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包丁と女子高生  作者: NAAA
名前のない少女編
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11/18

名前のない少女と名付け親

 山猫さんに山を出て行けと言われても、わたしには帰る場所などなかった。


 施設へ戻るという選択肢も、頭の中には浮かばなかった。


 あの場所へ戻れば生きてはいけるのだろう。


 雨に濡れることもなく、食べ物にも困らないのだろう。


 それでも足は向かなかった。


 あそこには山の風がない。


 自由がない。


 先生がいるわけでもない。


 だからわたしは山を出なかった。


 もっとも、山猫さんに言わせれば山を出なかったことになるのだろうけれど、実際には山の端へ追いやられただけだった。


 人間の住む場所と山との境目。


 どちらにも属さない曖昧な土地。


 わたしはそこで暮らし始めた。


 山猫さんは知っているのかもしれない。


 わたしがまだ近くにいることを。


 その気になれば簡単に見つけられるはずだ。


 それでも何も言いに来ない。


 だから、もしかしたら見逃してくれているのかもしれなかった。


 そう思うことにした。


「……また、一人になっちゃったな」


 誰もいない森の中で呟く。


 返事はない。


 風が木々を揺らす音だけが聞こえた。


 ※


 わたし一人の生活が始まった。


 山猫さんから教わったことを思い出しながら、寝床を作る。


 雨風をしのげる岩陰。


 近くには小さな沢。


 獲物の通り道もある。


 山猫さんならもっと良い場所を選ぶのだろうけれど、それでも今のわたしには十分だった。


 朝になれば川へ行く。


 昼には獲物を探す。


 夜になれば寝る。


 ただ生きるためだけの毎日。


 以前のわたしなら退屈だと思ったかもしれない。


 けれど今は違った。


 生きることそのものに必死だったから。


 狩りをする時も、必要な分だけ。


 お腹を満たせるだけ。


 それ以上は捕らない。


 あの日のことを忘れないように。


 山猫さんの言葉を裏切らないように。


 わたしは何度も自分へ言い聞かせた。


 そうして何日かが過ぎた。


 季節はゆっくりと移り変わっていく。


 昼間の風はまだ暖かい。


 けれど朝晩には少しずつ冷たさが混じり始めていた。


 沢の水に触れるたび、夏が遠ざかっていくのを感じる。


 空も高くなった。


 雲も変わった。


 虫の声も少しずつ変わった。


 なのに。


 わたしだけは変わらなかった。


 毎日同じことの繰り返しだった。


 朝起きる。


 狩りをする。


 食べる。


 眠る。


 また朝が来る。


 それだけ。


 誰とも話さない。


 誰も会いに来ない。


 誰も名前を呼ばない。


 ある日、ふと思った。


 何のために生きているのだろう、と。


 すると急に全部が面倒になった。


 狩りも。


 食事も。


 寝床を整えることも。


 生きることそのものさえも。


 わたしは狩りへ行かなくなった。


 食べなくなった。


 ただ寝転がって空を見ていた。


 木々の隙間から見える空は広かった。


 どこまでも高かった。


 雲だけがゆっくり流れていく。


 時間も同じように流れているはずなのに、不思議と何も変わらなかった。


 何日経ったのだろう。


 もう分からない。


 お腹も空かなかった。


 不思議だった。


 ご主人様と暮らしていた頃は、あんなにも空腹だったのに。


 あの頃はいつもお腹が空いていた。


 苦しかった。


 辛かった。


 それなのに今は何も感じない。


 空腹さえ面倒だった。


 ただ眠かった。


 とても眠かった。


 そして、寂しかった。


 胸の奥がぽっかり空いているようだった。


 先生がいない。


 山猫さんもいない。


 ご主人様もいない。


 世界にわたし一人しかいないような気がした。


 ご主人様が何日も帰ってこなかった頃も寂しかった。


 けれどあの時は待てた。


 いつか帰ってくると思えたから。


 今は違う。


 誰も来ない。


 待っても来ない。


 帰る場所もない。


 その事実だけが静かに胸へ積もっていった。


 ※


「……いた……」


 ふと痛みで目が覚めた。


 ぼんやりした意識のまま足元を見る。


 そこに一匹のネズミがいた。


 小さな歯で、わたしの足を齧っている。


 逃げようともしていない。


 まるで死体を食べるみたいに。


 わたしは追い払おうとした。


 けれど身体は動かなかった。


 指先すら持ち上がらない。


 力が入らない。


 そこでようやく理解する。


 ああ。


 わたしはもう駄目なのだと。


 足は痛かった。


 確かに痛かった。


 けれど、その痛みさえどこか遠くの出来事のようだった。


