名前のない少女と名付け親
山猫さんに山を出て行けと言われても、わたしには帰る場所などなかった。
施設へ戻るという選択肢も、頭の中には浮かばなかった。
あの場所へ戻れば生きてはいけるのだろう。
雨に濡れることもなく、食べ物にも困らないのだろう。
それでも足は向かなかった。
あそこには山の風がない。
自由がない。
先生がいるわけでもない。
だからわたしは山を出なかった。
もっとも、山猫さんに言わせれば山を出なかったことになるのだろうけれど、実際には山の端へ追いやられただけだった。
人間の住む場所と山との境目。
どちらにも属さない曖昧な土地。
わたしはそこで暮らし始めた。
山猫さんは知っているのかもしれない。
わたしがまだ近くにいることを。
その気になれば簡単に見つけられるはずだ。
それでも何も言いに来ない。
だから、もしかしたら見逃してくれているのかもしれなかった。
そう思うことにした。
「……また、一人になっちゃったな」
誰もいない森の中で呟く。
返事はない。
風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
※
わたし一人の生活が始まった。
山猫さんから教わったことを思い出しながら、寝床を作る。
雨風をしのげる岩陰。
近くには小さな沢。
獲物の通り道もある。
山猫さんならもっと良い場所を選ぶのだろうけれど、それでも今のわたしには十分だった。
朝になれば川へ行く。
昼には獲物を探す。
夜になれば寝る。
ただ生きるためだけの毎日。
以前のわたしなら退屈だと思ったかもしれない。
けれど今は違った。
生きることそのものに必死だったから。
狩りをする時も、必要な分だけ。
お腹を満たせるだけ。
それ以上は捕らない。
あの日のことを忘れないように。
山猫さんの言葉を裏切らないように。
わたしは何度も自分へ言い聞かせた。
そうして何日かが過ぎた。
季節はゆっくりと移り変わっていく。
昼間の風はまだ暖かい。
けれど朝晩には少しずつ冷たさが混じり始めていた。
沢の水に触れるたび、夏が遠ざかっていくのを感じる。
空も高くなった。
雲も変わった。
虫の声も少しずつ変わった。
なのに。
わたしだけは変わらなかった。
毎日同じことの繰り返しだった。
朝起きる。
狩りをする。
食べる。
眠る。
また朝が来る。
それだけ。
誰とも話さない。
誰も会いに来ない。
誰も名前を呼ばない。
ある日、ふと思った。
何のために生きているのだろう、と。
すると急に全部が面倒になった。
狩りも。
食事も。
寝床を整えることも。
生きることそのものさえも。
わたしは狩りへ行かなくなった。
食べなくなった。
ただ寝転がって空を見ていた。
木々の隙間から見える空は広かった。
どこまでも高かった。
雲だけがゆっくり流れていく。
時間も同じように流れているはずなのに、不思議と何も変わらなかった。
何日経ったのだろう。
もう分からない。
お腹も空かなかった。
不思議だった。
ご主人様と暮らしていた頃は、あんなにも空腹だったのに。
あの頃はいつもお腹が空いていた。
苦しかった。
辛かった。
それなのに今は何も感じない。
空腹さえ面倒だった。
ただ眠かった。
とても眠かった。
そして、寂しかった。
胸の奥がぽっかり空いているようだった。
先生がいない。
山猫さんもいない。
ご主人様もいない。
世界にわたし一人しかいないような気がした。
ご主人様が何日も帰ってこなかった頃も寂しかった。
けれどあの時は待てた。
いつか帰ってくると思えたから。
今は違う。
誰も来ない。
待っても来ない。
帰る場所もない。
その事実だけが静かに胸へ積もっていった。
※
「……いた……」
ふと痛みで目が覚めた。
ぼんやりした意識のまま足元を見る。
そこに一匹のネズミがいた。
小さな歯で、わたしの足を齧っている。
逃げようともしていない。
まるで死体を食べるみたいに。
わたしは追い払おうとした。
けれど身体は動かなかった。
指先すら持ち上がらない。
力が入らない。
そこでようやく理解する。
ああ。
わたしはもう駄目なのだと。
足は痛かった。
確かに痛かった。
けれど、その痛みさえどこか遠くの出来事のようだった。
自分の身体なのに、自分の身体ではないような感覚。
不思議だった。
怖くはなかった。
ただ疲れていた。
とても。
