元カノと失恋
「……どうして? どうして別れるなんて言うの……? 私の何がいけなかったの。ねえ、答えて。私、ちゃんと直すから……何だってするから……」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
喉の奥が熱い。
胸の中で何かが崩れていくような感覚がする。
それでも私は言葉を止めることができなかった。
目の前にいる彼が、今にもどこか遠くへ行ってしまいそうだったから。
店内には昼下がり特有の穏やかな空気が流れていた。
揚げ油の香ばしい匂い。
味噌汁から立ち上る湯気。
皿と箸が触れ合う小さな音。
ほんの少し前までは幸福そのものに見えていた景色が、今はまるで別世界のように感じられた。
※
私には現在お付き合いしている男性がいます。
国語教師をしている人です。
どうして好きになったのかと聞かれたら、きっと私は上手く答えられないと思います。
優しかったから。
格好良かったから。
話が面白かったから。
そんな理由はいくらでも並べられます。
でも本当は違うのです。
恋というものは、もっと理不尽で、もっと身勝手なものなのだと思います。
私は彼を見た瞬間に好きになってしまった。
ただそれだけでした。
だから今振り返ってみても、あの日のことだけは妙にはっきり覚えています。
季節は春でした。
まだ少し肌寒さが残る頃だったと思います。
駅前に新しくできた豚カツ屋が美味しいらしいと友人から聞き、私たちは休日の昼食を食べに行くことになりました。
昼時だった店内は混雑していました。
揚げ油の弾ける音が絶えず聞こえ、店員たちは忙しそうに店内を行き来している。
ソースの甘い香りと肉の匂いが混ざり合い、それだけで食欲を刺激されるような場所でした。
私たちは順番を待ち、ようやく席へ案内されました。
そして私は彼を見つけたのです。
窓際の席でした。
一人で豚カツを食べている男性。
別に特別なことをしていたわけではありません。
静かに食事をしていただけです。
それなのに、なぜか目が離せなかった。
友人が何か話していた気がします。
でも内容は覚えていません。
周囲のざわめきも聞こえなくなっていました。
私の視界には彼しか映っていなかったからです。
陽射しが窓から差し込み、その横顔を照らしていました。
真剣そうな表情で食事をしているだけなのに、なぜだかとても魅力的に見えました。
ああ、この人だ。
その時、私は本気でそう思ったのです。
運命なんて言葉は普段なら信じません。
けれど、あの瞬間だけは信じていました。
この人が私の運命の人なのだと。
今思えば馬鹿みたいです。
でも恋をしている人間は、だいたい少し馬鹿になるものなのでしょう。
気が付けば私は席を立っていました。
友人が驚いた顔をしていたことは覚えています。
でも止められてもきっと行ったと思います。
それくらい必死だったのです。
「あ、あの!」
彼が顔を上げました。
私は心臓が止まりそうになりました。
「ひ、一目ぼれしました……私と付き合ってください!」
言ってしまった。
言った瞬間に後悔しました。
初対面の相手に何を言っているのだろう。
頭がおかしいと思われるに決まっている。
逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。
けれど。
「うん?」
彼は少し考えるような顔をしました。
「ああ、まあいいよ」
「…………え?」
一瞬意味が分かりませんでした。
「君、綺麗だしね」
彼は本当に何でもないことのように言いました。
「今彼女は……まあ大丈夫だろ」
「…………彼女さん、いるんですか?」
「大丈夫、気にしないで」
今なら分かります。
大丈夫なわけがなかったのです。
でも当時の私は舞い上がっていました。
好きな人が付き合ってくれる。
その事実だけで十分でした。
他のことなんてどうでもよかった。
こうして私たちの交際は始まりました。
それからの日々は幸せでした。
少なくとも私はそう思っていました。
休日になれば彼を誘った。
会いたいと言った。
プレゼントも贈った。
