女ったらしと日常
朝という時間は昔から好きになれなかった。
特別に低血圧というわけではないし、寝起きが悪いわけでもない。ただ、どれだけ年齢を重ねても、一日の始まりというものには妙な面倒臭さが付きまとう。学生だった頃もそうだったし、教師になった今でもそれは変わらなかった。
「面倒だな……朝のホームルーム」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、私は校舎の廊下を歩いていた。
朝の空気には、まだ若い季節の匂いが残っていた。
窓の外では、柔らかな風に揺れる若葉が陽光を受けて淡く輝いている。
校庭の隅に並ぶ桜の木々は、ついこの間まで花で覆われていたとは思えないほど鮮やかな緑をまとっていた。花びらはとうに散り終え、枝先にはみずみずしい葉が幾重にも重なり合っている。
風が吹くたび、その若葉がかすかに擦れ合い、さらさらと心地よい音を立てた。
空は高く澄み渡り、陽射しには春の名残と夏の気配が同居している。
季節は確かに前へ進んでいた。
廊下には登校したばかりの生徒たちの姿が見えた。
友人同士で談笑する者。
眠そうな顔で歩く者。
慌てて教室へ駆け込む者。
毎年変わらない光景だ。
ただ、一年生たちの様子だけは少し違っていた。
入学したばかりの頃に見られた緊張や遠慮は薄れ始め、同じクラスの友人たちと自然に笑い合う姿が目につくようになっている。
教室の場所も、職員室への行き方も、昼休みに集まる場所も、もう覚えたのだろう。
新しい制服も少しだけ身体になじみ始めていた。
ほんの数週間か、あるいは一か月ほどか。
それだけの時間で、生徒たちは学校という小さな世界に自分の居場所を作り始める。
そして私もまた、毎日同じように教室へ向かう。
教師というのは案外変化の少ない職業なのかもしれない。
勘違いしないでほしいが、私は生徒ではない。
高校で国語を教えている教師だ。
今年は一年生の担任を任されているほか、二年生の国語も受け持っている。
名前はある。
もちろんあるのだが、別に覚えてもらうほどのものでもない。
この話では「先生」とでも呼んでくれれば十分だ。
そんなことを考えているうちに教室の前へ着いてしまった。
当たり前だ。
歩いていれば着く。
しかし、だからといって嬉しいわけでもない。
私は小さく息を吐いて教室の扉を開いた。
中では生徒たちが思い思いに過ごしていた。
誰かが笑っている。
誰かがスマートフォンを隠れて見ている。
誰かが宿題を写している。
若いな、と時々思う。
自分にもこんな時代があったはずなのに、もうずいぶん昔のことのように感じられた。
「はーい、朝のホームルームを始めるぞー。席に着けー」
教室の空気が少しずつ落ち着いていく。
教師という仕事をしていて感心することの一つは、生徒という生き物が案外素直だということだ。
もちろん反抗的な者もいる。
問題児もいる。
だが大半は教師が思っているよりずっと従順で、適当に指示を出せばそれなりに動いてくれる。
だから授業もホームルームも成立する。
「じゃあ出席を取るからな」
私は出席簿を開いた。
これもまた毎日の仕事だ。
正直なところ必要性はあまり感じていない。
休んでいる生徒など見れば分かる。
だが学校という組織は不思議なもので、見れば分かることでも手順としてやらなければならない。
「相沢」
「はい」
「相田」
「はーい」
「五十嵐」
「はい」
いつも通りの返事が返ってくる。
私は機械的に名前を読み上げていく。
そして。
「上田……は休みだな」
当然返事はない。
休みなのだから。
だが出席簿には記録しなければならない。
そういうものなのだ。
教師という仕事は、生徒を教えるより書類を書く時間の方が長いのではないかと思うことさえある。
そんなことを考えながら出席確認を続けていく。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
まだ暑い。
だが夏は少しずつ終わろうとしている。
教室へ差し込む光も、真夏のような刺すような強さではなくなっていた。
季節は確実に進んでいる。
それなのにホームルームだけは毎日変わらない。
少し不公平だな、と私は思った。
※
「渡辺」
「はいっ」
最後の名前を読み上げる。
私は出席簿を閉じた。
「今日の欠席は一人だけだな。遅刻もなし、と」
教室を見渡す。
四十人近い生徒たちがこちらを見ていた。
当たり前だが、私は別に彼ら全員を好きなわけではない。
教師だから平等に接する。
それだけだ。
好きな生徒もいれば、そうでない生徒もいる。
人間なのだから当然だろう。
「よし。今日の日直は……さやかだな」
