蝉と少年
ミーンミンミンミンミン、ミーンミンミン。
蝉の鳴き声が途切れることなく降り注いでいた。
窓の外から聞こえてくる夏の音というにはあまりにも近く、耳の奥へ直接流し込まれているような騒々しさだった。
「……っ……うるせえな……」
健二は寝返りを打ちながら顔をしかめた。
薄いタオルケットはとうに役目を果たしておらず、背中にはじっとりと汗が張り付いている。エアコンはつけていない。昼寝くらい自然の風で十分だろうと思ったのだが、その判断は完全に失敗だったらしい。
「それに……暑っ……」
重たい身体を起こしながら天井を見上げる。
八月の太陽は容赦がない。
カーテンの隙間から差し込む光は白く眩しく、部屋の空気そのものが熱を帯びているようだった。
本当なら昼寝をして過ごすつもりだった。
夏休みなのだからそれくらい許されてもいいはずだ。
しかしこの暑さと騒音では到底眠れそうにない。
健二は大きく息を吐きながら上半身を起こした。
高校一年生。
どこにでもいる普通の男子高校生。
特別勉強ができるわけでもなければ、特別運動が得意なわけでもない。
友人と遊び、アイスを食べ、夏になれば暑い暑いと文句を言いながら過ごす。
少なくとも昨日までは、自分のことをそう思っていた。
ぼんやりした頭のまま部屋を見回した時、不意に視界の端で何かが動いた。
「やっぱり入り込んでたのか……どうりでうるさいはずだ」
壁際に一匹の蝉が止まっている。
鳴き声からしてミンミンゼミだろう。
どうやら開け放した窓から入り込んでしまったらしい。
狭い部屋の中で聞く蝉の声は想像以上に大きく、もはや騒音と呼んだ方が正確だった。
健二はそっと立ち上がる。
蝉を刺激しないよう慎重に距離を詰める。
相手は気付いていない。
壁にしがみついたまま全力で鳴き続けている。
あと少し。
あと少しだけ近付けば――。
両手を伸ばす。
蝉が羽を震わせた。
その瞬間。
健二は勢いよく両手を閉じた。
小さな振動が掌の中で暴れる。
捕まえた。
思わず口元が緩む。
近くに転がっていた虫かごを引き寄せると、その中へ蝉を放り込み、蓋を閉めた。
蝉はかごの中でしばらく飛び回っていたが、やがて網にしがみつき、再び鳴き始めた。
ミーンミンミンミン。
健二はその姿をじっと見つめる。
そして、自分の胸の奥から湧き上がる感情に気付いてしまった。
「……蝉って、うまそうだよな…………」
思わず口に出していた。
言った瞬間、自分でもおかしいと思う。
蝉だ。
虫だ。
普通なら美味しそうだなどと思うはずがない。
それなのに、なぜかそう見えてしまう。
透明な羽。
細く引き締まった胴体。
艶のある殻。
眺めているうちに、なぜだか食材のように見えてくる。
「いやいや、おかしいだろ。蝉をうまそうに思うなんて…………」
慌てて首を振る。
だが一度浮かんだ考えはなかなか消えてくれない。
蜂を食べる地域はある。
イナゴだって食べる。
昆虫食なんて言葉も最近は珍しくない。
ならば蝉はどうなのだろう。
食べられない理由があるのだろうか。
それとも単に誰も食べようと思わなかっただけなのだろうか。
考え始めると止まらなくなる。
「変だよな……俺」
小さく呟く。
そしてふと、一也の顔が頭に浮かんだ。
二週間ほど前のことだ。
豚小屋に美人がいる。
そう真顔で言われた時は正直戸惑った。
自分には見えないのに、一也だけは確かにいると言い張っていた。
理解できなかった。
だが今なら少しだけ分かる気がする。
他人には理解できなくても、自分には確かにそう見えてしまうことがある。
蝉を見て美味しそうだと思うこの感覚も、きっと似たようなものなのかもしれない。
結局あの日以降、一也とは少し距離ができてしまった。
だが嫌いになったわけではない。
むしろ、自分の理解が足りなかったのではないかと思い始めていた。
