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包丁と女子高生  作者: NAAA
本編
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7/8

ゴキブリと子供

 僕は虫を殺したことがある。


 もっと正確に言えば、一度や二度ではない。


 蟻も殺したし、蝶も殺したし、名前も知らない小さな虫を踏み潰したこともある。


 別に怒っていたわけではない。


 憎かったわけでもない。


 ただ、そうしたかったからそうしただけだった。


 生き物というのは不思議だ。


 さっきまで動いていたものが動かなくなる。


 それだけなのに、周りの大人達は難しい顔をする。


 命は大切だ。


 生き物を粗末にしてはいけない。


 何度も聞かされた。


 けれど僕にはよく分からなかった。


 だって虫は虫だ。


 踏まれれば死ぬし、潰されれば死ぬ。


 それだけのことではないか。


 少なくとも、当時の僕はそう思っていた。


 だからその日も、何が悪いのか理解できなかったのだ。



「キャー! ねえ! ゴキブリがいる! 気持ち悪ーい! 一也お兄ちゃん退治してっ!!」


 施設の廊下に突然女の子の声が響いた。


 朝の児童保護施設は比較的静かだった。


 窓から差し込む日差しが床を白く照らしている。


 そんな穏やかな空気を切り裂くような悲鳴だった。


「うわ、本当だ」


 声のした方を見ると、一也が駆け寄ってくる。


 彼は施設職員だ。


 僕達から見れば先生でも親でもない。


 けれど、どちらにも少し似ていた。


「施設の中にまで入られたら殺しちゃうしかないなあ。スリッパ、スリッパ……」


 そう言いながら近くにあったスリッパを手に取る。


 その動きに迷いはなかった。


「一也お兄ちゃん!」


 女の子が叫ぶ。


「早く!」


 スリッパが振り上げられる


 パン。


 乾いた音が響いた。


 それで終わりだった。


「よし、もう大丈夫だ」


 一也は笑いながら言った。


「怖かった?」


「うん! ありがとう!」


 女の子は安心したように笑う。


 僕にはその声だけが届いていた。



 昨日の夕方。


 施設の裏庭で遊んでいた時だった。


 僕は一匹のゴキブリを見つけた。


 地面の上を忙しそうに走り回っていたが、何かを感じ取ったのかビタリと止まった。


 茶色い羽。


 細い脚。


 長い触角。


 いかにも気持ち悪い見た目だった。


 だから僕は石を拾った。


 理由は特になかった。


 ただ、潰したらどうなるのか少し気になっただけだ。


 石を落とす。


 ゴキブリは逃げなかった。石が直撃した。


 ゴツッ


 小さな音がなる。


 石は落ちた衝撃で数歩先まで転がった。


 一方ゴキブリは、石を落とされ、直撃する瞬間すら動かなかったのに、今は脚だけが痙攣するように動いている。


 それを見ていると妙に面白かった。


 生きようとしている。


 でももう無理だ。


 そんなことは見れば分かる。


 なのに動いている。


 必死に。


 意味もなく。


 僕はしばらくその様子を観察していた。


 そして動かなくなったのを確認してからその場を離れ、最近ここにやってきた職員を呼びに行った。


「一也、見てください」


 僕は死骸を指差した。


「僕が殺したんです」


 褒められると思った。


 施設に出た害虫を退治したのだから。


 それに、一也なら僕のしたことをちゃんと見てくれると思っていた。いつも近くにいて、僕の話を聞いてくれる人だったからだ。


 けれど一也は、困ったような顔をした。


「こらこら、俊君」


 ため息混じりの声だった。


「外にいる虫は殺さなくていいの」


「どうしてですか?」


「命は大切だからだよ」


 僕は首を傾げた。


 その理屈がよく分からなかった。


「でもゴキブリですよ?」


「うん」


「気持ち悪いですし、みんな嫌いじゃないですか」


「まあね」


「だったら殺してもいいんじゃないですか?」


 一也は難しい顔をして少し考え込んだ。


 僕はちゃんと理屈で話しているつもりだった。


 だから当然、理屈で返ってくると思った。


「うーん……」


 一也は頭を掻く。


「施設の中にいたら困るよね?」


「はい」


「でも外なら困らない」


「そうですね」


「だったら殺さなくてもいいんじゃないかな」


 僕は納得できなかった。


 困るか困らないかだけの話なら、別に殺しても問題ないはずだ。


 だってゴキブリはゴキブリなのだから。


「でも気持ち悪いですよ?」


「気持ち悪いからって殺していいわけじゃないよ」


「どうしてですか?」