窓際の席から一人の女子生徒が顔を上げた。
「このホームルームが終わったら職員室に来い。学級日誌を渡すから」
「はい、分かりました」
彼女は明るく返事をした。
さやか。
成績はそこそこ。
運動神経も悪くない。
教師受けも良い。
いわゆる優等生というほどではないが、扱いやすい生徒だった。
それに。
容姿も整っている。
その点は正直に認めざるを得ない。
男という生き物は、結局そういうところを見てしまう。
教師だろうと例外ではない。
もちろん表には出さないが。
少なくとも私はそうしているつもりだった。
ホームルームが終わると生徒たちは一斉に動き始めた。
椅子を引く音。
友人同士の会話。
教科書を取り出す音。
そんな雑多な音が混ざり合う中で、私は職員室へ戻った。
そして数分後。
軽いノックの音が響く。
「失礼します」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、そこにはさやかが立っていた。
朝の光が窓から差し込み、彼女の肩口を淡く照らしている。
まだ十代特有の若さがあった。
眩しいほどの生命力と言ってもいい。
年齢を重ねると、そういうものが少し羨ましくなる。
「おお、来たか」
私は机の上から学級日誌を取り上げた。
「今日の日直の仕事だ。忘れるなよ」
「はい」
彼女は素直に受け取る。
その仕草はどこか嬉しそうにも見えた。
気のせいかもしれない。
あるいは気のせいではないのかもしれない。
「頑張れよ」
「ありがとうございます。先生もお仕事頑張ってください」
そう言って彼女は笑った。
柔らかい笑顔だった。
そしてそのまま職員室を出ていく。
扉が閉まる音を聞きながら、私はふと考えた。
好意を向けられることには慣れている。
昔からそうだった。
別に自慢するつもりはない。
ただ事実として、私は女に困ったことがあまりない。
今もそうだ。
現在付き合っている女性が二人いる。
世間では二股というらしい。
だが私はそれほど悪いことだとは思っていない。
全員が納得しているわけではないだろうが、それでも最終的に選ぶのは私だ。
恋愛というのはそういうものだろう。
机に肘をつきながら窓の外を見る。
グラウンドでは運動部の朝練が行われていた。
若い声が風に乗って聞こえてくる。
その光景を眺めているうちに、ふと昔のことを思い出した。
数年前に付き合っていた女のことだった。
あの女は重かった。
とにかく重かった。
こちらが少し連絡を返さないだけで不安になる。
会いたいと言う。
離れたくないと言う。
愛していると言う。
正直に言えば面倒だった。
別れ話をしてもなかなか納得しなかった。
だから私はかなり酷い言葉をぶつけたと思う。
何を言ったのかまでは覚えていない。
ただ。
最後に。
――お前は豚以下なんだよ。
そんなことを言った記憶だけは残っていた。
今になって思えば、少し言い過ぎだったかもしれない。
だが終わった話だ。
それに。
あの女は顔だけは本当に綺麗だった。
それだけは認める。
私は小さく笑った。
人間というのは勝手な生き物だ。
別れた相手の嫌なところばかり覚えているくせに、時々こうして良かった部分だけ思い出したりするのだから。
私はしばらく窓の外を眺めていたが、壁の時計に目をやると、もう次の授業へ向かわなければならない時間になっていた。
教師という仕事は不思議なもので、どれだけ個人的なことを考えていても、時間になれば教壇へ立たなければならない。過去の恋人のことも、今付き合っている女たちのことも、生徒の前では一旦脇へ置いておく必要がある。
もっとも、本当に脇へ置けているかと言われれば怪しいものだが。
私は教材を抱えて職員室を出た。
廊下には授業前特有の慌ただしさが残っている。
窓から吹き込む風はまだ生暖かく、夏が完全には終わっていないことを感じさせた。校庭の向こうでは運動部の掛け声がかすかに聞こえ、そのさらに奥では蝉が鳴いている。
九月になったというのに、あいつらはまだ諦める気がないらしい。
私は二年生の教室へ向かいながら、そんなことを考えていた。
※
教室へ入ると、生徒たちは思い思いに過ごしていた。
友人同士で話している者。
机に突っ伏している者。
次の授業の準備をしている者。
どこの学校にもいるような、ごく普通の高校生たちだ。
「よし、始めるぞ」
私が声をかけると、教室は少しずつ静かになった。
視線を巡らせる。
そして予想通りの光景を見つける。
後ろの席。
健二が寝ていた。
今日も見事な寝顔である。
机に伏せたまま微動だにしない。
サッカー部は朝練もあるらしいし疲れているのだろうが、それにしても毎回よく眠れるものだと思う。
「健二」
反応なし。