そういえば数日前、クラスで仲の良い友達である雄大にもその話をした。
放課後の教室だった。
窓の外では野球部の声が響き、夕暮れの光が机の上を赤く染めていた。
「だからさ、一也が豚小屋に女がいるって言うんだよ」
健二がそう言うと、雄大はしばらく考えるような顔をしたあと、机に頬杖をついた。
「別にいいんじゃねえの」
「いや、よくないだろ」
「なんで?」
「だって見えないんだぞ」
「見えてる本人が困ってないならいいじゃん」
あっさりした答えだった。
健二は思わず眉をひそめる。
「お前なぁ……」
「だってさ、健二だって変なやつじゃん」
「俺のどこがだよ」
「この前だってアイス五本連続で食って腹壊してたろ」
「それは関係ないだろ」
雄大は声を立てて笑った。
教室の空気が少しだけ軽くなる。
そして笑い終えたあと、珍しく真面目な顔で言った。
「まあでも、一也は嘘ついてる感じじゃなかったな」
「…………」
「見えてるなら見えてるんだろ。俺らには分かんねえけど」
雄大らしいと思った。
深く考えているようでいて、案外何も考えていない。
だが時々、誰よりも物事を単純に見ている。
「今度また話しかけてやれよ」
そう言われた時、健二は返事をしなかった。
けれど心のどこかで、その通りかもしれないと思っていた。
「今度会ったら普通に話そう」
そんなことを考えながら、健二は虫かごから目を逸らした。
見ているとまた妙なことを考えてしまう。
このまま部屋にいては駄目だ。
頭を冷やした方がいい。
「少し外でも歩くか……」
健二はサンダルを履き、家の外へ出た。
外気は部屋の中以上に熱かった。
照り返しを受けた地面は白く光り、遠くの景色がわずかに揺らいで見える。
庭は広い。
祖父の代から使われている木々も多く、少し歩けば木陰がある。
健二は日差しを避けるように木陰へ向かった。
葉の重なった場所は幾分涼しく、風が吹くたびに枝葉がかすかに揺れる。
蝉の声も少し遠くなった気がした。
その時だった。
木の幹に張り付く小さな影が目に入る。
「……蝉の抜け殻、か……」
健二は立ち止まった。
夏の間なら珍しくもない。
どこにでもある光景だ。
それなのに目が離せなかった。
茶色く乾いた殻は陽射しを受けて小さく光り、木にしがみついたまま静かに残されている。
蝉ではない。
抜け殻だ。
生き物ですらない。
なのに――。
なぜだろう。
ひどく美味しそうに見えた。
蝉ではない。
抜け殻だ。
生き物ですらない。
それなのに、なぜだろう。
ひどく美味しそうに見えた。
健二は木の幹へゆっくりと近付く。
夏の陽射しを浴び続けた抜け殻はからりと乾いていて、茶色い殻の表面には細かな凹凸が浮かんでいた。風が吹けば今にも落ちてしまいそうなほど軽そうなのに、その小さな脚はしっかりと樹皮にしがみついている。
ただの抜け殻。
そう思う。
ただの抜け殻なのだ。
だが視線は離れなかった。
胸の奥で何かが囁いている。
食べてみろ、と。
もちろんおかしい。
自分でも分かっている。
虫を食べる人間はいる。
それは知っている。
だがだからといって、木に残された抜け殻を見て食欲を覚える人間など聞いたことがなかった。
「…………」
健二は手を伸ばす。
指先が抜け殻に触れる。
驚くほど軽かった。
少し力を加えるだけで、ぱり、と小さな音を立てながら木の幹から離れる。
掌の上に乗せて眺める。
軽い。
小さい。
そしてやはり、美味しそうだった。
その感覚だけはどうしても否定できなかった。
「抜け殻なら……そこまで変でもないよな……」
誰に言い訳しているのか自分でも分からない。
だが口に出した瞬間、不思議と決心がついた。
健二は周囲を見回した。
誰もいない。
聞こえるのは遠くの蝉の声と、葉擦れの音だけだった。
