幽霊と猫
わたしは猫よ。
名前はまだないけれど。
人間はよくどこかで聞いたことがあるというけれど、そんなこと言われても困るわ。
わたしは人間の本なんて読まないし、人間が何を知っていて何を知らないのかも分からないもの。
とにかくわたしは猫よ。
もう子猫ではないわ。
高い所にも登れるし、ネズミだって見つけられるし、体だって自分で綺麗にできる。
全部先生に教えてもらったことなの。
でも最近、わたしは知らない場所へ連れてこられたわ。
前にいた家とは違う場所。
匂いも違うし、聞こえてくる音も違う。
最初は少し怖かった。
だって先生もいないし、ご主人様もあまり来なくなったのだもの。
わたしは何か悪いことをしたのかしら。
時々そう思う。
ご主人様はわたしが鳴くと怒ったから。
ご飯が欲しくて鳴いても怒ったし、寂しくて鳴いても怒った。
だからきっとわたしが何か間違えたのだと思う。
猫だから難しいことは分からないけれど。
ただ、ご主人様はいつも機嫌が悪そうだった。
それだけは覚えている。
先生もいなくなった。
先生はジョーブツというものをしたのかもしれない。
わたしはその言葉の意味を知らないけれど、先生は時々そう言っていたから。
今いるのは人間の子供たちだけ。
知らない匂いばかり。
知らない声ばかり。
だから先生と出会った頃の話をするわね。
あれはわたしがまだ小さかった頃だった。
ご主人様の家へ来てから、それほど時間は経っていなかったと思う。
薄暗い部屋の隅で丸くなっていた時だった。
急に誰かの気配を感じた。
でも匂いはしなかった。
猫は匂いでだいたいのことが分かる。
誰が来たのか。
どんな気分なのか。
どこから来たのか。
でもその人からは何の匂いもしなかった。
それなのに確かにそこにいた。
「……あなたは、誰かしら」
そう聞くと、その人は飛び上がるほど驚いた。
人間って面白いわね。
大きいくせに、時々とても臆病なんだから。
『……驚いたな。まさか、お前に俺が見えているのか』
変な人だった。
床から少し浮いているし、身体の向こう側が透けて見える。
しかも匂いがしない。
そんな人間を私は初めて見た。
「見えているわ。だってあなた、宙に浮いているもの。それに少し透けているでしょう。ご主人様にはそんな真似、できないわ」
『ご主人様……ああ、あの機嫌の悪そうな女のことか』
先生は嫌そうな顔をした。
わたしは少し驚いた。
だってご主人様のことをそんなふうに言う人は初めてだったから。
『俺はもう死んだ人間だ。……殺されたんだよ。まったく、女子高生になんか手を出した報いというやつだ』
死んだ。
その言葉の意味はよく分からなかった。
でも先生は本当に変だった。
匂いはしないし、床も歩かないし、壁をすり抜けたりする。
だからわたしはあまり深く考えないことにした。
「そうなの。……それより、何か食べるものはないかしら。わたし、とてもお腹が空いているの」
そっちの方が大事だった。
だって本当にお腹が空いていたのだもの。
『ご主人様からは何も貰っていないのか』
「貰っていないわ。猫は自分の力で獲物を捕るものだと教えられたもの」
先生はしばらく黙った。
どうして黙ったのかは分からない。
でも少し怒っているようにも見えた。
『……猫なら鼠を捕ればいい。たしか、あの箪笥の裏に一匹潜んでいたはずだ』
「どうすれば捕まえられるの?」
『そうだな……勢いよく飛びかかれば、案外どうにかなるんじゃないか』
わたしはやってみた。
本当にやってみた。
だって先生は色々知っていそうだったから。
すると。
獲れた。
本当に獲れてしまった。
「すごいわ……本当に捕まえられるのね」
私は嬉しくなった。
だって初めてだったのだもの。
自分でご飯を獲れたのは。
先生は少し引いていたけれど。
「あなたはいろいろなことを知っているのね。……ねえ、わたしの先生になってちょうだい」
私は本気だった。
