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包丁と女子高生  作者: NAAA
さやかと健二編
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12/18

恋と高校生

 夜風に混じる空気が少しだけ変わっていた。


 昼間はまだ汗ばむほど暑いのに、日が落ちると肌を撫でる風のどこかに秋の気配がある。


 夏は終わりかけていた。


 街路樹の葉はまだ青い。


 空を見上げれば星も夏のままだ。


 それでも季節は確実に動いている。


 俺は住宅街の端を走っていた。


 今日は珍しく部活がなかった。


 身体の方は勝手に疲れる準備をしているのに、その疲れが与えられない。そんな日は妙に落ち着かなくなる。


 だからランニングに出た。


 もっとも、本当の理由は別にある。


 蝉だった。


 約一年前。


 俺は初めて蝉の素晴らしさを知った。


 あの時から蝉を見る目が変わった。


 夏になると鳴き声からその姿を探し。


 抜け殻を探し。


 羽化しそうな木を見つけては夜に見に行くようになった。


 今年も十分楽しんだと思う。


 アブラゼミも。


 ミンミンゼミも。


 ツクツクボウシも。


 それでも終わりは来る。


 どれだけ暑い日が続いても、蝉の季節は永遠には続かない。


 そろそろ今年も終わりだろう。


 そう分かっている。


 だからこそ、諦めきれなかった。


 もしかしたらまだ羽化している個体がいるかもしれない。


 まだ知らない一匹がいるかもしれない。


 そんな期待を捨てきれず、俺は夜道を走っていた。


 街灯の少ない道だった。


 田んぼの匂いがする。


 遠くで犬が吠えている。


 草むらでは秋の虫が鳴いていた。


 それでも耳を澄ませば、どこかで力尽きかけた蝉の声が聞こえる。


 夏の名残のような鳴き声だった。


 俺は走りながら街路樹を見上げた。


 幹に新しい抜け殻はない。


 やっぱりもう遅いか。


 そんなことを考えた時だった。


 人影が見えた。


 道の脇に立っている。


 月明かりの下で、ぼんやりと立ち尽くしている女子高生だった。




 私は足を止めた。


 見覚えがある。


 今年入学した一年生だった。


 サッカー部のマネージャー。


 名前は――。


「さやか?」


 声を掛ける。


 少女はゆっくりこちらを向いた。


 反応が遅かった。


 まるで今、自分がどこにいるのか分かっていないようだった。


「あ……健二先輩……」


 小さな声だった。


 顔色が悪い。


 月明かりのせいだけではない気がした。


「どうしたんだ?」


「えっと……」


 さやかは言葉を探すように口を開いた。


 しかし続かない。


 何か考えているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。


 妙な感じだった。


「家は?」


「帰るところです」


「こんな時間に?」


「はい、包丁を、研がないと……」


 会話が噛み合わない。


 俺は少し心配になった。


 泣いているわけではない。


 怪我もしていない。


 だが様子がおかしい。


 何か大きな出来事の後みたいな顔をしていた。


「送ろうか」


 俺が言うと、さやかはしばらく黙っていた。


 断るかと思った。


 だが彼女は小さく頷いた。



 俺達は並んで歩き始めた。


 夜風が吹く。


 草むらが揺れる。


 どこかで蛙が鳴いていた。


 さやかはほとんど喋らなかった。


 俺も無理には聞かなかった。


 何かあったのだろう。


 それだけは分かった。


 ただ、それ以上は分からなかった。


 月だけがやけに明るい夜だった。


 ※


 翌朝。


 教室にはまだ朝特有のざわめきが残っている。


 窓際では数人が昨日のテレビ番組の話をしており、後ろの席では誰かが眠そうに欠伸を噛み殺していた。


 俺は自分の席へ向かいながら鞄を机の上へ置く。


 その時だった。


 雄大が椅子を後ろ向きにして身を乗り出してきた。


「なあ、聞いたか」


 妙に嬉しそうな顔だった。


 こういう顔をしている時の雄大は、大抵ろくでもない話を持ってくる。


「何を」


「国語教師が消えたらしい」


 俺は思わず顔を上げた。


「消えた?」


「失踪だってさ」


 雄大は面白そうに言う。


 その向かいでは、一也が文庫本を開いていた。


 ページをめくる手だけが静かに動いている。


「失踪ねえ」


 一也は本から目を離さないまま呟いた。


「一年の担任もしてたよな」


「ああ、そうそう」


 雄大が頷く。


 そこでようやく一也が顔を上げた。


「授業以外でも話す機会のある先生だったんだけどな」


 一也は図書委員だった。


 職員室へ行く機会も多く、教師との接点も自然と増える。


 雄大が興味深そうに身を乗り出した。


「普段はあの先生、どんなこと話すんだ。授業では文学史以外興味なさそうだよな」


「普通だよ」


 一也は肩をすくめる。


「少なくとも変な先生じゃなかった」


 それから少し考えるように視線を泳がせた。


