山猫と猫の少女
わたしは猫よ。
名前はまだないの。
……本当は付けてもらったのだけれど、気に入らなかった。
だってご主人様の苗字で呼ばれるのよ。
わたしはご主人様と同じ人間じゃないし、そもそも猫なのだから当然違う。
それなのに同じ名前だなんて変だと思う。
だから勝手に名乗るのをやめてしまった。
人間たちは何度も新しい名前を考えていたけれど、どれもしっくりこなかった。
可愛い名前もあったし、変な名前もあった。
でも全部違う気がした。
結局面倒になったので、好きなように呼ばせている。
いつか誰かが、本当にわたしに似合う名前を付けてくれるのかもしれない。
そんなことを時々考える。
もっとも、今はもうどうでもよかった。
わたしがここへ連れて来られてから、一年ほどが過ぎていた。
ここは児童保護施設という場所らしい。
人間の子供がたくさんいて、大人もたくさんいる。
ご飯は出るし、雨風もしのげる。
でも居心地は良くなかった。
わたしには狭かった。
まるで檻の中にいるようだった。
その一年の間、ご主人様にも先生にも会えなかった。
ご主人様は少し怖い。
思い出すと今でも身体が強張る。
けれど先生は違った。
先生は優しかった。
いつも呆れたような顔をしていたけれど、それでも優しかった。
だから時々思う。
「また先生に会えたらいいのにな……」
窓の外を見ながら小さく呟く。
春の終わりだった。
柔らかな風が吹き込み、若葉の匂いが漂ってくる。
「また会う約束はしたけど、ジョーブツしちゃったみたいだし……」
先生はもういない。
そう思うと胸の奥が少しだけ寂しくなった。
だからわたしは決めた。
ここを出ようと。
どこへ行くのかですって?
そんなの決まっているわ。
山よ。
先生がいなくても、猫は生きていかなければならない。
山ならネズミもいるだろうし、鳥もいるだろう。
きっと自由だ。
わたしは誰にも気付かれないよう施設を抜け出した。
そして半日ほど歩き続けた。
舗装された道が終わり、土の道になり、やがて木々が空を覆い始める。
鳥の声が聞こえる。
風が葉を揺らす音が聞こえる。
土と草の匂いが鼻をくすぐる。
久しぶりに胸が躍った。
※
「ふぅ……案外近かったのね」
山の入口で立ち止まり、わたしは大きく息を吐いた。
目の前には深い緑が広がっている。
木々は高く、枝葉は空を覆い隠し、森の奥は薄暗かった。
知らない場所。
知らない匂い。
だけど不思議と怖くはなかった。
むしろ懐かしい気さえした。
わたしは猫だから。
こういう場所の方が似合うのかもしれない。
「さて……まずは食べ物を探さないと」
お腹が空いていた。
施設のご飯も悪くはなかったけれど、やっぱり自分で獲物を捕る方が好きだった。
「ネズミ、いるかしら……」
そういえばネズミを食べるのも久しぶりだった。
先生に教わった最初の狩り。
あの時のことを思い出しながら森の中を歩く。
木漏れ日が地面にまだら模様を作っていた。
風が吹くたびに葉が揺れ、その隙間から光が零れる。
山は静かだった。
静かで、そして生きていた。
※
その時だった。
視線を感じた。
獣の視線だ。
わたしは足を止める。
茂みの向こう。
木の根元の影の中。
そこに一匹の猫がいた。
普通の猫ではない。
身体は大きく、筋肉質で、黄金色の瞳は森そのもののように静かだった。
長い尻尾がゆっくり揺れる。
山の匂いがした。
「……人間の子供か」
低い声だった。
落ち着いていて、どこか威厳がある。
「珍しいな。一人でこんな場所まで来るとは」
わたしは少し嬉しくなった。
久しぶりに猫と話せたから。
「あなたは山猫なのね」
すると相手の耳がぴくりと動いた。
「……驚いたな」
山猫は目を細める。
「私の言葉が分かるのか」
「ええ。だってわたしも猫ですもの」
山猫はしばらく黙っていた。
