豚と女
小さな養豚場の中にある豚小屋の周囲には、いつも独特の匂いが漂っている。湿った土と古い藁、それに発酵した餌の匂いが混ざり合い、さらに何十頭もの豚が発する熱気まで加わった空気は重く、生暖かく肌にまとわりつくようだった。
遠く離れた管理人以外は誰も訪れることはなく、管理人の来る時間も決まっている。外からの出入りを怪訝に思うものは誰もいない。
初めてここを訪れた時は思わず顔をしかめたものだが、人間というのは不思議なもので、何度も足を運ぶうちにその匂いすら当たり前になってしまう。今では鼻につくというより、この場所そのものを象徴する風景の一部のように感じられた。
夏の始まりを思わせるぬるい風が吹き抜けるたび、豚たちの体臭と藁の匂いがかすかに揺れ、その奥から聞こえてくる鳴き声が単調なリズムを刻んでいた。
「あら、今日も来たのね。一也くん、だったかしら」
聞き慣れた声に顔を上げると、彼女は今日も変わらずそこにいた。
「……あなたは、なぜいつもこんな場所にいるんですか」
そう尋ねながらも、僕はまともな答えを期待していたわけではない。
彼女はいつもそこにいる。
まるで最初からそこにいたかのように、そしてこれからもずっとそこにいるかのように。
僕は彼女の名前を知らない。だから心の中でも「あなた」と呼ぶしかないのだが、それでも彼女の姿だけははっきりと記憶に焼き付いていた。陽の光を受けて柔らかく輝く髪も、汚れた豚小屋の景色の中では異質なほど白く見える肌も、そして何より穏やかすぎるその微笑みも、一度見れば忘れられるようなものではなかった。
豚小屋は決して綺麗な場所ではない。泥と糞尿の匂いが漂い、鳴き声は騒がしく、地面はいつも湿っている。それなのに彼女だけは周囲の風景から切り離されたように美しく見えた。
ここにいるのは僕と彼女と――
ンゴ、ブヒ、ンゴンゴンゴ。
たくさんの豚である。
豚たちは思い思いに動き回り、鼻先で地面を掘り返し、時折こちらへ無関心な視線を向けていた。その姿はどこにでもいる家畜の群れでしかないはずなのに、彼女の隣にいるだけでどこか特別な意味を持っているように見えてしまうから不思議だった。
「どうしてここにいるのかって? 一也くんだって、愛する相手とはずっと一緒にいたいと思うでしょう?」
彼女は優しく微笑みながらそう言った。
その声音は恋人の話をする時のものによく似ていた。
「…………ここには、豚しかいないじゃないですか」
「そうよ。私は豚を愛しているの。少しもおかしなことではないでしょう」
言葉に詰まる。
冗談には聞こえなかった。
人をからかっているようにも見えない。
彼女は本気だった。
本気だからこそ理解できない。
僕にとって豚は、少なくとも美しいものではなかった。雑食で何でも食べる動物、泥にまみれ、どこか貪欲で、子供の頃から耳にしてきた悪口の代名詞。そんな程度の認識しかない。少なくとも、誰かが愛を語る相手として思い浮かべるような存在ではなかった。
「豚は美しいわ。勇敢でもある。欲望に忠実だし頭もいい」
彼女は豚たちを見つめながら言う。
その視線には嘘がなかった。
ただの好意ではない。
憧れとも違う。
もっと深く、もっと純粋な感情がそこにはあるように思えた。
「その点、人間は醜いわ。欲望を抱えながら、それを隠そうとする。そのくせ感情ひとつ御しきれないのだから」
彼女の言葉に合わせるように豚たちが鳴いた。
ンゴ、ブヒ。
偶然なのだろう。それでも僕には、まるで豚たちが彼女の意見に同意しているように聞こえた。
「あなたはここで何をしているんですか?」
気づけばそう尋ねていた。
聞いてはいけないような気もしたが、それ以上に知りたかった。
「愛し合っているのよ。彼らが望むのなら、私はこの身さえ捧げる。それは清らかで、正しいことよ」
さらりと告げられた言葉に、僕は返事を失った。
「それって……」
続きが出てこない。
喉が妙に渇いていることに気付く。
豚小屋の中は暑いはずなのに、背筋だけが冷たかった。
彼女の言葉は理解できない。
理解できないのに、その瞳だけは嘘をついていないように見える。
そこに僕は恐怖を感じていた。
「いい、一也くん。ここへ来るのは構わない。でも、私と彼らの愛だけは壊さないでちょうだい」
その瞬間、空気が少しだけ重くなった気がした。
脅されたわけではない。
怒られたわけでもない。
それなのに僕は、本能的に踏み込んではいけない領域へ近づいてしまったような感覚を覚えた。
「…………失礼します」
そう言うのが精一杯だった。