「女子からは結構人気あったな」


「へえ」


 雄大が感心したように声を漏らす。


「ああいう先生がモテるのかな」


「さあな」


 一也は再び本へ目を落とした。


「そういうのは女子に聞け」


 俺は椅子へ腰を下ろした。


「今日の国語どうなるんだろうな」


「自習じゃないか?」


 雄大が気楽そうに言う。


「だったらラッキーだな」


「お前はそれしか考えてないのか」


 一也が呆れたように言った。


 雄大は悪びれもせず笑う。



「なあなあ、そんなことよりさ。この土日、また健二の家に集まらないか? 一也も来るだろ」


 健二は苦笑する。


「またゲームか?」


「新しいの買ったんだよ、四人で対戦できるやつ」


「まあ俺はいいぞ」


 雄大は満足そうに頷き、一也を見る。


「一也は?」


「ちょっと寄りたいところがあるくらいかな」


「終わってからでいいって」



 一也は少し考えた後、肩をすくめた。



「分かったよ」


「よし、決まりな」


 俺は呆れたように笑った。


「お前、本当に遊ぶ時だけ行動力あるよな」


「当たり前だろ」



 雄大は得意げに胸を張った。



 その時の俺達は、本当に先生が失踪しているとは思っていなかった。


 どこかへ出掛けているだけだろう。


 体調でも崩したのかもしれない。


 数日もすれば戻ってくる。


 そんなふうに考えていた。


 けれど、その予想は外れることになる。


 新しい国語教師が赴任してくるまで、それほど時間はかからなかった。



 ※


 放課後。


 部活が終わる頃には空が赤く染まっていた。


 校門へ向かう途中だった。


「健二先輩」


 呼び止められる。


 振り返るとさやかだった。


 昨日とは違う。


 制服も整っている。


 表情も落ち着いていた。


「昨日はありがとうございました」


 深々と頭を下げる。


「気にしなくていいよ」


「でも助かりました」


 真面目な子なんだなと思った。


 そのまま話しているうちに、一緒に帰る流れになった。


 そして意外なことが分かった。


 家の方向が同じだったのだ。


「近所だったんだな」


「そうみたいです」


 さやかは少し笑った。


 昨日初めて見た笑顔だった。


 それは思っていたよりずっと普通の高校生らしい笑顔だった。


 帰り道。


 空には夕焼けが残っていた。


 川沿いの道を歩く。


 風が吹くたび、水面が光った。


「最近、ちょっとショックなことがあって」


 唐突にさやかが言った。


「そうなのか」


「はい」


 彼女は前を向いたまま歩いている。


「でも大丈夫です」


 大丈夫な人間はそう言わない。


 俺はそう思った。


 詳しく聞くべきか迷った。


 結局聞かなかった。


 話したくなったら話すだろう。


 そう思ったからだ。


 ただ、心配にはなった。


 昨日の夜の顔が頭から離れなかった。


 ※


 それから一緒に帰ることが増えた。


 毎日ではない。


 だが気付けば隣を歩いていた。


 話題は他愛ないものばかりだった。


 部活。


 授業。


 テレビ。


 好きな食べ物。


 そんな話だ。


 俺は蝉の話をした。


 羽化の話。


 種類の違い。


 鳴き声の違い。


 夏の終わりになると声が変わること。


 気付けば熱弁していた。


 普通なら引かれる。


 少なくとも雄大なら途中で飽きる。


 一也なら黙って聞いてくれるが興味はなさそうだ。


 だが、さやかは違った。


「面白いですね」


 本当に面白そうに言う。


「そんなこと考えたことありませんでした」


 私は驚いた。


 蝉の話をして面白いと言われたのは初めてだった。


 ※


 秋が近づいていた。


 窓の外ではコオロギが鳴き始めている。


 ある日、俺は家へさやかを呼んだ。


 羽化の写真を見せるためだった。


 今思えば、それは口実だったのかもしれない。


 夕方だった。


 部屋には西日が差し込んでいた。


 俺は夢中になって蝉の話をした。


 さやかは笑いながら聞いている。


 その笑顔を見ているうちに、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。


 俺は気付いてしまった。


 好きなのだ。


 いつからかは分からない。


 月明かりの下で見たあの夜からかもしれない。


 もっと後かもしれない。


 ただ、好きだった。


「さやか」


 私が言う。


「はい」


「付き合ってほしい」


 言った瞬間、自分でも驚くほど心臓が速くなった。


 蝉の話をしている時よりずっと緊張していた。


 さやかは目を丸くした。


 少しだけ黙る。


 それから。


「はい」


 と答えた。


 静かな声だった。


 窓の外ではコオロギが鳴いている。


 秋が始まろうとしていた。


 俺は彼女のことを十分に知っているとは言えないだろう。


 あの夜、月明かりの下で出会った少女が抱えていたものを。


 知らないまま、彼女の手を取った。


 そして、それで良かったのだと思う。

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