54「新・キス一回目。乙環のアトリエ」
◆◇
「雪ちゃん、これで終わり?」
「悪いな買い物につき合わせて」
帰国後、初めての夜。
駅からそんなに離れてない物価的に高い一角へ向かっている俺達。
心配だからとついてきた流星と駄べりながら夜の街を歩いていた。
毎回、目的地へ行くには飲み屋街を通らないとならないので、治安が悪いから酔っ払いの姿がよく目につく。
その中を遠回りしたくない俺は、オラオラ系チャラ男な外見を顧みず進み、結果、お巡りさんから職質の常連という不名誉な肩書きを与えられる。
「いいさ。またいなくなったら怖いからな」
「悪かったって流星」
「冗談だ」
「本当かよ」
「実は竜石堂ちゃんから頼まれているんだ。前、事件に巻き込まれたことあるから心配だって」
「そういうことか」
久しぶりに帰宅はいいが、長い期間放置していたので大掃除が頭によぎりため息をつく。
だからドラックストアで洗剤やらワックスや補修材を一通り揃えた。
数日間は汚れとカビとの格闘は免れない。
そんなとても憂鬱な気分で高級マンションへつく。
デザインにこだわった豪華な外観、駅まで徒歩十分で着く便利性、近くに大型ショッピングモールやスーパーもあり不自由する要素はない。
「いいよなあ、雪ちゃんこんなデラックスなマンションに住めるんだから。夜景とかめちゃ綺麗だしさ。うちなんて朝、雨戸開けたら一面に広がっているのは墓石なんだからな。思わずお経上げてしまうって」
「俺はいいと思うけどな」
「あんな心霊スポット系雑誌に乗るところの何処がいいんだ?」
「流星は認識が甘い。美が詰まったふすま絵、畳の香り、真っ白な障子、木のシミにぬくもり。寺・神社は日本建築の極みと言っても過言ではないだろ」
小声で日本マニアウゼーと流星……聴こえている聴こえている。
なので眼前に堂々と建っている我が住処を見上げるも心へ抱く感情は虚無。
住んで数年経つがいまだに慣れない我が家。
俺は京都の町家建築や乾拭き屋根の古い日本家屋が好き。
こんな日本の情緒なんて一切感じないハイテクな建物は好まん。
それだったら山と空き家借りて田舎暮らししたほうが数倍まし。
「ほい、護送完了」
「上がっていくか? 茶ぐらい出すぜ」
「掃除手伝わされそうだから遠慮する」
「よくわかったな」
「図星かよ。雪ちゃんじゃあな」
「ああ、ありがとうな」
俺は流星へ手をひらひら上げるとこのまま、掃除が行き届いたホテル級のエントランスホールへと足を踏み入れる。
照明の明かりが高級感ある落ち着いた演出、冷暖房完備の広い空間、大理石の床は常時ピカピカを維持。
幸い配達物は郵便局で預かってもらっていたので、チラシお断りのポストはクリーンに保たれていた。
防犯の観点から、神無月の家が名家であり金持ちのせいで俺はこんなところを買い与えられて暮らしている。
放棄しているとはいえ本家の長男坊、どこでトラブルに巻き込まれるかは分からない。
だからと言っても監視が届く範囲にいろとは動物園のクマと変わらないぜ。
まあ、ブルジョアや親のスネかじりと後ろ指さされるのが我慢ならないから、生活費や学費は自力で稼いでいる。
というわけで私生活は意外と質素なのだ。
部屋はとても広いが、抜き打ち検査があるので掃除が大変だけどなんとか維持している。
実家へ戻りたくはないからハウスキーパーに頼らなくても自活できることを証明したい。
憧れのオンボロアパート六畳一間、近い将来同棲する予定である彼女(願望)と銭湯に行く道のりは遠い。
清掃が行き届いたエレベーターへ乗り込むとキーを差し番号を打ち込みロックを解除。
通常住人でも立ち入りができない、マンションの最上階、フロアを独占したエリアへと昇った。
表札には『Kannazuki』と表記。
それが俺の部屋。
パスワードでロックを解除。
玄関から上がると見慣れた三毛猫が立ちはだかる。
「あれ? なんでにゃん太郎がここにいるんだよ?」
「…………………………」
ここにいるはずがない、相棒にして家族たるにゃん太郎が俺を凝視。
こいつは預けたはず。
しかもシャーー! と威嚇してきやがる。
三ヶ月も留守にしたから怒っているんだ。
だが、にゃん太郎がここにいるということは、誰かが世話をしていたということ。
それを証すようにもふもふ毛並み状態から毎日ブラッシングしていたのが伺える。
でも、部屋の合鍵もっているのは親だけだが、実家から遠いからそれはありえない。
「ふふん〜〜♪♪〜〜ラララ〜〜♪♪♪♪」
「鼻歌?」
リビングから明かりが漏れていた。
事態が把握できない俺は警戒を高める。
この時だ、何故か味噌汁の香りが漂ってきた。
トトトトトトッと軽快のリズムで野菜を切る音がする。
誰かうちのキッチンで料理を作っているのか?
