いた。
「猫みたいだったらしい」
「猫?」
思わず聞き返す。
「そう。本当に猫みたいだったんだってさ。施設の裏でネズミを追いかけていたこともあったみたいで、捕まえたら食べようとしたこともあったらしい。うちの施設は古い建物だから、ネズミもゴキブリも結構出るんだよ。俺も施設内に入ってきた虫はよく駆除したりする」
健二が驚いたように目を丸くする。
「本物の猫じゃねえんだから」
「俺も最初はそう思った」
一也も笑う。
だがその笑いは長く続かなかった。
少しだけ視線を落とし、静かな声になる。
「鼠を食べてでも、生きようとしてたんだろうな」
その言葉だけが妙に耳に残った。
「子供たちのお世話は大変ではないですか?」
子供好きだと公言しているさやかが気にした様子で一也に問いかけた。
一也は小さく笑った。
「大変だよ。言うことを聞かない子もいるし、毎日何かしら騒ぎは起きる。でもな――」
そこで言葉を切る。
グラスの中の氷が小さく音を立てた。
「可愛いんだよ、みんな」
その声音はどこか柔らかかった。
「そういえば、一年くらい前だったかな。俺になついてた子がいたんだけど……ある日、急にいなくなったんだ」
健二が首を傾げる。
「いなくなった?」
「ああ」
一也は静かに頷いた。
「本当に突然だったんだ。名前のない少女に続いて二例目の失踪らしい。それ以来、一度も会ってない」
一也の悲し気な雰囲気を察し、話題を変えるように俺はグラスを置いた。
「そういえば一也はどうして高校と同時に働き始めたんだ? 夢があるって言ってたよな」
高校時代にも夢の詳細は聞いたことがなかった。
すると健二が面白そうに身を乗り出す。
「俺も聞きたい」
「私もです」
さやかちゃんも微笑んだ。
一也は少しだけ迷うような顔をしたあと、静かに口を開いた。
「養豚場」
一瞬、沈黙が落ちた。
「養豚場?」
「うん」
「養豚場を経営するってことだろ。本気か?」
「本気だよ」
驚いた。
だが不思議と似合っている気もした。
高校時代から豚に妙な執着を持っていたからだ。
健二も同じことを考えたらしい。
「お前、高校の時も豚小屋に女がいるとか言ってたよな」
その瞬間だった。
一也の表情が僅かに止まった。
本当にほんの一瞬だけ。
気づかなかった者もいたかもしれない。
だが俺には分かった。
あの話は今でも一也の中で終わっていない。
「……いたんだよ」
一也は静かに言った。
否定も言い訳もしなかった。
ただそれだけだった。
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたからだ。
代わりにさやかちゃんが微笑む。
「素敵な夢だと思います」
一也も少しだけ笑った。
「ありがとう」
穏やかな笑顔であったが、この話は切り上げようという意思を感じた。
その時ちょうど、両手に抱えることのできるギリギリの量の皿を持った店員が席まで近寄ってきた。
「お待ち同様、ご注文の品でーす」
料理が運ばれてきて、卓上に湯気と香ばしい匂いが広がる。グラスの側面の水滴が軽やかにひかり、店内のざわめきが遠く近く揺れていた。
それぞれが違う道を歩いてきたはずなのに、不思議と高校時代の空気はまだ残っているらしい。くだらない話をしているだけで、数年という時間が少しだけ巻き戻ったような気がした。
そんな穏やかな空気の中で、俺はふと思い立ってさやかに尋ねた。
「まあ、ニートの俺が他人の将来をどうこう言える立場じゃないんだけどさ。さやかちゃんには何か夢とかあるのか?」
すると彼女は一瞬だけ考えるように視線を伏せ、それから柔らかく微笑んだ。
「そうですね……私は、お嫁さんでしょうか」
その言葉は冗談めいているようでいて、不思議と本気にも聞こえた。
「どうでしょう。女の子らしい夢だと思いませんか?」
健二がすぐに笑った。
「そんなこと聞くまでもないだろ。いつでも来いよ」
その言葉に、さやかは嬉しそうに目を細める。
向かいに座る二人を見ながら、一也が苦笑した。