「うーん……」


 一也はまた困った顔をした。


 僕は少し勝った気分になった。


 だって説明できていない。


 説明できないということは、きっと一也も本当は分かっていないのだ。


 けれど、胸の奥には別の感情もあった。


 一也なら分かってくれると思っていた。


 僕が何を考えているのか、いつもみたいに受け止めてくれると思っていた。


 なのに一也は、僕のしたことを褒めてくれない。


 それどころか、僕が間違っているような顔をしている。


 そのことが、思っていたよりずっと苦しかった。


「一也は……変です」


 声が少し震えた。


「変です」


 僕は言い切った。


 そう言い切らなければ、泣きそうだった。


「気持ち悪いなら殺した方がいいじゃないですか」


「そういう考え方もあるかもしれないけどね」


 一也は苦笑する。


 それが僕には少し不思議だった。


 怒らない。


 否定もしない。


 ただ困ったように笑っている。


 まるで僕が何か大切なものを見落としていると知っているみたいに。


 けれどその時の僕には、それが何なのか全く分からなかった。


 分からないまま、一也に嫌われるのが怖かった。


 だから僕は一也の顔を見られず、そのまま走り出した。


 施設の庭を駆け抜ける。


 風が頬を撫でる。


 僕は足が速い。


 誰よりも速い。


 だから追いつかれない。


 前に一也が言っていた。


 俊君は名前の通り俊足だね、と。


 その時は意味が分からなかったけれど、今は分かる。


 褒められたのだ。


 だから少し嬉しかった。


 けれど今は、その言葉を思い出しても胸が痛んだ。


 後ろを見ると、一也は追いかけてこなかった。


 ただ苦笑しながらこちらを見ているだけだった。


 追いかけてきてほしかった。


 いつもみたいに、僕のところまで来てほしかった。


 でも、そんなことを言えるはずもなく、僕はさらに足を速めた。


 母親というものを僕は知らない。


 小さい頃にビルの裏てに捨てられたらしい。


 だから想像でしかない。


 けれど、もし母親というものがいるなら、一也みたいな人なのだろうかと思うことが時々あった。


 うるさくて。


 面倒で。


 説教くさくて。


 でも気が付くといつも近くにいる。


 そんな存在。


 もしそうなら、母親なんて別にいらないな、と僕は思った。


 そう思おうとした。


 けれど本当は、一也に見放されたくなかった。


 その日の夜、僕は布団の中で何度も昼間のことを思い出した。


 一也の困った顔。


 苦笑い。


 追いかけてこなかった背中。


 僕はまだ、自分が何をしたのか分かっていなかった。


 ただ、一也に受け入れてもらえなかったことだけが、いつまでも胸に残り、眠りにつくことができなかった。


 その時だった。金縛りにあったように身体が動かなくなり、瞼が勝手に開き、そして閉じることができなくなった。


 夢ではない。夢のような曖昧な景色ではなかった。


 むしろ現実よりも鮮明だった。


 薄暗い部屋。


 見慣れた施設の天井。


 聞き慣れた夜の静けさ。


 自分の布団に横になっている感覚まで、研ぎ澄まされて気持ち悪さを感じた。


 何かがおかしかった。


 ガサガサ。


 ガサガサ。


 耳の奥で小さな音が聞こえる。


 まるで紙が擦れるような音だった。


 気になって身体を起こそうとしたが、起きることもできない。


――――俊


 誰かが僕の名前を呼んだ。


 低い声だった。


 大人とも子供ともつかない声。


 僕は目だけで周囲を見回した。


 そして見つける。


 枕元に一匹のゴキブリがいた。


 黒い身体。


 長い触角。


 見慣れた気持ち悪い姿。


 ただ一つ違ったのは、そのゴキブリが僕を見上げながら喋っていたことだった。


――――俊


 もう一度呼ばれる。


 僕は顔をしかめた。


「うわ……」


 かろうじて声は出せるようだった


「なんで喋ってるんですか」


――――お前に聞きたいことがある


 ゴキブリは答えた。


 その声は妙に落ち着いていた。


 まるで学校の先生みたいだった。


――――お前は我らの家族を殺した


「家族?」


――――昨日殺しただろう


 僕は少し考える。


 そして思い出した。


 裏庭のゴキブリ。


 石で潰した一匹。


「ああ」


 僕は頷いた。


「殺しましたね」


――――なぜだ?


「気持ち悪かったからです」


 答えは簡単だった。


 だから迷わなかった。


 けれどゴキブリは黙ったままだった。


 まるで続きを待っているみたいに。


 僕は仕方なく言葉を続ける。


「それに、別に問題ないでしょう」


――――問題ない?