 自分の身体なのに、自分の身体ではないような感覚。


 不思議だった。


 怖くはなかった。


 ただ疲れていた。


 とても。


 とても疲れていた。


 だからもう一度眠ろうと思った。


 たぶん次に眠ったら起きない。


 そんな気がした。


 でも、それでいいと思った。


 死ぬのかしら。


 その考えさえ途中で途切れる。


 面倒だった。


 何もかも。


 ネズミは相変わらずわたしの足を齧っている。


 追い払う気にはなれなかった。


 だってわたしもネズミを食べたのだから。


 おあいこだ。


 そんなことを考えながら、わたしはゆっくり目を閉じた。


 最後に見えたのは、一匹のネズミだった。


 わたしの足を齧っていたネズミとは別のネズミだろうか。黒く小さな瞳で、じっとわたしを見つめている。


 その視線だけが妙にはっきり見えた。


 そして。


 世界は静かに遠ざかっていった。


 ――わたしは誰にも知られることなく死んだ。








 ……そう思った。


 少なくとも、そのはずだった。


 森は静かだった。


 風もない。


 鳥の声も聞こえない。


 世界そのものが息を潜めているようだった。


 そんな静寂の中で、不意に聞き慣れた声がした。


『……まったく。気になって戻ってみれば、この有様か』


 呆れたような声だった。


 けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がる。


「あら……先生」


 振り返る。


 そこには先生がいた。


 以前と変わらない姿で。


 少し浮かびながら。


 少し透けながら。


 相変わらず不機嫌そうな顔をして立っていた。


「久しぶりね」


 わたしは思わず笑う。


「いつからそこにいたの?」


『さあな。俺も気付いたらここにいた』


 先生は肩をすくめた。


 わたしは少し嬉しくなった。


 死んだ後でも先生に会えたから。


「先生はもうジョーブツしたんじゃなかったの?」


『したはずだったんだけどな』


「ふうん」


 わたしは先生を見上げる。


「相変わらず浮いてるのね」


 先生は嫌そうな顔をした。


『お前も自分の姿を見てみろ』


「え?」


 言われて初めて自分の手を見る。


 向こう側が透けていた。


 足は地面から離れている。


 風もないのに身体が少し揺れている。


 不思議だった。


 驚くほど不思議なのに、あまり驚かなかった。


「あら」


 わたしは何度か手を動かしてみる。


「わたしも透けてる」


『そういうことだ』


「そう」


 しばらく考える。


 そして納得した。


「やっぱり死んじゃったのね」


 先生は何も言わなかった。


 代わりにわたしの後ろへ視線を向ける。


 つられて振り返る。


 そこには痩せ細った少女が横たわっていた。


 骨ばった腕。


 土で汚れた髪。


 閉じたままの瞳。


 見慣れた顔だった。


 わたし自身だった。


「ずいぶん痩せちゃったのね」


 他人事みたいな感想が口をつく。


「ご主人様の家にいた頃でも、ここまでは痩せてなかった気がするわ」


 足元ではネズミがまだ死体を齧っていた。


 懸命に。


 生きるために。


「ネズミも大変ね」


 わたしは小さく呟く。


「こんなに痩せてたら食べるところも少ないのに」


 先生は深くため息を吐いた。


 ※


『それにしても、お前はどうして幽霊なんかになってるんだ』


「どうしてかしら」


『心残りとかないのか』


 心残り。


 その言葉を聞いて考える。


 山猫さん。


 施設。


 ご主人様。


 色々なものが頭をよぎる。


 でも最後に残ったのは一つだけだった。


「……先生に会いたかったのかも」


 自然とそう答えていた。


 先生は一瞬だけ黙る。


 それから少し困ったような顔をした。


『今、会ってるじゃないか』


「あら」


 確かにそうだった。


「そうね」


 わたしは笑った。


「じゃあ心残りじゃなくなったわ」


 先生は何も言わなかった。


 ただ少しだけ目を逸らした。


 ※


「ねえ先生」


『なんだ』


「わたし、ジョーブツしたいんだけど」


 先生が咳き込んだ。


『ずいぶん急だな』


「だって幽霊ってずっと浮いてるんでしょう?」


『まあな』


「疲れそうだもの」


『疲れねえよ』


「そうなの?」


『そういう問題じゃない』


 先生は頭を抱えていた。


 けれど少しだけ楽しそうにも見えた。


「先生はどうやってジョーブツしたの?」


『たしか……お前のことを誰かに伝えたら安心したんだ』


「安心?」


『そうだ』


「じゃあなんで戻ってきたの?」


 先生は顔をしかめた。


『だからお前が気になってだな……』


 そこで言葉が止まる。


 わたしは目を輝かせた。


「あっ」


『なんだ』


「会いに来てくれたんだ」


『……』


「あら」


『……』


「会いに来てくれたのね」