「本当に仲いいな。高校の頃から変わらない」
「さやかちゃん、まだ大学生だったよな」
「ええ。四年生です」
そう答える横顔は、誰が見てもごく普通の女子大生だった。優しくて、穏やかで、少し控えめで。
だからこそ、その後に続いた沈黙が妙に気になった。
「じゃあ卒業したら、そのまま結婚なんてこともありそうだな」
俺がそう言うと、健二も照れくさそうに笑った。
さやかも笑った。
だがその笑顔はほんの一瞬だけ遅れていた気がした。
「さすがに気が早いですよ」
そう言った後、彼女は手元のグラスへ視線を落とした。その中には唯一アルコールの入っていない飲み物がはいっており、氷がゆっくり溶ける音がする。
そして彼女は、誰に聞かせるでもないほど小さな声で何かを呟いた。
「……おまじないも、最近切れてしまったみたいですし」
その声はあまりに小さく、健二も一也も聞こえなかったらしい。
二人は普通に会話を続けている。
だが向かい側に座っていた俺には、その言葉だけが妙にはっきり耳に残った。
「おまじない?」
思わず聞き返してしまう。
さやかは顔を上げた。
一瞬だけ驚いたような表情を見せたあと、すぐにいつもの柔らかな笑みに戻る。
「あら、聞こえてしまいましたか」
「いや、なんとなく」
「大したことではありませんよ」
そう言いながら彼女は首を横に振った。
だが俺には、その笑顔の奥に何か別の感情が隠れているようにも見えた。
それが不安なのか、執着なのか、それとも別の何かだったのかは分からない。
ただ、彼女は続けた。
「好きな人がずっと自分を好きでいてくれますように、って願うことくらい、女の子ならあるでしょう?」
言葉だけ聞けば自然だった。
けれど、その瞬間だけ彼女の瞳は笑っていなかった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
まるで何かを確かめるように、隣の健二を見つめていた。
その視線の深さに、なぜか俺は言葉を失った。
健二は何も気付いていない。
呑気に枝豆をつまみながら笑っている。
「おまじないなんて効くのか?」
「効きますよ、きっと」
さやかは即座にそう答えた。
迷いのない声音だった。
まるで自分自身に言い聞かせるような。
あるいは、誰かへ誓いを立てるような。
店内の照明がグラスの縁に反射し、彼女の瞳の奥で小さく揺れた。
その光が消えた時には、彼女はもういつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「でも皆さん、本当に気が早いですよ」
そう言って笑う姿は、どこからどう見ても普通の、可憐で花のような女子大生だった。
「もし健二が浮気なんかしたらどうするんだ?」
何気ない質問だった。
学生時代から付き合っている二人だからこそ出せる冗談のつもりだった。
さやかは少しだけ考えるように首を傾げた。
その仕草は可愛らしく、大学生の女性らしい自然なものだったが、なぜだろう、その沈黙だけが妙に長く感じられた。
「そうですね……」
彼女はゆっくりと顔を上げる。
そして穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「きっと、とても悲しくなると思います」
その言葉に健二は申し訳なさそうな顔をした。
「だからしないって」
「ええ、分かっています」
さやかは即座に答えた。
まるで最初から疑っていなかったかのような声だった。
「健二さんは約束を守る人ですから」
そう言いながらも、彼女の指先はグラスの縁を静かになぞっている。
細く白い指だった。
料理をする人間らしく、爪は短く整えられている。きっと包丁の手入れもきちんとされているのだろう。
もちろん口には出さない。
ただの連想だ。
根拠なんてどこにもない。
「もし本当に裏切られたら……そうですね」
店内の喧騒が遠く聞こえる。
誰かの笑い声も、皿の触れ合う音も、なぜかその時だけ少し遠かった。