誕生日も記念日も全部覚えていた。
彼が好きそうな本を探したり、好きな食べ物を覚えたり、喜びそうな場所を調べたりもしました。
彼に嫌われたくなかったのです。
ただそれだけでした。
彼が笑ってくれるなら何でもしたいと思った。
彼の役に立てるなら嬉しかった。
だから苦ではありませんでした。
むしろ幸せでした。
ただ、その幸せの中で少しずつ気付いてしまうこともありました。
電話をしても出ない日がある。
連絡が返ってこない夜がある。
休日に会えない理由が増えていく。
そして時々、彼の服から知らない香水の匂いがする。
最初は考えないようにしました。
考えたくなかったのです。
けれど、人間は見たくないものほど見えてしまうものです。
彼はたぶん浮気をしていました。
一人かもしれない。
二人かもしれない。
もしかしたらもっとかもしれない。
でも私は問い詰めませんでした。
問い詰めて嫌われる方が怖かったからです。
彼が私のそばにいてくれるなら、それでいい。
本気でそう思っていました。
今思えば、ずいぶん情けない話です。
けれど恋をしている時の私は、それを情けないとは思いませんでした。
愛していたから。
ただ、それだけだったのです。
だからこそ、その日も嬉しかった。
珍しく彼の方から連絡が来た時、私は本当に嬉しかったのです。
「今度の日曜、会えるか?」
たったそれだけの短いメッセージでした。
それでも私は何度も読み返しました。
彼の方から誘ってくれた。
それだけで胸がいっぱいになったのです。
場所は、私たちが初めて出会ったあの豚カツ屋でした。
待ち合わせの日、私は朝から落ち着かなかった。
鏡の前で何度も服を着替え、髪型を整え、少しでも彼に可愛く見えるようにと時間をかけた。
別に特別な日ではない。
それでも嬉しかったのです。
彼の方から誘ってくれたのだから。
もしかしたら私のことを少しは好きになってくれたのかもしれない。
最近は会う回数も減っていたし、連絡も以前ほど頻繁ではなかった。
だからこそ、私は期待してしまった。
期待しない方がよかったのかもしれない。
でも恋をしている人間にそれを求めるのは酷というものです。
店に着くと、彼はもう来ていました。
窓際の席。
初めて会った時と同じ場所。
その姿を見ただけで胸が温かくなる。
私は手を振りながら席へ向かった。
「待った?」
「いや」
いつも通りの短い返事。
それでも私は嬉しかった。
彼の向かいに座り、メニューを見る。
頼むものは決まっていた。
私も彼も豚カツ定食だった。
初めて会った時から変わらない。
料理が運ばれてくるまでの時間、私は他愛のない話を続けた。
学校のこと。
仕事のこと。
最近見た映画のこと。
彼は時々相槌を打つだけだったけれど、それでも私は満足だった。
こうして向かい合っているだけで幸せだったから。
やがて豚カツが運ばれてくる。
衣は黄金色に揚がっていた。
箸で持つと衣が軽い音を立て、その中から湯気が立ち上る。
肉汁の匂いがふわりと広がった。
私はその香りを吸い込みながら、小さく微笑む。
幸せだと思った。
本当に。
今思い返しても、その瞬間までは間違いなく幸せだった。
私は半分ほど食べ終えていた。
彼もほとんど同じくらいだった。
窓の外では人々が行き交っている。
休日の午後。
穏やかな時間。
そのはずだった。
「別れよう」
彼は突然そう言った。
一瞬、意味が分からなかった。
聞き間違いだと思った。
だから私は聞き返した。
「えっ……?」
「別れようって言ってるんだ」
声は平坦だった。
まるで天気の話でもしているかのようだった。
私は箸を持ったまま固まった。
理解できない。
いや、理解したくなかった。
耳には届いている。
言葉の意味も分かる。
それなのに頭が受け入れることを拒んでいた。
「なんで……?」
やっと絞り出した声は情けないほど弱かった。
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙が怖かった。
どんな答えよりも怖かった。
「どうして……?」
私はもう一度聞く。
「ねえ、どうしてなの?」