 先生は盛大にため息を吐いた。


『好きに解釈しろ』


 けれど否定はしなかった。


 それだけで十分だった。


 先生が不意に尋ねる。


『そういえばお前』


「なあに?」


『名前は』


 わたしは胸を張った。


「まだないわ」


『……まだなのか』


「まだよ」


『そうか』


 先生は空を見上げる。


 夕暮れだった。


 赤く染まった雲がゆっくり流れている。


 しばらく黙っていた先生は、やがて小さく笑った。


『だったら俺が付けてやる』


「え?」


『名前だ』


 胸が跳ねた。


「本当に?」


『ああ』


「先生が?」


『俺が』


「わたしに?」


『お前以外に誰がいる』


 その瞬間、胸の奥が熱くなる。


 ずっと欲しかったものだった。


 誰かがくれるはずだったもの。


 けれど最後まで貰えなかったもの。


 名前。


「先生」


『なんだ』


「嬉しい」


 それだけしか言えなかった。


 先生は照れくさそうに顔を逸らす。


『まだ付けてないだろ』


「でも嬉しい」


 先生はまたため息を吐いた。


 ※


『ゆっくり考えよう。向こうに行ってからでも遅くはない』


「向こう?」


『ああ』


 先生は遠くを見る。


 夕焼けの向こう。


 空と山の境目。


 何もないはずの場所を。


『あっちだ』


「何があるの?」


『さあな』


 先生は笑った。


 どこか寂しそうな笑みだった。


『でも、お前は一人じゃない』


 その言葉に、わたしは目を瞬かせる。


『初めて会った時、お前は言っただろう』


 先生がこちらを見る。


『先生になってくれって』


 風が吹いた。


 夕暮れの草が揺れる。


『だったら最後まで面倒を見る』


 静かな声だった。


 大きな言葉ではない。


 けれど、どんな約束よりも温かかった。


「うん」


 わたしは頷く。


『文字も教えてやる』


「うん」


『本も読ませてやる』


「うん」


『世界のことも教えてやる』


「うん」


 不思議だった。


 死んだはずなのに。


 これから何もなくなるはずなのに。


 胸は少しも怖くなかった。


 むしろ楽しみだった。


 先生がいるから。


 一人じゃないから。


 ※


「先生」


『なんだ』


「薄くなってきてる」


 先生の身体が夕焼けに溶けるように薄くなっていた。


『お前もだ』


 自分の手を見る。


 透けている。


 さっきよりずっと。


 向こうの景色が見えるほどに。


「これがジョーブツ?」


『たぶんな』


 先生も静かだった。


 もう言葉はあまり必要なかった。


 風だけが吹いている。


 空は赤から紫へ変わり始めている。


 世界がゆっくり夜へ向かっていた。


 その中で。


 わたしたちもまた、どこかへ向かっていた。


 ――そろそろ行くか。


 うん。


 ――とびきり良い名前を考えてやる。


 うん。


 ――後悔するなよ。


 しない。


 ――ちゃんと勉強もしろ。


 がんばる。


 ――あっちでも一緒だ。


 うん。


 風が吹く。


 夕焼けが遠ざかる。


 世界がゆっくりと薄れていく。


 山の匂いも、風の音も、横たわる自分の身体も、遠ざかる景色のように輪郭を失っていった。


 けれど不思議と怖くはなかった。


 先生が隣にいたから。


 気がつくと、わたしの小さな手は先生の手を握っていた。


 透けた手同士なのに、その温もりだけは確かに感じられる気がした。


 先生は少し照れくさそうに眉をかき、それから観念したように笑った。


 わたしもつられて笑う。


 そうして二人で顔を見合わせると、なぜだかおかしくなってしまった。


 先生と出会った日のこと。


 ネズミの捕まえ方を教えてもらったこと。


 初めて部屋の外へ出た日のこと。


 夕焼けの下で交わした約束。


 そんな思い出が次々と胸の中を流れていく。


 どれも短い時間だったはずなのに、わたしの人生でいちばん色鮮やかな時間だった。


 もう寂しくなかった。


 もう一人じゃなかった。


 先生がいる。


 それだけで十分だった。


 光とも闇ともつかない柔らかな何かが、わたしたちを包み込んでいく。


 身体はますます薄くなり、輪郭は溶けるように曖昧になっていくのに、握った手だけは離れなかった。


 先生は優しく目を細めた。


 まるで、これから始まる長い授業のことを考えているみたいに。


 わたしはそんな先生を見上げて笑う。


 これから初めて、何か大切なものをもらう子供のように。


 そして先生も笑った。


 わたしたちは手を繋いだまま、どこまでも穏やかな光の中へ歩き出す。


 その先に何があるのか、わたしはまだ知らない。


 けれどきっと大丈夫だと思えた。


 だって隣には先生がいて。


 先生の隣には、わたしがいるのだから。

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