「その時は、私もどうなるか分かりません」
彼女はそう言って小さく笑った。
けれど、その笑みは決して冗談を言う人間のものには見えなかった。
「だから健二さん」
さやかは隣に座る恋人を見つめる。
真っ直ぐに。
どこまでも真っ直ぐに。
「私を悲しませないでくださいね」
健二は苦笑しながら肩をすくめた。
「だから大丈夫だって」
「ええ」
彼女は満足そうに頷く。
「信じていますから」
その言葉は愛情にも聞こえたし、祈りにも聞こえた。
さやかの言葉をきっかけに話題は自然と健二へ移っていった。
「しかし、お前が大学院に進むなんてな」
健二はジョッキを持ち上げ、少し照れくさそうに肩をすくめる。
俺は素直にそう言った。
高校時代の健二は、勉強よりもグラウンドを走っている時間の方が長かった人間だ。
サッカーのことなら誰よりも熱心だったが、それ以外の教科にはあまり興味を示さなかった。
そんな健二が研究者の道を歩いているという事実は、今でも少し不思議だった。
「人は案外変わるものらしい」
健二は静かに笑った。
「今は蝉を研究している」
「蝉か」
「ああ」
その返事には迷いがなかった。
高校時代から変わらない熱量がそこにはあった。
「国内だけではなく海外の種類も調べている。生態も違えば環境も違う。比べてみると面白いんだ。冬に生存できる種もあることも分かってきた」
健二はそう言ってグラスを口元へ運ぶ。
昔なら笑い話で終わったはずの話題だった。
けれど今の健二の言葉には、自分の人生を賭けている人間特有の重みがあった。
「お前、本当に好きなんだな」
俺がそう言うと、健二は少しだけ目を細めた。
「好きじゃなきゃ、続かないよ」
短い言葉だったが、それだけで十分だった。
一也が苦笑する。
「昔から生物だけは飛び抜けてたからな」
懐かしむような口調だった。
「他の教科は散々だったけど」
「余計なことまで思い出さなくていい」
健二は眉をひそめたが、その声音に苛立ちはない。
長い付き合いの人間同士だからこそ許されるやり取りだった。
俺はそんな二人を見ながら、自然と笑みを浮かべていた。
高校時代には想像もしなかった未来だった。
一也は児童保護施設で働き、健二は大学院で研究を続け、さやかは大学を卒業しようとしている。
それぞれ別々の場所を歩いてきたはずなのに、こうして再び同じ卓を囲んでいる。
時間は確かに流れている。
けれど消えないものもあるらしい。
俺はグラスの中で揺れる琥珀色の液体を眺めながら呟いた。
「みんな変わったな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
けれど三人はすぐに反応した。
一也が笑う。
健二が呆れたように首を振る。
さやかまで小さく吹き出している。
そして三人はほとんど同時に言った。
「それを雄大が言うのか」
その声には驚くほど綺麗に重なった一体感があった。
俺は思わず周囲を見回した。
「なんだよ」
「自覚がないのか」
一也が苦笑する。
「高校時代のお前は普通に髪があっただろ、しかも少し痩せたんじゃないか」
「そうか?」
本気でそう思った。
すると健二が深いため息をつく。
「お前、自分のことになると本当に適当だな」
さやかも微笑んでいる。
「でも、そこが雄大さんらしいと思います」
店内の喧騒の中で、四人の笑い声だけが小さく重なった。
誰も口にはしなかったが、本当に変わったのは外見や進路だけではない。
それぞれが誰にも言えないものを抱え、それぞれの異常さと折り合いをつけながら生きている。
ただ、この瞬間だけはそんなことを忘れていられた。
少なくとも俺には、そう思えた。
「そうだ」
俺は思い出したように言う。
「実は今日、みんなを呼んだ理由がもう一つあるんだ」
三人がこちらを見る。
「先生の事件だよ」
空気が少しだけ変わった。
高校時代の国語教師。
突然姿を消した男。
そして数年後。
白骨死体として発見された男。
「ニュース見たんだ」
俺は続ける。
「死体が見つかった場所」