夏の午後は静かだった。
世界から切り離されたような木陰の中で、健二はゆっくりと抜け殻を口元へ運ぶ。
そして――。
歯を立てた。
ぱりっ。
小さな音がした。
次の瞬間だった。
「――っ!」
思わず目を見開く。
香ばしい。
驚くほど香ばしかった。
乾いた殻が砕ける感触とともに独特の風味が口いっぱいへ広がる。
軽い。
それでいて存在感がある。
今まで食べたことのない食感だった。
噛むたびに小気味よい音が響き、その度に旨味にも似た感覚が広がっていく。
「うまい……」
声が漏れた。
自分でも信じられなかった。
抜け殻だ。
蝉の抜け殻。
誰が好き好んでそんなものを食べるというのだろう。
だが確かに美味しい。
少なくとも健二の舌はそう感じていた。
ごくり、と喉が鳴る。
飲み込んだ後も余韻が残っていた。
香ばしさ。
乾いた風味。
そして妙な満足感。
身体の奥から何かが熱を持って広がっていく。
知ってしまった。
食べてはいけないものではなかった。
少なくとも自分にとっては。
その美味しさを知ってしまった。
すると自然と次の考えが浮かぶ。
抜け殻でこれなら――。
蝉そのものはどうなのだろう。
思考がそこで止まる。
止まるはずだった。
だが止まらなかった。
むしろ逆だった。
考えれば考えるほど、その疑問は強くなっていく。
蝉本体はどんな味がするのだろう。
抜け殻より香ばしいのか。
もっと濃い味がするのか。
あるいはまったく別物なのか。
知りたい。
確かめたい。
その衝動が急速に膨れ上がる。
「…………」
健二は立ち尽くしたまま自分の手を見る。
指先はわずかに震えていた。
興奮している。
そう自覚した瞬間、自分でも怖くなった。
だが恐怖より好奇心の方が強かった。
いや。
もう好奇心ではない。
欲求だった。
胸の奥から湧き上がる強烈な欲求。
理性が何かを訴えている。
やめておけ。
おかしい。
そんなことをしてはいけない。
だが身体は別の答えを出していた。
気付けば走り出していた。
砂利を蹴る。
庭を横切る。
玄関へ向かう。
暑さなど感じなかった。
蝉の声だけが耳の奥で響いている。
ミーンミンミンミン。
まるで呼ばれているようだった。
玄関の扉を開ける。
サンダルを脱ぎ捨てる。
廊下を駆ける。
自室までの距離がやけに長く感じられた。
もどかしい。
一秒でも惜しい。
胸の鼓動が激しくなる。
そしてようやく部屋へ辿り着く。
そこに虫かごがあった。
さっき捕まえた蝉がいる。
かごの網にしがみつきながら、今も元気に鳴いている。
ミーンミンミンミン。
健二は立ち尽くした。
蝉を見る。
蝉もまたそこにいる。
生きている。
必死に鳴いている。
その姿を見つめながら、健二はふと思い出した。
一週間。
蝉の寿命は短い。
地中で長い時間を過ごし、地上へ出てからはわずかな時間しか生きられない。
本当にそうなのだろうか。
昔から何度も聞いた話だった。
だが今、その知識はひどく曖昧なものに思えた。
人間が勝手に決めた尺度でしかないのかもしれない。
蝉にとっての一週間は、案外長いのかもしれない。
あるいは――。
短いからこそ美しいのかもしれない。
健二は静かに虫かごへ手を伸ばした。
蓋を開ける。
蝉は逃げない。
ただ鳴いている。
夏の命を振り絞るように。
ミーンミンミン……。
その声が何かを感じだったかのように途切れる。
部屋の中から鳴き声が消えた。
代わりに聞こえてくるのは、窓の外から響く無数の蝉の声だけだった。
夏はまだ終わらない。
強い陽射しが部屋を照らしている。
白い光の中で、健二は静かに目を閉じた。
ミーンミンミン……ギ、ギィ!!
……………………。
クチャ。
クチャクチャ。
クチャクチャクチャ…………。
ごくん。
部屋の外では、変わらず蝉たちが鳴き続けていた。