その証拠に、美味そうな香りと共にジュゥゥゥとフライパンで何か焼く音が聞こえた。
警戒より俺の腹がそれをよこせと騒ぐ。
恐る恐るドアを開くと、「お、おかえり神無月!」キッチンにはポニーテール&エプロン姿の乙環さんが何故かご飯を作っていた。
「乙環さん⁉」
これには俺も度肝を抜かれる。
「ご飯がいいか? お風呂にする? それとも僕?」
「そのギャグ笑えないぜ……」
「そうか? 竜石堂が雪之丞には有効だよと言っていたぞ」
「時と場合による。それよりどうやってここに入ったんだ?」
「馬鹿か、君が僕にキーを渡したんだろうが。よく思い出せ!」
いてて!
近づいてきた乙環さんに、この馬鹿とこめかみをグリグリやられる。
「あーー⁉」
「記憶が蘇ってきたか?」
そうだった……。
薄れていた記憶を振り返ると、日本を発つ前、慌ててにゃん太郎の面倒をみてくれる施設を探していた。
とても急だったから、馴染みのペットホテルを利用しようと思案していたら満室。
信頼できる友達へお願いしようにも、流星は猫アレルギー、お竜は妹と弟が多い理由から連れ帰ることも通うこともできない、だからダメ元で乙環さんに世話を依頼した。
猫好きのマスターでも良かったが仕事に手がつけられなくなると困るので論外。
『——まて神無月、僕は長野家に居候している身分。確かにあのもふもふと肉球に触り放題なのは魅力的な提案だが、ここは断腸の思いで断ろう』
『ならば、俺のマンションの部屋を自由にしていい。通うのは面倒だけどメリットがある』
『なに?』
『大型オーブンや料理の機材は一通り揃えている。うちならリンゴ亭に負けない本格的なタルトやケーキやパンが焼き放題だ』
『うおおおお! それは悩むぞ』
『頼む。俺の命であるにゃん太郎を預けられるのは乙環さんしかいないんだ!』
『はぁ…………仕方ない。取り引き成立だ。あとはまかせろ』
『にゃん太郎を頼みます』
俺と乙環さんはガッチリ握手を交わす。
「——なのに無責任な飼い主は三ヶ月経っても一向に帰ってこないうえ、部屋もほったらかし、しかもこんなでかい部屋だとは聞いてないぞ。高級ホテルのスイートルームか⁉ 挙げ句の果てそんなことを一切忘れ、僕は不法侵入者扱い。幾らなんで酷いだろ?」
「ごめんなさい!」
毎日掃除が大変だったぞとボディーブローを食らう。
「まあいい。予想通りだったからな。サプライズ仕掛けやすかった」
「サプライズ?」
「そうだ神無月。今から一緒にご飯食べよう。海外にいたのなら日本料理が恋しいだろうと思って頑張ってみた」
「いいのか?」
「ああ。こんな素敵な環境提供してくれたんだ。このくらいはさせてくれ」
「実はずっと我慢していたんだ。匂いがたまんね。喜んでいただきます!」
俺は手と手を合わせる。
テーブルにはすでに味噌汁と肉じゃがが配置。
更にカラフルなサラダと野菜炒めが中央に、端には海苔と生玉子が並べてあった。
最後に大盛りのご飯をよそってくれる乙環さん。
何処か嬉しそうだ。
「いただきます」
「味噌汁がうめー! ご飯もなんでこんなに美味いんだ⁉」
「泣くほどか? ご飯は水の分量とか研ぎ方で味が変わるからな。あと僕は隠し味に竹炭をいれるんだ」
「だから懐かしい味なのか。日本人でよかった。おかわり!」
「はいはい。ならこれもいけるか? めかぶと納豆みっくす。ネギを刻んであるから混ぜてくれ」
「うううめーー!日本食最高!」
うう、白米、味噌汁、肉じゃが、納豆に野菜炒め。
日本の定番料理。