健二を見る。
「お前ん家だったろ」
健二は困ったように頭を掻いた。
「ああ」
「何か知らないのか?」
「何も知らない」
その答えは即答だった。
「本当にびっくりした。蝉の幼虫……の生態を観察したくて庭をスコップで掘っていたんだ。そしたら白いものが見えて……」
彼の表情を見る限り嘘ではなさそうだった。
しばらく沈黙が続く。
そして。
「健二さんのことが好きだったんですよ」
さやかちゃんが静かに言った。
「なんだよ、さやか。今は関係ないだろ」
健二は照れと困惑が混在したような声を出す。
だが本人は変わらず穏やかな微笑みを浮かべていた。
「いえ、高校時代のことを思い出してしまって」
それだけ言ってグラスを口元へ運ぶ。
どういう意味だろう、俺はさやかちゃんの意図することが分からなった。
ただ、自分が健二を好きだということを伝えたかったのか。
それとも殺人を犯した者が健二のことが好きだったと言いたいのか。
しかしその違和感もすぐに酒と酔いと会話の中へ溶けていった。
さやかは腕時計に目を落とし、それから店の窓の外へ視線を向けた。
いつの間にか夜は深くなっている。
「……そろそろお開きにしませんか。気付けば、もうこんな時間ですよ」
健二は驚いたように時計を見た。
「おお、本当だ。もうこんな時間か」
それから苦笑する。
「明日は朝から大学に行かなきゃならないんだった。危うく忘れるところだったな」
俺も負けじと頷いた。
「俺も帰らないとな」
「仕事か?」
一也が冗談めかして尋ねる。
俺は首を振った。
「いや。明日は朝からゲームだ。寝る前にも一戦いかないと」
一也は呆れたように笑った。
「お前、本当に変わらないな、それにお前がやってるゲーム、有料なんだろ?」
一也がそう言うと、俺は得意げに胸を張った。
「いや、それが無料なんだよ」
「無料?」
「うん。なんかポイント制らしいんだけどさ」
そこで少し考えるように首を傾げる。
「まあ詳しいことは分かんないけど、とりあえず心臓の七百ポイント払っといた」
一瞬、沈黙が落ちた。
次の瞬間。
健二が盛大に吹き出した。
「心臓って何だよ!」
酔いも回っていたからだろう、大きな笑い声だった。
「そんなもん使ったら死ぬだろ!」
「いやいや。後払いらしいから平気だって」
「後払いなら余計怖ぇよ!」
俺は本心から言ったのだが、健二は腹を抱えて笑った。
さやかも思わず口元を押さえる。
一也は呆れ半分、笑い半分といった表情で首を振った。
さやかは再び時計を見る。
もう本当に遅い時間だった。
「ほら、また皆さん話が盛り上がってきてますよ」
少し笑いながら言う。
「帰るんじゃなかったんですか?」
健二は「あっ」という顔をした。
「そうだった」
それからグラスの残りを飲み干す。
「危ない危ない。あと一時間は話してるところだった」
一也も静かに頷いた。
「そうだな」
窓の外へ目を向ける。
夜の街は穏やかだった。
学生だった頃は、またすぐ会えると思っていた。
けれど社会人になるとそうはいかない。
それぞれが別々の場所で暮らし、別々の人生を歩いている。
だからこそ、こうして同じ席に集まれる時間は思った以上に貴重だった。
「じゃあ今日はこの辺でお開きにしようか」
一也がそう言うと、皆が頷いた。
楽しい時間には終わりがある。
けれど終わりがあるからこそ、その時間は記憶に残るのかもしれない。
会計を済ませ、店を出ると夜風が少しだけ冷たかった。
昼間の熱は消え、街の灯だけが静かに路面を照らしている。
「また集まろう」
一也が言う。
「次も雄大が企画な」
健二が笑う。
「それは勘弁してくれ」
俺も笑った。
さやかちゃんも楽しそうに笑っていた。
その光景はごく普通だった。
どこにでもいる友人達の集まり。
ただ少しだけ変わっているのは、俺達が抱えている過去の方だったのかもしれない。
それぞれが何かを隠し。
それぞれが何かを抱え。
それでもこうして笑いながら別れていく。
夜の駅前で手を振る三人の姿を見送りながら、俺はふと思う。