「だってゴキブリですよね」


 僕は肩をすくめた。


「皆嫌いですし」


――――だから殺していいのか


「はい」


 即答だった。


「僕はそう思います」


 ゴキブリは何も言わない。


 その沈黙が少しだけ不快だった。


 まるで試されているような気がしたからだ。


――――少しも悪いと思わないのか


「思いません」


 僕は答える。


 自分でも驚くほど自然だった。


「だってあなた達はゴキブリじゃないですか」


 しばらく静寂が続いた。


 妙に息苦しい。


 空気が重い。


 眠れない夜特有のどんよりとした空気が部屋に満ちている。


 じっとりとした暑さが肌にまとわりつき、額に汗が滲んでいた。


 するとゴキブリは静かに言った。


――――だったらお前にも同じ目に遭ってもらおう


 その瞬間だった。


 ガサガサ。


 ガサガサガサ。


 音が大きくなる。


 僕は音のする方を見た。


 布団だった。


 自分が寝ている布団。


 白いはずの布団が波打っている。


 生き物みたいに。


 いや、生き物だった。


 無数の黒い影が蠢いている。


 布団そのものがゴキブリになっていた。


「うわっ!」


 僕は飛び起きようとした。


 けれど身体が動かない。


 何千匹いるのか分からない、黒い波が身体を覆っていく。


 脚。


 腕。


 腹。


 胸。


 首。


 全身がゴキブリで埋め尽くされる。


 気持ち悪い。


 息ができない。


 助けてほしい。


 そう思った。


 けれどゴキブリ達は止まらない。


 身体の上を這い回る。


 服の中へ入り込む。


 耳の中へ。


 鼻の中へ。


 口の中へ。


「やめろっ!」


 叫ぼうとした。


 だが口を開いた瞬間、何匹ものゴキブリが流れ込んできた。


 喉を這う感触。


 胃の中へ落ちていく感触。


 頭の中まで侵食されるような錯覚。


 気が狂いそうだった。


 気持ち悪い。


 怖い。


 苦しい。


 なんで。


 なんで僕が。


 その時だった。


 不意に思い出した。


 昨日のゴキブリ。


 石の下でもがいていたあの一匹。


 脚を動かしていた。


 必死に。


 逃げようとしていた。


 あれは。


 もしかして。


 怖かったのだろうか。


 死ぬのが。


 僕は初めてそんなことを考えた。


 そして。


 その瞬間。


――――うわああああっ!!


 自分の叫び声で目を覚ました。


 朝だった。


 窓から光が差し込んでいる。


 汗で全身が濡れていた。


 心臓が激しく脈打っている。


 僕は荒い息を吐きながら周囲を見回した。


 普通の部屋だった。


 普通の布団だった。


 ゴキブリなんて一匹もいない。


――――夢……


 呟く。


 ただの夢だ。


 そう思いたかった。


 けれど妙に胸がざわついていた。


 あまりにもリアルだったから。


 僕は首を振る。


 考えるのをやめた。


 トイレに行こう。


 そう思って部屋を出た。


 廊下へ出る。


 すると向こうから女の子が歩いてきた。


 施設の子だ。


 僕は少し意地悪をしたくなった。


 驚かせたら面白いかもしれない。


 そう思った。


 だから物陰から飛び出そうとした。


 その瞬間だった。


「キャー! ねえ! ゴキブリがいる! 気持ち悪ーい! 一也お兄ちゃん退治してっ!!」


 僕は動きを止めた。


 ゴキブリ?


 どこだ。


 僕も思わず辺りを見回す。


 だが見当たらない。


「うわ、本当だ」


 聞き慣れた声。


 一也だった。


「施設の中にまで入られたら殺しちゃうしかないなあ。スリッパ、スリッパ……」


 彼はこちらへ駆け寄ってくる。


 スリッパを持って。


 僕は少し安心した。


 一也がいるなら大丈夫だ。


 昨日の夢の話も聞いてもらおう。


――――あ、一也


 そう言いかけた。


 だが次の瞬間、違和感に気付く。


 一也が大きい。


 いや、違う。


 僕が小さいのだ。


 廊下が広い。


 天井が高い。


 世界そのものが巨大になっている。


 そして。


 視界の端に。


 黒い脚が見えた。


 六本。


 細くて硬い脚。


 長い触角。


 僕は理解した。


 理解してしまった。


――――やめてください……


 声が震える。


――――僕はここです!


 一也はこちらを見ない。


 見えていない。


「一也お兄ちゃん!」


 女の子が叫ぶ。


「早く!」


 スリッパが振り上げられる。


 白い壁みたいに巨大だった。


――――待ってください!


 僕は叫ぶ。


――――僕です!


 必死だった。


 昨日のゴキブリみたいに。


 生きたかった。


 怖かった。


 死にたくなかった。


 でも、一也には聞こえない。


 聞こえるはずもない。


 だって今の僕は、

 

 ゴキブリだったから。


 パン


 世界が潰れた。



「よし、もう大丈夫だ」


 一也の声が聞こえる。


「怖かった?」


「うん! ありがとう!」


 女の子が笑う。


 一也も笑う。


 いつもと同じ朝だった。


 ただ一人だけ足りない。


「そういえば俊君は?」


 一也が首を傾げる。


「まだ寝てるのかな」


 僕は答えようとした。


 ここにいます、と。


 でも声は出なかった。


「俊くーん! 朝ご飯だよー!」


 一也の声だけが遠く響いていた。


 僕はその声を聞きながら、昨日の自分を思い出していた。


 気持ち悪いから。


 嫌いだから。


 それだけでいいと思っていた。


 けれど今は違う。


 生きたいと思う気持ちは。


 怖いと思う気持ちは。


 人間も、ゴキブリも、本当は同じだったのかもしれない。


 そんなことを考えながら、僕の意識は静かに遠ざかっていった。


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