「おい健二」
やはり反応なし。
周囲の生徒が笑いをこらえ始める。
私は小さくため息を吐いた。
「健二」
その時だった。
隣の席から一也が肩を叩く。
「おい」
健二の身体が少し動いた。
「起きろって」
ようやく顔が上がる。
「ん……?」
完全に寝ぼけていた。
教室中から笑い声が漏れる。
「お前また寝てたぞ」
一也が呆れたように言う。
「マジか……」
「マジだ」
以前ならこういうやり取りは見られなかったかもしれない。
生徒同士の関係というのは教師が思う以上に繊細だ。
何がきっかけで仲良くなるのかも分からないし、逆に離れていくのかも分からない。
ただ少なくとも今の二人は自然に言葉を交わしていた。
それだけで十分だろう。
「よし、授業を始めるぞ」
私は教科書を開いた。
今日扱うのは夏目漱石だった。
文学史に興味を持つ高校生はそう多くない。
だが、それでも読ませる価値のある作品というものはある。
私はページをめくる。
「今日は『吾輩は猫である』だ」
数人が露骨に嫌そうな顔をした。
その反応も毎年同じだった。
タイトルだけは知っている。
内容は知らない。
そういう生徒がほとんどである。
私は苦笑しながら読み始めた。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
教室が静かになる。
有名な一文だった。
日本人なら一度は聞いたことがあるだろう。
「どこで生れたか頓と見當がつかぬ」
読みながら、私はふと昔のことを思い出していた。
猫だ。
実家の近所にいた野良猫だった。
灰色の毛並みをした痩せた猫で、薄汚れた毛をなびかせ、いつも一匹でふらふらしていた。
飼い猫ではなかった。
首輪もなかった。
だから名前もなかったと思う。
それでも私はあいつが嫌いではなかった。
大学生だった頃、夜遅くに帰ると決まって塀の上に座っていた。
最初は近付くと逃げていった。
呼んでも来ない。
撫でようとするとさらに距離を取る。
それなのに、なぜか毎晩同じ場所にいて、私を待っているかのようだった。
私が勝手に会いに行っていただけなのかもしれない。
それでも不思議と気になった。
人間より猫の方が分かりやすいと思ったことすらある。
女というものは面倒だ。
愛していると言ったかと思えば疑い始めるし、自由にしてほしいと言ったかと思えば離れるなと言う。
もちろん男も似たようなものだろう。
だが猫は違う。
来たい時に来る。
去りたい時に去る。
それだけだ。
その潔さは少し羨ましかった。
「先生?」
声に我に返る。
いつの間にか読むのを止めていたらしい。
「ああ、悪い」
教室から小さな笑いが起きる。
「どこまで読んだっけか」
「まだ二行目です」
誰かが答えた。
私は苦笑した。
「そうだったな」
教師としてどうなんだと言われそうだが、たまにはこういうこともある。
私は再び教科書へ視線を落とした。
文章を読みながら思う。
猫という生き物は孤独だ。
群れを作らない。
誰かに頼らない。
人間のように互いを縛り合ったりもしない。
もちろん実際にはそんな単純な話ではないのだろう。
だが少なくとも私にはそう見えていた。
だから好きなのかもしれない。
一定の距離を保ちながら、それでも同じ場所にいる。
あの野良猫もそうだった。
名前も知らない。
触れたこともない。
それでも何年も見かけていた。
いつの間にかいなくなった時は、少しだけ寂しかったことを覚えている。
今思えば、あれは案外気に入っていたのかもしれない。
「先生、この小説テストに出ます?」
突然健二が聞いた。
私は顔を上げた。
真面目な顔をしている。
さっきまで寝ていたとは思えない。
「出る」
「マジか……」
教室に笑いが広がる。
私は肩をすくめた。
「だから寝るなと言っただろ」
「いや、先生の授業って声が落ち着くんですよ」
「褒めてないだろそれ」
一也が即座に突っ込む。
再び笑いが起きる。
穏やかな空気だった。
教師という仕事は面倒なことも多い。
書類は多いし、保護者対応もあるし、給料が特別良いわけでもない。
最近では図書室の管理も任された。
それでも辞めずに続けているのは、こういう時間があるからかもしれない。
私は教科書を持ち直した。
窓の外では若葉がきらめいている。
教室には生徒たちの笑い声が残っている。
どこにでもある学校の一日だった。
退屈なくらい平和で、そしてたぶん、後から振り返れば二度と戻らない時間だった。
「よし、静かにしろ。もう一度読むぞ」
そう言って私は再び文章を読み始めた。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした――」




