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包丁と女子高生  作者: NAAA
さやかと健二編
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13/18

夫婦とその子供

 窓の外では春の終わりを告げる風が柔らかく木々を揺らしていた。


 休日の午後だった。


 仕事も研究もない穏やかな時間の中で、俺は隣に座る妻の横顔を眺めていた。


 さやかはソファに腰掛け、自分の腹部へそっと手を添えている。


 その仕草はまるで壊れやすい宝物を守るように優しく、見ているだけで胸の奥が温かくなった。


 結婚して二年。


 長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。


 そして今、その時間の先に新しい命がいる。


 それだけで十分だった。


「結婚して二年か。ようやく俺たちにも子供ができたな」


 そう言うと、さやかは穏やかに微笑んだ。


「ええ。本当に嬉しいわ……あっ」


 不意にその表情が変わる。


 腹部へ添えられた手に力が入った。


「今、動いた」


「本当か?」


 思わず身を乗り出す。


 さやかは何度も頷いた。


 その瞳は少し潤んでいるようにも見えた。


 俺は思わず笑ってしまう。


 嬉しかった。


 言葉にできないほど嬉しかった。


「元気がいいな。きっと俺に似たんだ」


「あなたくらい元気だったら少し困るかもしれないわ」


 さやかはくすりと笑う。


 その声を聞きながら、俺はまだ見ぬ娘の姿を思い浮かべた。


 元気で。


 よく笑って。


 泣く時は大きな声で泣いて。


 転んでもまた立ち上がるような子。


 そんな子になってくれたらいい。


「検診じゃ女の子だったんだろ?」


「ええ」


 さやかは自分の腹部を見つめながら静かに答えた。


「ちゃんと女の子らしく育ってくれるといいんだけど」


 女の子か。


 正直に言えば、男の子だったら一緒にサッカーをしたかった気持ちもある。


 休日に公園へ行き、ボールを追い掛け回し、泥だらけになって帰る。


 そんな未来も少しだけ想像していた。


 だが娘なら娘でいい。


 いや、むしろ楽しみだった。


 さやかに似た子ならきっと可愛い。


「大丈夫だろ。俺の子でもあるんだから」


「だから心配なんです」


 即座に返ってきた言葉に思わず吹き出した。


「ひどいな」


「事実です」


 さやかは真面目な顔で言う。


 だがその口元は少しだけ緩んでいた。


 こんな他愛ないやり取りも、今では心地良い。


 結婚する前には想像もしなかった穏やかな時間だった。


「でも本当に早いな」


 俺は窓の外へ視線を向ける。


「結婚してもう二年か」


「私にとっては昨日のことみたいです」


 さやかの声はどこか遠くを見つめていた。


「結婚式の日のこと、今でもよく覚えているわ」


 俺も覚えている。


 白いドレス姿のさやか。


 緊張して何度もネクタイを触っていた俺。


 祝福してくれた家族や友人たち。


 人生で一番幸せな日だった。


 だからこそ。


 その記憶の中には、どうしても欠けている人間がいる。


「結婚式か……」


 俺は小さく息を吐いた。


「雄大がいたら完璧だったんだけどな」


 部屋の空気が少しだけ静かになる。


 さやかも同じことを考えていたのだろう。


 少し俯いていた。


「私も……まさかあんなに早く亡くなるなんて思っていませんでした」


 静かな声だった。


「心臓の病気だったなんて」


 雄大。


 高校時代から何も変わらないように見えた男。


 いつも笑っていて。


 いつも馬鹿なことを言っていて。


 何を考えているのか分からないようでいて。


 誰よりも友達想いだった男。


 あまりにも突然だった。


 今でも実感がない。


 ふとした瞬間に電話が掛かってきそうな気さえする。


「……悪い」


 俺は頭を掻いた。


「せっかくの話なのに暗くしちまったな」


 さやかはゆっくり首を振った。


「いいんです」


 そして微笑む。


「雄大さんは私の友達でもあったんですから」