僕は逃げるように豚小屋を後にする。
背後では豚たちの鳴き声が絶え間なく続いていた。
振り返ることはできなかった。
もし振り返れば、何かを見てしまうような気がしたからだ。
※
次の日の朝、空は薄い雲に覆われていた。
昨日の出来事は夢だったのではないかと思ったが、豚小屋の匂いや彼女の微笑みは妙に鮮明なまま頭に残っていた。
学校で授業を受けている間も、友人と昼食を食べている間も、気が付けば彼女のことを考えている。
理解できない。
むしろ関わらない方がいいとすら思う。
それなのに気になる。
彼女が何者なのか知りたくて仕方がなかった。
結局、僕はクラスの友人である健二に話すことにした。健二は入学以来の付き合いで、何事にも首を突っ込みたがる性格だった。
サッカー部に所属する彼は、あまり僕とは似ているタイプではなかったが、なぜか話のテンポが合い、よく話すようになった。健二は面白そうな話を聞けば放っておけず、逆に退屈なことには驚くほど興味を示さない。こういう話をする相手としては、ある意味で相談するには最適だった。
「なに? 豚小屋に変な女がいるって?」
「そうなんだ……彼女の言うことはまるで理解できない……ただ、ものすごく綺麗なんだ」
「豚小屋にいるのに美人なのか? そいつは興味をそそられるな。よし、今日は俺も連れていけよ」
健二は面白がって笑った。
その反応は当然だった。
もし立場が逆なら、僕だって同じように笑ったと思う。
「でも…………」
「大丈夫だって。俺は外で待ってるだけだからさ」
「うん…………わかった」
放課後、僕たちは豚小屋へ向かった。
西へ傾き始めた太陽が畑を赤く照らし、伸びた影が地面を覆っている。昼間の熱気はまだ残っていたが、吹く風にはかすかに秋の気配が混じり始めていた。
「じゃあここで待ってて。絶対入ってこないでよ」
「分かってるって。ほら、早くいけよ」
友人に背中を押されるようにして、僕は豚小屋の中へ足を踏み入れた。
彼女は今日もそこにいた。
だが、いつもと違うことがあった。
「どうして豚と同じ柵の中に入っているんですか…………」
彼女は豚たちの中にいた。
柵の外から眺めているのではない。
同じ空間に入り込み、まるで群れの一員であるかのように静かに座っていた。
豚たちは彼女を警戒していない。
身体を寄せるものまでいる。
その光景は異常なはずなのに、不思議なほど自然に見えた。
「…………」
彼女は答えない。
ただ穏やかな表情のまま豚たちを撫でている。
豚小屋の中には鳴き声だけが響いていた。
ンゴ、ブヒ、ンゴンゴンゴ。
「おーい、一也。どこにもそんな女なんていないじゃないか」
背後から聞こえた友人の声に、僕は思わず振り返った。
「バカ! 入ってくんなって言っただろ!!」
「は? だって豚しかいねーじゃん」
一瞬、意味が分からなかった。
「いや、そこにいるだろ!」
「……お前、頭でもおかしくなったのか?」
「いや、だってそこに!!」
再び彼女を見る。
彼女はいる。
間違いなくいる。
豚たちの中で静かに微笑んでいる。
なのに友人には見えていない。
心臓が大きく脈打った。
耳の奥で血流の音が聞こえる。
見えていない?
いや――。
ふと昨日の会話が脳裏をよぎる。
彼女は豚を愛していると言った。
豚と共にいると言った。
もし。
本当にそんなことがあるなら。
友人には彼女ではなく、豚として見えているのだろうか。
馬鹿げた考えだった。
それなのに、その仮説だけが妙にしっくりきた。
「悪いけど、先に帰ってくれ……」
「お前、本当に大丈夫か? なんだか様子がおかしいぞ」
「大丈夫だから」
「…………分かった」
健二は気味悪そうに僕を一瞥すると、そのまま帰っていった。
足音が遠ざかる。
残されたのは僕と彼女と豚たちだけだった。
彼女はそこにいる。
僕を見て微笑んでいる。
「あなたは…………いったい…………」
問いかけても答えは返ってこない。
彼女はただ静かにこちらを見つめていた。
夕陽を受けた横顔は驚くほど美しく、その表情は心の底から満たされているように穏やかだった。
幸福。
そんな言葉がふと頭に浮かぶ。
異常な光景のはずなのに、その笑顔だけはどこまでも自然だった。
だからこそ恐ろしさを超えた神秘的な何かを感じた。
僕は目を離せなかった。
彼女は確かにそこにいる。
少なくとも僕にとっては。
豚たちの鳴き声が聞こえる。
沈みかけた夕陽が豚小屋を赤く染め、長く伸びた影がゆっくりと地面を覆っていく。
ンゴ、ブヒ、ンゴンゴンゴ。
その声はいつまでも耳の奥に残り続けていた。