人は案外、他人のことを知らないまま生きている。
いや、他人どころか、自分自身のことすら分かっていないのかもしれない。
そんなことを考えながら駅へ向かって歩き始めた。
夜風は思ったより冷たく、酒で火照った頬をゆっくりと冷ましていく。
繁華街を抜けると人通りもまばらになり、街灯だけが一定の間隔で歩道を照らしていた。
ふと前方を見ると、一人の女性が立ち止まっていた。
年齢は自分と同じくらいだろうか。
仕事帰りらしいスーツ姿で、両手に買い物袋を抱えている。
どうやら袋の底が抜けてしまったらしく、中身が歩道へ散乱していた。
缶詰や野菜が転がり、女性は困ったようにしゃがみ込んでいる。
俺は反射的に駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「あっ……すみません」
女性は少し驚いたように顔を上げた。
柔らかな目をした人だった。
どこか気の弱そうな、それでいて穏やかな雰囲気をまとっている。
「手伝います」
「ありがとうございます」
二人で散らばった荷物を拾い集める。
たったそれだけのことだった。
本当に、それだけのことだった。
この時の俺は知るはずもない。
近い未来、この女性と結婚することになるなど。
そしてさらにその先で、彼女と共に経験することになる悲しみなど。
もちろん、その時の俺はそんな未来を想像することすらなかった。
荷物を渡し終えると、女性は小さく頭を下げた。
「本当に助かりました」
「気にしないでください」
それだけ言って別れる。
名前も聞かなかった。
連絡先も知らない。
ただ夜の街で偶然すれ違っただけの他人だった。
少なくとも、その時は。
女性の後ろ姿が街灯の向こうへ消えていく。
俺もまた反対方向へ歩き出した。
その女性が少し歩くと振り返り、俺を見つめていることには気付かなかった。
俺は酔いを醒ましがてら、夜風の吹く道をゆっくりと帰った。玄関の鍵を開け、誰もいない部屋へ入った。
「ただいまー」
当然返事はない。
独り暮らしなのだから当たり前だった。
上着を椅子へ放り投げ、窓の外へ目を向ける。
静かな夜だった。
どこかで誰かが眠り、どこかで誰かが泣き、どこかで誰かが笑っている。
世界は広い。
そして人が知らない出来事の方が、知っている出来事よりずっと多い。
遠く離れた養豚場では、眠る豚達の間に立つ何かが、今も変わらず微笑みながら一人の青年を囚え続けていることを。
ある大学の研究室で、季節外れの蝉が短い命を震わせながら鳴いていたことも。
誰かの鞄の奥で、よく研がれた包丁が静かに揺れていることも。
名前を持たぬまま生きてきた少女が、どこかの山で月を見上げていることも。
土の下で白い骨となった男が、かつて女たらしの教師だったことも。
その男を愛した末、豚以下だと罵られた女がいたことも。
かつて気持ちの悪ものは殺してもいいと本気で信じていた子供の真っ暗な未来も。
そして、この世界には説明のつかないものが確かに存在していることも。
俺は知らない。
たぶん、この先も知らないままだろう。
もっとも。
知らなくても人は生きていける。
俺がそうであるように。
だから俺は何も知らないまま椅子へ腰を下ろし、何も知らないままパソコンの電源を入れる。
モニターがゆっくりと光を帯びる。
見慣れた起動画面。
使い慣れたキーボード。
現実がどれほど複雑でも、ログインボタンを押せばそこには単純で分かりやすい世界が待っている。
「さて、と」
俺は小さく呟いた。
そして何の疑いもなくゲームを起動する。
人生とは案外そういうものなのかもしれない。
世界の裏側でどれほど奇妙な出来事が起きていようとも、大半の人間はそれを知らずに生きている。
そして幸運なことに。
あるいは不幸なことに。
このゲームに出会ってしまった俺は、間違いなく奇妙な世界に生きる当事者だった。
これにて本編は完結です。
ここまで読んでくださった方に感謝申し上げます。