ご主人様以外の人間と話したのは初めてだったし、先生は色々教えてくれた。
だから先生と呼ぶことにした。
『まさか本当に捕まえるとは……』
先生は呆れていた。
でもわたしは嬉しかった。
初めて褒められた気がしたから。
その時だった。
先生の顔が急に変わった。
『お前……その傷はどうした』
「きず……?」
『身体から血が出ているじゃないか』
わたしは自分の身体を見た。
たしかに赤いものが付いていた。
でも別に珍しくない。
「しつけだと言われたわ」
ご主人様はそう言っていた。
だから悪いことではないはずだった。
先生はまた黙った。
長いこと黙っていた。
わたしは何か変なことを言ったのかしらと思ったけれど、よく分からなかった。
しばらくして先生は小さく息を吐いた。
『……まあ、俺はもう死んだ身だ。口を出す必要もないのかもしれないが』
そう言った先生の顔は、なぜだか少し寂しそうに見えた。
その理由を私はまだ知らなかった。
先生はその日、しばらく部屋の中をうろうろしていた。
壁をすり抜けたり、天井近くまでふわふわ浮かんでみたり、人間なのに猫みたいなことをする不思議な人だった。
わたしはネズミを食べ終えると、その後ろをついて歩いた。
先生は迷惑そうな顔をしていたけれど、追い払おうとはしなかった。
だからわたしは嬉しかった。
ご主人様は私が近付くと嫌そうな顔をすることが多かったから。
先生は少なくとも怒鳴ったりはしなかった。
それだけで十分だった。
部屋の中は薄暗く、昼間でもあまり陽が入らない。
古い畳の匂いと湿った木の匂いが混ざり合い、空気はどこか重たかった。
わたしはこの部屋しか知らない。
だから他と比べることはできないけれど、それでも時々息苦しく感じることがあった。
窓はあるのに開かない。
扉もあるのに自由には出られない。
それが当たり前だと思っていた。
猫とはそういうものなのだと。
先生が戻ってきたのは、それから数日後だった。
わたしは最初、夢かと思った。
だって先生はもう来ないと思っていたから。
先生自身もそう言っていた。
今度こそ本当にさよならだと。
それなのに。
『まったく……気になって様子を見に来てみれば、この有様か』
聞き覚えのある声だった。
わたしは思わず駆け寄った。
「先生……!」
『お前なぁ……』
先生は呆れたような顔をした。
けれど前に会った時より少しだけ安心しているようにも見えた。
『排泄くらい、決まった場所でするものだ』
わたしは首を傾げた。
何を言われているのかよく分からなかったから。
「でもご主人様はこの部屋から出るなって……」
『今はいないんだろ? だったらいいんだよ』
「でも……」
『いいから付いてこい』
先生はそう言って廊下の方へ進んでいく。
わたしは慌てて後を追った。
部屋を出るのは少し怖かった。
怒られるかもしれない。
叩かれるかもしれない。
でも先生と一緒なら大丈夫な気がした。
廊下には埃が積もっていた。
誰も歩いていないのだろう。
窓から差し込む光の中で、小さな埃がゆっくり漂っている。
わたしは初めて見る景色に夢中になった。
こんな場所があったなんて知らなかった。
『いいか、排泄じゃここでするんだ。分かったな』
先生は家のことを解説しながらどんどん進んでいく。私よりも断然詳しいみたいだ。
先生が最後に連れてきてくれたのは家の裏手だった。
『ここでなら遊んでもご主人様にはバレないだろう』
土の匂いがした。
草の匂いもした。
風も吹いている。
部屋の中とはまるで違う世界だった。
「分かったわ先生」
わたしは素直に頷いた。
「先生は本当に物知りなのね。わたしの知らないことばかり教えてくれるわ」
『先生って……』
先生は苦笑した。
わたしはその顔が好きだった。
怒っていない時の先生は、少しだけ優しかったから。
『お前、名前は?』
「名前はまだないわ」
『なんだそのどっかで聞いたことあるセリフは……』
「わたしは聞いたことないわ」