黄金色の瞳がわたしをじっと見つめる。
まるで匂いではなく、その奥にある何かを確かめるように。
「人間の姿をしているのにか」
「そうよ」
「……なるほど」
山猫は静かに言った。
「確かに普通の人間とは違う匂いがする」
風が吹いた。
木々がざわめく。
「お前は何者だ」
「何者でもないわ」
「過去に何かあったのではないのか」
「普通に生きてきただけよ」
山猫はまた黙った。
けれどその沈黙には納得の色がなかった。
「ここはお前のいる場所ではない」
やがてそう言った。
「家へ帰れ」
わたしは首を振る。
「帰る家なんてないわ」
「そんなことはない」
「あるの」
思わず声が強くなった。
「本当にないの」
山猫は何も言わなかった。
森の風だけが二匹の間を通り抜けていく。
「ねえ」
わたしは一歩近付く。
「山を案内して」
「……何?」
「わたし、この山のこと何も知らないもの」
山猫は露骨に嫌そうな顔をした。
でもわたしは構わず続ける。
「お願い、山猫さん」
その呼び方が気に入った。
先生みたいだったから。
山猫は深いため息を吐いた。
そして空を見上げる。
木漏れ日がその背中を照らしていた。
「……好きにしろ」
それが、わたしと山猫さんの出会いだった。
※
狩りを覚えてからの日々は、わたしにとって初めて自由というものを知った時間だった。
朝になれば木々の隙間から差し込む光で目を覚まし、冷たい沢の水を飲み、風の匂いを辿りながら山を歩く。誰かに怒鳴られることもなければ、閉じ込められることもない。どこへ行くのも自由で、どこで眠るのも自由だった。
山猫さんは多くを語らない。
けれど、だからこそわたしは山猫さんのそばが好きだった。
危険な場所。
獲物の通り道。
雨を避けられる岩陰。
そういう大切なことを、山猫さんはいつも静かに教えてくれた。
わたしも必死だった。
教わったことを忘れないように。
山猫さんに認めてもらえるように。
失敗しても何度も挑戦した。
最初は野ネズミ一匹捕まえるのにも苦労した。
気配を消したつもりでも逃げられ、飛びかかったつもりでも空振りし、転げ回って泥だらけになることも珍しくなかった。
それでも少しずつ上達していった。
山の風の流れ。
獲物の足音。
草の揺れ方。
耳を澄ませば分かることが増えていく。
二か月も経つ頃には、わたしは一人でも獲物を捕まえられるようになっていた。
山猫さんは褒めたりしなかったけれど、それでも時折見せる小さな頷きが嬉しかった。
だからもっと上手くなりたかった。
もっと強くなりたかった。
もっと認めてもらいたかった。
その気持ちは日を追うごとに大きくなっていった。
そして――その気持ちが、わたしを間違わせた。
※
ある日の夕方だった。
山の向こうで陽が傾き始め、森全体が薄い橙色に染まっていた。
わたしは誇らしい気持ちで山道を駆けていた。
足元には大きな雉。
今まで捕まえたどの獲物よりも立派な獲物だった。
お腹は空いていない。
食べるつもりもない。
ただ捕まえたかった。
自分の力を試したかった。
それだけだった。
「見て、山猫さん!」
わたしは胸を張る。
「わたし、一人でこんな大きな雉を捕まえたのよ」
山猫さんはしばらく黙って雉を見つめていた。
その沈黙が妙に長く感じられた。
やがて低い声が返ってくる。
「……その雉を、お前はどうするつもりだ」
「え?」
思わず首を傾げる。
「どうするって……」
考えていなかった。
捕まえた後のことなど。
ただ捕まえられたことが嬉しかっただけだから。
山猫さんの金色の瞳が、静かにわたしを見つめていた。
「食べるわけでもない」
「うん……」
「仲間に与えるわけでもない」
「うん……」
「生きるためでもない」
わたしは返事ができなかった。
胸の奥が少しだけざわつき始める。