彼は視線を逸らした。
その仕草だけで涙が出そうになった。
嫌な予感はしていた。
ずっとしていた。
でも信じたくなかった。
だから私は必死だった。
「どうして別れるなんて言うの……? 私の何がいけないの。ねえ、答えてよ……私、ちゃんと直すから。何だってするから……」
声が震える。
周囲の客がこちらを見ている気がした。
でもそんなことはどうでもよかった。
彼がいなくなる方がずっと怖かった。
「お前は重い」
彼は言った。
その一言は驚くほどあっさりしていた。
「重い……?」
「そうだよ」
「私はただ……あなたに嫌われたくなくて……」
「それが重いんだ」
彼はため息を吐いた。
面倒な話を終わらせたいと言わんばかりだった。
「会いたい会いたいって言うし、連絡も多いし、何かあるたびに俺の顔色をうかがうし」
「それは……好きだから……」
「だから重いんだよ」
その言葉は何度も胸に突き刺さった。
好きだから。
ただ好きだっただけなのに。
私は彼を困らせたかったわけじゃない。
束縛したかったわけでもない。
ただ愛していただけだった。
でも彼にとっては違ったらしい。
「嫌よ……」
気付けば涙がこぼれていた。
「嫌……絶対に嫌」
私は首を振る。
子供みたいに。
情けないくらいに。
「別れない」
「はぁ……」
彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「そういうところだよ」
「お願い……」
「分からないのか?」
その声には苛立ちが混じっていた。
「何度言えば分かるんだ。そういうところが重いんだよ」
私は何も言えなくなった。
言葉が出てこない。
涙だけが落ちていく。
店員が遠巻きにこちらを見ている。
隣の席の客も気まずそうに視線を逸らした。
それでも私は彼から目を離せなかった。
この人がいなくなったら何も残らない気がしたから。
「じゃあ……」
私は震える声で聞いた。
「じゃあどんな女だったらいいのよ」
彼は少し考えた。
そして。
笑った。
その笑みは私の知らないものだった。
「少なくとも、お前みたいな女は嫌だな」
その言葉だけでも十分だった。
十分傷付いた。
十分壊れた。
それなのに。
「お前よりは豚の方がマシだ」
彼は続けた。
私は息を止めた。
「え……?」
「豚以下だよ、お前」
店内の音が遠くなる。
何を言われているのか分からない。
いや、分かっている。
でも理解したくない。
「豚はまだ美味いしな」
彼は笑った。
「頭だっていいらしいじゃないか」
笑った。
本当に楽しそうに。
「まあ、そういうことだ」
椅子を引く音がした。
「じゃあな」
彼は立ち上がる。
「もう会うこともないだろ」
そう言って去っていった。
私は追いかけなかった。
追いかけられなかった。
身体が動かなかった。
彼の背中は人混みの中へ消えていく。
あっけないほど簡単に。
私たちの時間は終わった。
テーブルには食べかけの豚カツが残されている。
まだ温かいはずだった。
でももう冷えて見えた。
私の向かい側には誰もいない。
空席だけがそこにある。
店員が会計票を置いた。
彼の分も。
私は黙って財布を開く。
不思議なくらい涙は止まっていた。
何も感じなかった。
ただ、頭の中で一つの言葉だけが繰り返されていた。
豚以下。
豚以下。
豚以下。
私は視線を落とす。
皿の上には豚カツがある。
黄金色の衣。
柔らかな肉。
美味しいはずの料理。
彼は言った。
豚の方がマシだと。
豚の方が価値があると。
「そう……」
私は小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
「私は豚以下なの……」
窓の外では人々が歩いている。
誰も私を知らない。
誰も私を見ていない。
世界は何も変わらない。
変わってしまったのは私だけだった。
私は冷え始めた豚カツを見つめ続ける。
まるで答えを探すように。
まるで何かを理解しようとするように。
いつまでも。
いつまでも。
「豚以下……」
その言葉だけが静かに胸の奥へ沈んでいった。
「豚……」




