包丁と女子高生
私の名前はさやかといいます。花の女子高生です。
朝は学校へ行き、授業を受けて、放課後は部活動へ顔を出し、家へ帰れば宿題をしてお風呂に入り、眠くなったら布団へ潜り込みます。休日には友達と遊びに出掛けることもありますし、テレビや雑誌で見かけた可愛いお店を探して歩くこともあります。
特別なことなんて何もありません。
私自身、自分のことを平凡な女の子だと思っています。平凡な、将来は花嫁になることを夢見る女の子。
趣味は料理です。
作るのも好きですし、食べるのも好きです。いつか結婚した時に旦那さんのお役に立てればと思います。
お菓子作りも好きですし、最近は煮込み料理にも興味があります。レシピ本を読みながら新しい料理を覚える時間はとても楽しくて、気が付けば何時間も台所に立っていることがあります。
編み物も好きです。
冬になるとマフラーや小物を作ったりしますし、本を読むのも好きです。静かな場所でお気に入りの本を開いていると、時間が経つのを忘れてしまいます。
こうして並べてみると、ずいぶん女の子らしい趣味ばかりですね。
実際、周囲からもそう見られていると思います。
優しそう。
家庭的。
真面目そう。
そんな言葉を掛けられることは少なくありません。
もちろん悪い気はしません。
だって私は花の女子高生なのですから。
ただ、一つだけ。
あまり人には話さない趣味があります。
隠しているわけではありません。
ただ、わざわざ話題にするほどでもないと思っているだけです。
私は包丁を研ぐのが好きです。
砥石に水を含ませ、刃をゆっくりと滑らせる。
シャリ、シャリ、と小さな音が響き、少しずつ刃先が整っていく。
その時間が私は好きでした。
曇っていた刃が少しずつ鋭さを取り戻していく様子を見ていると、不思議と心が落ち着くのです。
もちろん料理のためでもあります。
よく切れる包丁は使いやすいですから。
玉ねぎも。
人参も。
じゃがいもも。
余計な力を入れなくても綺麗に切ることができます。
だから私は定期的に手入れをしています。
それに包丁は料理以外にも色々な場面で使いますから。
手入れをしておいて損はありません。
そんなことを考えながら刃を磨いていると、あっという間に時間が過ぎていきます。
私はそんな時間が好きでした。
それからもう一つ。
今の私には、とても大切なことがあります。
恋です。
高校生らしいでしょう?
私は現在、恋の真っただ中なのです。
相手はサッカー部の先輩である健二さんです。
一つ年上で、背が高くて、いつも明るくて、周囲には自然と人が集まります。
サッカーをしている姿も格好いいですし、笑った時の顔も素敵です。
私はサッカー部のマネージャーをしています。
最初は部活の雰囲気が好きで始めただけでしたが、気付けば健二さんを見るために部室へ向かうようになっていました。
今では一緒に帰ることもあります。
家が近いのです。
最初は偶然でした。
けれど何度も同じ道を歩くうちに自然と会話をするようになり、今では放課後の楽しみになっています。
健二さんは少し変わったことを言う時があります。
ある日など真顔で、
「蝉の季節ももう終わりか。冬でも生きれる蝉っていなにのかな」
などと言っていました。
その時は何を言っているのだろうと思いましたが、本人は本気だったらしく、しばらく蝉について考え込んでいました。
不思議な人です。
でも私はそういうところも好きです。
アイスが好きで。
友達思いで。
少し変わっていて。
優しくて。
私に笑いかけてくれる。
だから私は信じています。
健二さんは私を大切にしてくれていると。
きっと特別に思ってくれていると。
そうでなければ、あんなふうに一緒に帰ったりはしないでしょう。
私はそう思っています。
思っているのですが――。
時々、不安になることがあります。
ほんの少しだけです。
本当に少しだけ。
放課後に健二さんが誰かと話している時。
スマートフォンを見て笑っている時。
私の知らない場所で過ごしている時間を想像した時。
胸の奥がざわつくことがあります。
理由は分かっています。
私は以前、一人だけ好きになった人がいたからです。
今から一年ほど前のことでした。
その人のことも本気で好きでした。
本当に好きだったのです。
ずっと見ていました。
何をしているのか。
誰と話しているのか。
どこへ行くのか。
何が好きなのか。
全部知りたくて、たくさん見ていました。
だって好きな人のことを知りたいと思うのは当然でしょう?