これを食べるために俺はここまで生き延びた。
特にご飯は昔ババ様が炊いてくれたご飯に似ている。
これは心にしみるぜ。
「神無月はいい食べっぷりだ。作った甲斐があるな」
「今すぐにでも乙環さんはいい嫁さんになる。俺が保証するぜ」
「それはありがとう。嬉しいよ」
「ということでおかわり!」
はいはいと乙環さんはまた山盛りにご飯をよそってくれた。
——食後。
乙環さんの手料理を満腹になるまで堪能した俺はフローリングに大の字になる。
「神無月、すぐに横になったら牛になるぞ」
「うえーい」
反応してすぐに起き上がった。
「ははっ、面白い男だ」
「相手が友達だから聞き分けいいだけだ」
「それより神無月、相談がある」
「なんだよ、急に改まって?」
乙環さんはフローリングに正座。
深く頭を下げる。
「どうか僕にこの部屋を使わせてくれ」
「俺の家で練習したいのか?」
「ああ。ここはいい。静かだし集中できる」
「まあ、高層ビルの最上階だからな。風が強い以外は静かだ」
「神無月がいない間、スイーツの試作部屋に使わせてもらった。お陰様で師匠に新作の案が何回か採用された」
「なにー!? すげーな乙環さん。普通に嫉妬だぜ」
初めてたった三ヶ月で、あの頑固スイーツ職人を納得させるなんて天才かよ。
「神無月、だからこれまで通りここを使わせてくれ」
「うちの器具役に立っているみたいだな」
「見ればわかるだろ?」
「ああ。普段使わないものあるから役に立ってくれて嬉しいよ」
甘い香りが漂ってくると思ったらキッチンカウンターにグラニュー糖とか小麦粉とか寝かせてある生地が置いてあった。
先程仕込んだんだな。
「ああ、ここは最高だ。高性能の大型機材が一通り揃っているからリンゴパイやピザやなんでも作れる。まるでエデンだぞ」
「気に入ってくれて何より。絶対に喜ぶと思っていたんだ」
「それとにゃん太郎が可愛い」
「それも同意」
どうやら乙環さんは猫が好きだようだ。
目立たないところで猫グッツを身に着けているから確信が持てなかった。
「というわけで頼む。使わせてくれ。店からも駅からも近いからバイト帰りの寄るの最高の環境なんだ。彼方にも内緒でバイトない日もここで研鑽していた」
「いやいや、さすがに男の部屋に夜遅くまでいさせられないぜ」
「そこをなんとか。リンゴ亭で師匠から教わったことをすぐに実践したいんだ。じゃないとよく寝られない」
「家でやればいいだろ?」
「正直ここでのスイーツ作りがライフワークになってしまったので手放したくないのが本音だ」
「そこまでか?」
元々お菓子作りが趣味の乙環さんを招待しようと思っていたけど、ここまで気に入ってくれるとは思わなかった。
「ああ、こんなに気持ちよくて、デカくて、長時間持続する神無月のを知ったら、もう耐久力がなくて極小な長野のじゃ満足できないぞ♡」
「要約すると、機材が充実していて便利、中がとても広々、騒音とは無縁だから集中力が途切れない、作業しても疲れない設計のうちのキッチンを知ったら、色々と気が散って機能性も不十分で使いにくい自宅の台所じゃ満足できないと言いたいんだな?」
興奮気味に語る乙環さん。
気に入ってくれたのは嬉しいが、むふーと鼻息が荒い。
「そう、それだ! お菓子するには最高の環境が揃ってるんだ。こんな幸運もうないぞ」
「気持ちはよくわかったから離れてくれ。距離が近い」
なんか勘違いされそうな言い方を訂正する俺。
これを無意識に言っているんだから凄いな。