先生は息がでることのないため息をついた。
どうしてなのかは分からない。
人間は時々よく分からないことで困った顔をする。
しばらく黙り込んだ後、先生は小さく息を吐いた。
『分かった。なら俺が何とかしてみよう。少し待っていなさい』
「なんとか?」
『誰かの耳元で叫べば霊感の強い奴なら気付くだろう』
難しい言葉だった。
「レーカン?」
『お前みたいなやつのことだよ』
なるほど。
やっぱり先生は物知りだった。
『もう少しだけ辛抱しろ。それまで待ってなさい』
先生は空を見上げる。
夕方だった。
空は赤く染まり始めていて、雲の端だけが金色に光っている。
先生の身体は相変わらず少し透けていた。
その向こうに夕焼けが見える。
綺麗だと思った。
『今度こそ本当にサヨナラだからな』
「サヨナラ?」
『しばらく会えないってことだ』
わたしは少し寂しくなった。
でも先生は時々いなくなって、また戻ってくる。
だから今回もそうだと思った。
また会える。
きっと。
「じゃあまたね、先生。また必ず、会いに来てね」
先生は振り返らなかった。
片手だけ軽く上げて、そのまま歩いていく。
そして、本当にいなくなった。
まるで最初からそこにいなかったみたいに。
「…………いっちゃった」
わたしはしばらくその場所に座っていた。
夕焼けが消えていく。
空が暗くなっていく。
風が少し冷たくなる。
それでも先生は戻ってこなかった。
だからわたしは一人で待った。
次の日も。
その次の日も。
ずっと。
でも先生は戻らなかった。
※
それから何日か経った頃だった。
家の様子が急におかしくなった。
朝から人間がたくさん来たのだ。
知らない匂い。
知らない声。
知らない足音。
家の外が騒がしい。
わたしは少し怖くなって部屋の隅へ隠れた。
ご主人様も慌てているみたいだった。
こんな姿を見るのは初めてだった。
その時だった。
突然。
大きな音が響いた。
ドンドンドン!
扉が揺れる。
人間たちの怒鳴り声が聞こえる。
「開けなさい! 警察です!」
知らない男の声だった。
けれどその声には有無を言わせぬ強さがあった。
「この家で少女が虐待を受け、命の危険があるとの通報を受けています!」
ギャクタイ。
意味は分からない。
でもその言葉を聞いた瞬間、ご主人様の顔色が変わった。
「ち、違う……! この家には子供などいないって……!」
ご主人様の声は震えていた。
どうしてだろう。
わたしはただ見ていた。
人間は時々理解できない。
「いるのは猫……! 猫しかいないから……!」
ご主人様は慌てたように言った。
その声はいつもより高く、掠れ、必死だった。
「名前も……名前もまだ付けていない猫だけだって……!」
私は首を傾げた。
どうしてわたしの話をしているのだろう。
警察と呼ばれた人たちは、そんなことを聞きに来たわけではなさそうだったのに。
やがて扉が開く音がした。
たくさんの足音が家へ入ってくる。
慌ただしい声が飛び交う。
私は部屋の隅で丸くなった。
何が起きているのか分からない。
先生なら知っているかもしれない。
先生なら説明してくれるかもしれない。
そんなことを考えながら。
けれど先生はもういない。
わたしは一人だった。
窓の外では風が吹いていた。
どこか遠くで鳥が鳴いている。
そしてふと、先生の言葉を思い出した。
――もう少しの辛抱だ。
あの時は意味が分からなかった。
今もよく分からない。
それでもなぜだろう。
先生は最初から全部知っていたような気がした。
わたしのことも。
この家のことも。
そして、自分が戻ってこないことさえも。
わたしは喧噪に耐えられなくなり小さく目を閉じる。
先生と過ごした、わたしにとって生まれて初めての色づいた日々を思い出し、騒ぎが過ぎ去るの丸くなって待つことにする。
だってわたしは猫だから。
名前はまだないけれど。
先生との思い出があれば生きていけるわ。