好きだから見ていたのです。
好きだから覚えていたのです。
好きだから離れたくなかったのです。
けれど、その人は違いました。
私のことを好きだと言ってくれませんでした。
それどころか。
別に好きな人がいると言ったのです。
お前と付き合ったのは間違いだった、そう言ったのです。
最初は冗談かと思いました。
だっておかしいでしょう。
私はこんなに好きなのに。
こんなに想っているのに。
どうして別の誰かを選ぶのでしょう。
今でも少しだけ分かりません。
でも、その時のことを思い出しても、もう以前ほど悲しくはありません。
だってもう終わったことですから。
ちゃんと解決したのですから。
私はゆっくりと窓の外へ目を向けます。
夕方でした。
空は薄い橙色に染まり始めていて、住宅街の屋根の向こうでは夏の終わりを思わせる雲が静かに流れています。
こういう時間は好きです。
昼ほど騒がしくなく、夜ほど寂しくもない。
世界全体が少しだけ穏やかになるような気がするのです。
だからでしょうか。
昔のことを思い出しても、今ではあまり心が乱れません。
あの人のことも。
好きだった気持ちも。
裏切られた時のことも。
全部、もう終わったことです。
最初は本当に悲しかったのです。
私はあの人のことを愛していました。
ずっと一緒にいたいと思っていました。
それなのに、あの人は私のもとから去っていきました。
どうしてなのかは最後まで分かりませんでした。
何度考えても答えは出ません。
私の何がいけなかったのでしょう。
もっと優しくすれば良かったのでしょうか。
もっと可愛くなれば良かったのでしょうか。
もっと近くにいれば良かったのでしょうか。
夜まで考え続けたけれど答えは見つかりませんでした。
だから私は別の結論を出したのです。
好きな人がいなくならないようにする。
それだけでした。
とても簡単なことだったのです。
愛した人が私の元から離れられないようにする。
ただそれだけ。
恋をしたことのある人なら、きっと一度くらいは考えたことがあるのではないでしょうか。
もちろん実行する人は少ないでしょうけれど。
私は少しだけ行動力があったのだと思います。
だから殺しました。
よく研いだ包丁で。
その時のことは今でもよく覚えています。
秋の月明かりが綺麗な夜でした。
風もほとんど吹いていなくて、辺りは驚くほど静かでした。
手の中の包丁はよく手入れされていて、月の光を受けて静かに光っていました。
あの時の私は悲しかったのだと思います。
怒っていたのかもしれません。
寂しかったのかもしれません。
でも不思議なことに、今となってはどの感情だったのかよく思い出せません。
覚えているのは一つだけです。
終わった後、とても安心したこと。
もうどこにも行かない。
もう私を裏切ることもない。
そう思った瞬間、胸の奥にあった重たいものがすっと消えたのです。
だから後悔はしていません。
少なくとも私は。
もっとも、その話はもう終わったことです。
今の私には健二さんがいます。
健二さんは私の一学年上のサッカー部の先輩です。
あの人と同じで年上ですが、二人の性格は全然似ていません。
だからきっと大丈夫です。
だって健二さんは優しいですから。
私と一緒に帰ってくれますし、話もしてくれますし、笑ってくれます。
私のことを嫌っている人がそんなことをするでしょうか。
しないと思います。
だから私は信じています。
健二さんは特別です。
あの人とは違います。
絶対に。
絶対に違います。
……でも。
時々だけ。
本当に時々だけなのですが。
不安になることがあります。
人間は変わる生き物だからです。
今日好きだったものを明日嫌いになることもあります。
昨日まで仲の良かった人と疎遠になることもあります。
そう考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなります。
健二さんは大丈夫。
そう思っているのに。
どうしても不安が消えないのです。
だから私はおまじないをしました。
女の子らしいでしょう?
恋をしている女の子は、おまじないをするものですから。
雑誌にも書いてあります。
恋愛成就のおまじない。
両想いになるおまじない。
離れないようにするおまじない。
私もそういうものを信じるタイプです。
だから試してみました。
私だけのおまじないを。
とても簡単です。
特別な道具も必要ありません。
必要だったのはスコップだけでした。
健二さんの家の庭は広いのです。
本人はあまり気にしていないようですが、木も多くて土も柔らかくて、何かを埋めるにはちょうど良さそうでした。
だから私は埋めました。
あの人を。
裏切ったあの人を。
健二さんの家の庭に。
土を掘るのは思ったより大変でした。
けれど嫌ではありませんでした。
むしろ少し楽しかったくらいです。
好きな人のために何かをしている。
そう思うと疲れも感じませんでした。
全部埋め終わった時には空が白み始めていて、鳥の鳴き声が聞こえていました。
私は土の上を丁寧にならしながら願ったのです。
どうか健二さんが私を好きでいてくれますように。
どうかどこにも行きませんように。
どうか私だけを見てくれますように。
どうか裏切りませんように。
どうでしょう。
とても効きそうなおまじないでしょう?
私はそう思っています。
だから大丈夫なのです。
健二さんは大丈夫。
絶対に。
絶対に。
絶対に。
私を裏切ったりしません。
もし裏切ったら――。
そこで私は考えるのをやめました。
そんなことは起きないからです。
起きるはずがありません。
だって私はちゃんとおまじないをしたのですから。
夕陽はすっかり沈み、部屋の中には薄い夜の気配が広がり始めていました。
私は机の引き出しを開きます。
そこには砥石と包丁がありました。
包丁を手に取る。
刃先を眺める。
少しだけ鈍っているような気がしました。
だから研ぐことにします。
水を含ませた砥石の上へ刃を置く。
ゆっくりと滑らせる。
シャリ。
シャリ。
静かな音が部屋に響きます。
私はこの音が好きです。
心が落ち着きます。
少しずつ鋭さを取り戻していく刃を見ていると、不思議と安心できるのです。
窓の外では夜風が木々を揺らしていました。
私は微笑みながら包丁を研ぎ続けます。
だってそれが私の趣味なのですから。
どうでしょう。
女の子らしいでしょう?
私はなんたって、花の女子高生なのですから。