「その代わり、毎日とは行かないがご飯作ってやる」
「このプロ級のがまた食えるのか?」
俺も自炊やっているからそれなりには作れる。お竜にも教えたことあるしな。
でも乙環さんのは次元が違う。
昔から家族の食事を作っていただけあって腕前が匠クラスなのだ。
多分長野のリクエストに応えていたから自然とここまで上達したんだろうな。
長野が羨ましいぜ。
「三ヶ月間にゃん太郎の面倒みてくれて、更に部屋を維持してくれたんだ。文句なんてあるわけない」
「神無月!」
「ただし、毎日は駄目だ。夜遅く美人の学生が足しげなく通うにはリスクが大き過ぎる。ここは駅前から近いし色々噂立つから学園側に知られたら厄介だ。それが俺のできる最大限の譲歩」
「分かった」
「そういうわけでよろしくな」
ああと乙環さんはよほど嬉しいのか満面の笑みを浮かべた。
「あと、取り引きも再契約しよう」
「それはいいだろ?」
「駄目だ。まだ僕の目的が成就できてない。君には最後まで責任取ってもらう義務がある」
「確かに約束したけど……」
「僕の恋をまた応援してほしい」
「分かった。一度乗りかかった船だ。最後まで面倒みるぜ。でもどれくらいで乙環さんの思いが伝わるのか?」
「それは君次第だよ」
「?」
そうか、長野の件、そんなに俺を頼りにしているんだな。
わかったぜ乙環さん。
絶対に長野と恋人にさせてやるからな。
「それではまたキスするぞ」
「久しぶりだから難易度下げてくれ。心臓がもたん」
「海外で散々ブチュブチュやってきたんだろ?」
「確かにキスとハグは向こうの挨拶だが、誰ともはやってないからな」
「わかった。じゃあ僕もハグ&キスに挑戦しよう」
「いやいや、そんなにむりしなくても——距離ちか!」
こっちの言い分無視して乙環さんは抱きしめてくる。
何故か安心する慣れた体温の心地よさ。
長い髪から漂ってくるシャンプーの香り。
改めて俺はここに帰ってきたと実感した。
「改めてやると恥ずかしいな」
「俺もだ」
「ではやるぞ」
「スパッと頼む」
新・取り引き一回目。
乙環さんの顔が近づいてきて——デコを押さえ待ったをかける。
「神無月なぜ止める?」
「確認? 今何処にやろうとしていた?」
「唇」
「それはNGだぜ」
「一回やったら二回も三回も変わらないだろ?」
「誤解しているかもしれないが、口づけは万国共通愛する者同士の儀式だからな。そんなにおいそれとするものじゃない」
「海外映画でところ構わずやっているだろ?」
「それは演出だ」
「だったらあの接吻は本当にお前の初めてだったのか?」
「そういうこと」
三ヶ月後の真実。
俺の答えに反応して真っ赤となる乙環さん。
可愛い。
「とと、とにかくやってしまったのはしょうがない。次は気をつけるようにしよう」
「そうだぜ。だから俺のファーストキスはノーカンで、本当に好きな相手としてくれ」
「神無月…………」
「どうした?」
乙環さんに至近距離で目を合わすと、「こんなこと、誰彼構わずやらないんだからな。お前だけなんだぞ」額に時間かけて唇を押し付けた。
「契約だからな」
何が気に入らなのか乙環さんは深いため息の後、俺を突き飛ばす。
「この愚か者」
「なぜ?」
「しらん! これでもくらえ!」
「あ♡」
目を細め足で俺の腹筋をグリグリやってくる乙環さん。
ゴミクズでも眺めているかのような目で容赦なく責める。
あああ、そこ効くっす。
こうして新たな性感帯もとい契約と、乙環さんが自由に俺の部屋へ通う権利を手に入れた。