とても疲れていた。
だからもう一度眠ろうと思った。
たぶん次に眠ったら起きない。
そんな気がした。
でも、それでいいと思った。
死ぬのかしら。
その考えさえ途中で途切れる。
面倒だった。
何もかも。
ネズミは相変わらずわたしの足を齧っている。
追い払う気にはなれなかった。
だってわたしもネズミを食べたのだから。
おあいこだ。
そんなことを考えながら、わたしはゆっくり目を閉じた。
最後に見えたのは、一匹のネズミだった。
わたしの足を齧っていたネズミとは別のネズミだろうか。黒く小さな瞳で、じっとわたしを見つめている。
その視線だけが妙にはっきり見えた。
そして。
世界は静かに遠ざかっていった。
――わたしは誰にも知られることなく死んだ。
……そう思った。
少なくとも、そのはずだった。
森は静かだった。
風もない。
鳥の声も聞こえない。
世界そのものが息を潜めているようだった。
そんな静寂の中で、不意に聞き慣れた声がした。
『……まったく。気になって戻ってみれば、この有様か』
呆れたような声だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がる。
「あら……先生」
振り返る。
そこには先生がいた。
以前と変わらない姿で。
少し浮かびながら。
少し透けながら。
相変わらず不機嫌そうな顔をして立っていた。
「久しぶりね」
わたしは思わず笑う。
「いつからそこにいたの?」
『さあな。俺も気付いたらここにいた』
先生は肩をすくめた。
わたしは少し嬉しくなった。
死んだ後でも先生に会えたから。
「先生はもうジョーブツしたんじゃなかったの?」
『したはずだったんだけどな』
「ふうん」
わたしは先生を見上げる。
「相変わらず浮いてるのね」
先生は嫌そうな顔をした。
『お前も自分の姿を見てみろ』
「え?」
言われて初めて自分の手を見る。
向こう側が透けていた。
足は地面から離れている。
風もないのに身体が少し揺れている。
不思議だった。
驚くほど不思議なのに、あまり驚かなかった。
「あら」
わたしは何度か手を動かしてみる。
「わたしも透けてる」
『そういうことだ』
「そう」
しばらく考える。
そして納得した。
「やっぱり死んじゃったのね」
先生は何も言わなかった。
代わりにわたしの後ろへ視線を向ける。
つられて振り返る。
そこには痩せ細った少女が横たわっていた。
骨ばった腕。
土で汚れた髪。
閉じたままの瞳。
見慣れた顔だった。
わたし自身だった。
「ずいぶん痩せちゃったのね」
他人事みたいな感想が口をつく。
「ご主人様の家にいた頃でも、ここまでは痩せてなかった気がするわ」
足元ではネズミがまだ死体を齧っていた。
懸命に。
生きるために。
「ネズミも大変ね」
わたしは小さく呟く。
「こんなに痩せてたら食べるところも少ないのに」
先生は深くため息を吐いた。
※
『それにしても、お前はどうして幽霊なんかになってるんだ』
「どうしてかしら」
『心残りとかないのか』
心残り。
その言葉を聞いて考える。
山猫さん。
施設。
ご主人様。
色々なものが頭をよぎる。
でも最後に残ったのは一つだけだった。
「……先生に会いたかったのかも」
自然とそう答えていた。
先生は一瞬だけ黙る。
それから少し困ったような顔をした。
『今、会ってるじゃないか』
「あら」
確かにそうだった。
「そうね」
わたしは笑った。
「じゃあ心残りじゃなくなったわ」
先生は何も言わなかった。
ただ少しだけ目を逸らした。
※
「ねえ先生」
『なんだ』
「わたし、ジョーブツしたいんだけど」
先生が咳き込んだ。
『ずいぶん急だな』
「だって幽霊ってずっと浮いてるんでしょう?」
『まあな』
「疲れそうだもの」
『疲れねえよ』
「そうなの?」
『そういう問題じゃない』
先生は頭を抱えていた。
けれど少しだけ楽しそうにも見えた。
「先生はどうやってジョーブツしたの?」
『たしか……お前のことを誰かに伝えたら安心したんだ』
「安心?」
『そうだ』
「じゃあなんで戻ってきたの?」
先生は顔をしかめた。
『だからお前が気になってだな……』
そこで言葉が止まる。
わたしは目を輝かせた。
「あっ」
『なんだ』
「会いに来てくれたんだ」
『……』
「あら」
『……』
「会いに来てくれたのね」
先生は盛大にため息を吐いた。
『好きに解釈しろ』