 その言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。


 人は死ぬ。


 それは仕方のないことだ。


 だが、誰かの記憶の中に残り続けることはできる。


 俺たちにとって雄大がそうであるように。


「本当に、この子が元気に生まれてきてくれればそれでいい」


 俺はそう言って、さやかの腹部へ視線を落とした。


 まだ姿も見えない小さな命。


 それなのに、その存在は驚くほど大きかった。


 将来どんな子になるのだろう。


 勉強ができなくてもいい。


 運動が苦手でもいい。


 少しくらい変わっていても構わない。


 ただ、生きていてくれればいい。


 笑っていてくれればいい。


 親になろうとして初めて、そんな当たり前の願いがどれほど重いものなのか知った気がした。


「でも私は、せっかく女の子なんだから、お料理とか編み物とか、いろいろ教えてあげたいわ」


 さやかは柔らかな声で言う。


 その表情はどこか楽しそうだった。


 きっと頭の中ではもう何年も先の未来を想像しているのだろう。


 小さな娘が母親の隣で包丁を握る姿。


 一緒に台所へ立つ姿。


 休日に並んで手芸をする姿。


 そんな光景が見えているのかもしれない。


「まあ確かに、女の子で俺に似たら少しまずいかもな」


「少しじゃありません」


 即答だった。


 思わず苦笑する。


「まったくです。この子は私がちゃんと育てるんですから」


 そう言ってさやかはお腹を優しく撫でる。


「お花みたいに優しい女の子に育てたいの」


 その横顔は穏やかだった。


 母親の顔だった。


 俺はそんなさやかを見るのが好きだった。


「お前が教えるなら何でも上達しそうだな」


 そう言うと、さやかは少し首を傾げる。


「そうかしら」


「そうだよ。特に料理なんかすぐ覚えるだろ」


 それは本心だった。


 さやかの料理は本当に美味い。


 毎日食べていても飽きない。


 俺が研究や仕事で疲れて帰った日も、その料理に何度助けられたか分からない。


 さやかは少し照れたように笑った。


「褒めても何も出ませんよ」


 そう言いながらも嬉しそうだった。


 俺も嬉しかった。


 こういう時間が続けばいいと思った。


 ずっと。


 できるならずっと。


 ふと視線を窓の外へ向ける。


 夕方の光が庭を照らしている。


 その景色を眺めながら、俺はずっと胸の奥に引っ掛かっていたことを口にした。


「ああ、それとな」


「はい?」


「引っ越しの件なんだけど」


 さやかは小さくため息をついた。


 またその話か、と言いたげな顔だった。


「またですか」


「だって気になるだろ」


 俺は視線を落とす。


「死体が見つかった家なんだから」


 あの日のことを忘れたわけではない。


 庭を掘った時の感触も。


 白いものが見えた瞬間の違和感も。


 今でも時々夢に出る。


 俺自身はもう慣れている。


 けれど、さやかは違う。


 そう思っていた。


「私は気にしていません」


 静かな声だった。


「本当に?」


「ええ」


 さやかは頷く。


「せっかくお義母様とも仲良くなれたんですもの」


 その言葉に胸が少し軽くなった。


 母親も喜んでいた。


 さやかのことを本当の娘みたいに可愛がっている。


 俺にはもったいないくらい良い嫁だ。


「それならいいんだけどな」


「それより」


 さやかは話題を変えるように微笑んだ。


「名前を考えないと」


 そうだった。


 俺たちはまだ娘の名前を決めていない。


「難しいんだよな」


 頭を掻く。


「画数とか生年月日とか血液型とか、いろいろあるらしいし」


「健二さんは名前の時だけそういうのを気にするんですね」


 さやかが笑う。


「心を込めて付けてあげれば、それで十分じゃないかしら」


 心を込めて。


 確かにそうかもしれない。


 名前は願いだ。


 親が子供へ最初に贈るものだ。


「それは分かるんだけどな」


「私はね」


 さやかはお腹を撫でながら囁く。


「心を込めて願えば、ちゃんと届くと思うの」


 そして、その瞬間だった。