「お前は何の意味もなく命を奪ったのだな」
静かな声だった。
怒鳴られたわけではない。
それなのに、その言葉は鋭く胸へ突き刺さった。
「だって……」
わたしは俯く。
「狩りが楽しかったんだもん……」
自分でも子供みたいな言い訳だと思った。
でも、それが本当だった。
山猫さんは目を閉じた。
まるで何かを諦めるように。
「……やはりお前は人の子なのかもしれんな」
その声はどこか疲れていた。
「山に生きる者は必要以上には奪わない」
風が吹く。
木々が揺れる。
葉擦れの音だけが森に広がった。
「命を奪うのは生きるためだ」
山猫さんは続ける。
「飢えを満たすためであり、明日を生きるためであり、守るべきもののためだ」
そして、わたしを見た。
「楽しむためではない」
胸が痛かった。
なぜだろう。
怒られた時とは違う。
もっと嫌な痛みだった。
「自然の理に背く者を、この山に置いておくことはできない」
わたしは顔を上げる。
嫌な予感がした。
聞きたくなかった。
けれど次の言葉は容赦なく続いた。
「この山から出て行け」
世界が止まったような気がした。
「待って」
声が震える。
「わたしが悪かった」
必死に言葉を探す。
「もうしないから」
涙が滲む。
「ちゃんと食べる分だけにする」
山猫さんは何も言わない。
「だから――」
「……駄目だ」
低い声だった。
優しさも怒りもなかった。
ただ決定だけがあった。
「今ここで許せば、お前はまた同じことを繰り返す」
「違う!」
思わず叫んだ。
「繰り返さない!」
でも山猫さんは首を振った。
「それはお前自身にも分からぬことだ」
わたしは何も言えなくなる。
山猫さんの言葉が正しい気がしたからだ。
「早く行け」
夕暮れの光が山猫さんの背中を照らしている。
いつも大きく見えた背中が、今日は遠かった。
「行かなければ――」
山猫さんは少しだけ目を伏せる。
そして静かに続けた。
「私がお前を殺さねばならなくなる」
その言葉が全てだった。
山猫さんは本気だった。
脅しではない。
山の掟として言っているのだと分かった。
だから、もう何も言えなかった。
長い沈黙のあと。
わたしは小さく頷く。
「……分かった」
声がかすれる。
「山猫さん……今まで、ありがとう」
山猫さんは答えなかった。
ただ夕暮れの森を見つめたまま動かなかった。
わたしもそれ以上何も言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当に終わってしまう気がしたから。
だから振り返らずに歩いた。
一歩。
また一歩。
足を進めるたびに胸が苦しくなる。
初めて見つけた居場所だった。
初めて自分で選んだ居場所だった。
先生がいなくなって。
施設から逃げ出して。
ようやく辿り着いた場所だった。
なのに、また、失ってしまった。
背後では風が木々を揺らしている。
振り返れば、まだ山猫さんが立っている気がした。
けれど振り返らなかった。
振り返れば足が止まってしまいそうだったから。
夕暮れの山道を、わたしは一人で歩いていく。
足元には長く伸びた影。
行く先は分からない。
帰る場所もない。
それでも歩かなければならなかった。
空にはもう夜の色が滲み始めている。
山の匂いが少しずつ遠ざかっていく。
そして気付く。
わたしはまた一人になったのだと。
先生を失った時と同じように。
ご主人様の家にいた頃と同じように。
広い世界の中で、わたしは再び行き場を失っていた。
――それでも。
胸の奥には残っている。
山を駆け回った日々。
冷たい沢の水。
風の匂い。
そして、不器用な優しさで生きる術を教えてくれた一匹の山猫のことを。
だからわたしは泣かなかった。
ただ静かに夜へ向かって歩き続けた。
まだ見ぬどこかへ向かって。
名前のない少女と名付け親に続きます