けれど否定はしなかった。
それだけで十分だった。
先生が不意に尋ねる。
『そういえばお前』
「なあに?」
『名前は』
わたしは胸を張った。
「まだないわ」
『……まだなのか』
「まだよ」
『そうか』
先生は空を見上げる。
夕暮れだった。
赤く染まった雲がゆっくり流れている。
しばらく黙っていた先生は、やがて小さく笑った。
『だったら俺が付けてやる』
「え?」
『名前だ』
胸が跳ねた。
「本当に?」
『ああ』
「先生が?」
『俺が』
「わたしに?」
『お前以外に誰がいる』
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
ずっと欲しかったものだった。
誰かがくれるはずだったもの。
けれど最後まで貰えなかったもの。
名前。
「先生」
『なんだ』
「嬉しい」
それだけしか言えなかった。
先生は照れくさそうに顔を逸らす。
『まだ付けてないだろ』
「でも嬉しい」
先生はまたため息を吐いた。
※
『ゆっくり考えよう。向こうに行ってからでも遅くはない』
「向こう?」
『ああ』
先生は遠くを見る。
夕焼けの向こう。
空と山の境目。
何もないはずの場所を。
『あっちだ』
「何があるの?」
『さあな』
先生は笑った。
どこか寂しそうな笑みだった。
『でも、お前は一人じゃない』
その言葉に、わたしは目を瞬かせる。
『初めて会った時、お前は言っただろう』
先生がこちらを見る。
『先生になってくれって』
風が吹いた。
夕暮れの草が揺れる。
『だったら最後まで面倒を見る』
静かな声だった。
大きな言葉ではない。
けれど、どんな約束よりも温かかった。
「うん」
わたしは頷く。
『文字も教えてやる』
「うん」
『本も読ませてやる』
「うん」
『世界のことも教えてやる』
「うん」
不思議だった。
死んだはずなのに。
これから何もなくなるはずなのに。
胸は少しも怖くなかった。
むしろ楽しみだった。
先生がいるから。
一人じゃないから。
※
「先生」
『なんだ』
「薄くなってきてる」
先生の身体が夕焼けに溶けるように薄くなっていた。
『お前もだ』
自分の手を見る。
透けている。
さっきよりずっと。
向こうの景色が見えるほどに。
「これがジョーブツ?」
『たぶんな』
先生も静かだった。
もう言葉はあまり必要なかった。
風だけが吹いている。
空は赤から紫へ変わり始めている。
世界がゆっくり夜へ向かっていた。
その中で。
わたしたちもまた、どこかへ向かっていた。
――そろそろ行くか。
うん。
――とびきり良い名前を考えてやる。
うん。
――後悔するなよ。
しない。
――ちゃんと勉強もしろ。
がんばる。
――あっちでも一緒だ。
うん。
風が吹く。
夕焼けが遠ざかる。
世界がゆっくりと薄れていく。
山の匂いも、風の音も、横たわる自分の身体も、遠ざかる景色のように輪郭を失っていった。
けれど不思議と怖くはなかった。
先生が隣にいたから。
気がつくと、わたしの小さな手は先生の手を握っていた。
透けた手同士なのに、その温もりだけは確かに感じられる気がした。
先生は少し照れくさそうに眉をかき、それから観念したように笑った。
わたしもつられて笑う。
そうして二人で顔を見合わせると、なぜだかおかしくなってしまった。
先生と出会った日のこと。
ネズミの捕まえ方を教えてもらったこと。
初めて部屋の外へ出た日のこと。
夕焼けの下で交わした約束。
そんな思い出が次々と胸の中を流れていく。
どれも短い時間だったはずなのに、わたしの人生でいちばん色鮮やかな時間だった。
もう寂しくなかった。
もう一人じゃなかった。
先生がいる。
それだけで十分だった。
光とも闇ともつかない柔らかな何かが、わたしたちを包み込んでいく。
身体はますます薄くなり、輪郭は溶けるように曖昧になっていくのに、握った手だけは離れなかった。
先生は優しく目を細めた。
まるで、これから始まる長い授業のことを考えているみたいに。
わたしはそんな先生を見上げて笑う。
これから初めて、何か大切なものをもらう子供のように。
そして先生も笑った。
わたしたちは手を繋いだまま、どこまでも穏やかな光の中へ歩き出す。
その先に何があるのか、わたしはまだ知らない。
けれどきっと大丈夫だと思えた。
だって隣には先生がいて。
先生の隣には、わたしがいるのだから。