「あっ」


 さやかの目が大きくなる。


「また動いた」


「本当か!?」


 俺は慌てて身を乗り出した。


「ほら」


 さやかが笑う。


 俺は恐る恐る手を伸ばした。


 掌越しに、小さな衝撃が伝わってくる。


 確かに動いた。


 そこにいる。


 まだ見ぬ娘が。


 確かに生きている。


「……すごいな」


 思わず呟いた。


 さやかも何も言わない。


 ただ微笑んでいた。


 しばらく二人とも黙ったまま、お腹へ手を添えていた。


 窓の外では夕暮れがゆっくりと深まっていく。


 部屋の中は静かだった。


 けれどその静けさは寂しいものではない。


 これから始まる未来を待つ静けさだった。


「今、また動いたな」


 俺は思わず笑った。


「本当に元気がいい」


「ええ」


 さやかも優しく笑う。


「早く会いたいですね」


 その言葉に、俺は大きく頷いた。


 早く会いたい。


 早く抱き上げたい。


 早く名前を呼びたい。


 その日が来るのを、俺たちは心から待っていた。



 ※

 わたしはまだ生まれていない。


 暗くて暖かい場所にいる。


 けれど退屈はしない。


 お父さんとお母さんの声がいつも聞こえるから。


 お父さんはよく喋る。


 お母さんはそんなお父さんに呆れながら笑う。


 二人の声を聞いているのは好きだった。


 今日もわたしの名前の話をしていた。


 まだ決まっていないみたい。


 早く決めてくれればいいのに。


 わたしは結構楽しみにしている。


 お父さんは画数とか血液型とかを気にしているみたいだけれど、そんなのはどうでもいいと思う。


 お母さんの言う通り、心を込めてくれればそれで十分だ。


 お母さんのおまじないは本当に効くみたい。



 お母さんがお腹を撫でながら、小さな声でおまじないの話をするのを私はしっている。


 もう解けてしまったおまじないのことを思い出して、少しだけ寂しそうにするのを。


 誰もいない夜に、窓の外を見ながらあの夜のことを考えているのを。


 土の匂い。


 湿った空気。


 深く掘られた穴。


 そして二度と戻らない人と、おまじないの結果を。


 お母さんはそれを誰にも話さない。


 お父さんにも。


 きっとこれから生まれてくるわたしにも。


 けれど、わたしはもう知っている。


 お母さんの記憶は、ときどき夢みたいに流れ込んでくるから。


 怖いとは思わなかった。


 だってお母さんは優しいから。





 お父さんは面白い。


 蝉の話になると少し変になる。


 この前も夢の中でクマゼミとアブラゼミの優劣について真剣に悩んでいた。


 わたしにはまだよく分からない。


 生まれたら教えてもらおうと思う。


 雄大さんという人の話も聞いた。


 二人とも時々その人を思い出している。


 会ったことはない。


 でもたぶん優しい人だったのだと思う。


 お父さんもお母さんも、その人のことを話す時だけ少し寂しそうだから。


 わたしが生まれたら、その分までたくさん笑わせてあげたい。


 お父さんも。


 お母さんも。


 それから、おばあちゃんも。


 まだ会ったことはないけれど、なんとなくそんな気がしている。


 外の世界はどんなところなのだろう。


 お母さんの料理はどんな味かな。


 私の分の包丁は用意してくれるかな。


 おまじないはどれくらい効くのかな。


 お父さんの一番好きな料理は何なのかな。


 蝉って食べれるのかな。




 知りたいことがたくさんある。


 だから早く生まれたい。


 けれど今はまだ少しだけ待とうと思う。


 お父さんとお母さんが、わたしの名前を考えてくれているから。


 その時間も嫌いじゃない。


 お父さん。


 お母さん。


 わたしはここにいるよ。


 二人が思っているより、ずっと前から。


 二人が話したことも。


 二人が隠していることも。


 わたしは全部知っている。


 だって二人の子供だもの。



 だから安心して待っていて。


 もう少しだけ。


 あと少しで会いに行くから。

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