36「キス二十五回目、伊豆半島は複合巨大アミューズメントパーク」その一
八月九日
取り引き二十五回目。
「浜風が気持ちいいな」
「車酔いが一気に吹っ飛ぶぜ」
民宿がある丘から絶景を堪能中。
空気を吸い込むと若干しょっぱい。
これが磯の香りと言うやつだ。
眼前に広がる一面の海に、反対側を振り向くと富士山がくっきり姿を現していた。
「綺麗だ……。波の音が心を落ち着かせる」
「浜辺か? かき入れ時だから組合もクリーン化に心砕いているんだろうよ」
「たわけ、ニューアンスが違うぞ」
「うん?」
「なんでもない。ヤルことしか考えてないエロ猿に聞いたのが間違えだった」
「まだ怒っているのか? あれはお竜がからかっただけだ。第一、俺だって風光明媚くらい理解できるぜ。工業地帯が周りにはないから落ち着くんだよな?」
話しにならないと呆れて宿へ戻ろうとする乙環さん。
それを俺が悪かったと引き留める。
「そんなんだからマスターにお菓子の新作アイデア出しても却下されるんだぞ」
「反論出ませんっす」
「もっと五感を研ぎ澄ませるんだ」
「目で見るな、心で感じろと?」
「馬鹿か? 絵画を鑑賞するように全身で美しさを味わうんだ」
「うむむ、それは難題だぞ」
俺には美的感覚がないことを再認識。
だいぶ前、マスターからファンシーなお菓子を作る才能ないと烙印を押されたのはこういうところなんだろう……。
俺のサ店経営する野望を叶えるのはまだまだ遥か先のようだ。
「浜風は綺麗な音が聴こえる」
「結構強風だけど、眼鏡吹き飛ばされないか?」
「取れるわけがないだろ。でもなぜ今更?」
「最近お目に掛からなかったからなんとなく」
「長距離移動だとコンタクトは疲れるから眼鏡にした。夜間だと途中で痛くなったら洒落にならない」
「視力悪いやつは大変だな」
乙環さんはフンと鼻を鳴らすと風で長いポニーテールが揺れる。
今日は無地の大きめなTシャツにデニムパンツ。
元がいい生徒会長様は何を着ても様になるよな。
正直羨ましい。
ちなみに俺はタンクトップ一択。
快晴の空、今日は絶好の海水浴日和なり。
まだ早朝なのに沖合いには漁船が、浅瀬には波に乗っているサーファー達もいた。
浜辺からはレトロな湘南サウンドが流れてくる。
ここは伊豆半島なんだが……。
「神無月、身体は大丈夫か? 後半からかなりキツそうだったろ?」
「うーん、なんとかなった。同じ体勢のまま維持していた関係上、途中、道の駅に寄ってくれなかったら死んでたわ」
流石にヘビーだったぜ。
俺達はキッチンカーで移動して朝日が昇る頃現地へ到着。
深夜から信号が多い都内を突っ切ったので、結構時間がかかった。
何よりも命以上大切な商売道具がたくさんあるから運転は慎重に行きたいとのこと。
神奈川県より海岸沿い移動なので箱根峠越えはなかったからアップダウン少なかったけど、夜道だったせいで折角の海が全く拝めず勿体ない気もする。
「僕はマスターから色々と面白い話を聞けたので楽しかった」
「だろうな。とても声が弾んでいたぜ」
「世界の色んなお菓子に精通しているから、聞いているだけで時間が経つのが早い」
「途中から製法とか発祥地とか専門用語バリバリだっただろ? 俺じゃてんで理解が追いつかなかった」
しかしマスターも乙環さんの質問攻めによく耐えたな。
スイーツへの飽くなき探求心を持つ相手だと、パティシエというよりマニアだから普段寡黙なマスターもついつい饒舌になる。
本来ならマスターにどんどん教えを請いたかったが、悪いから普段は遠慮していたらしい。
なので俺だと教えてくれないことまで語っていたから羨ましい限りだ。
これが嫉妬という感情か……。
でもマスターの一番弟子は俺だからな。
いくら乙環さんでもここは譲らん。
それにしても俺だけ長時間キッチンへ直に座っていたから足が痛い。
でも仕方なし。
俺は大事な役目を担っていた。
固定しているとはいえ高価な道具が多々あるから、それを衝撃から守ることだ。
無事にたどり着き任務から解放される。
今日は設営だけだが、組合がすべて用意してくれるから俺達のすることはほぼない。
本格的稼働は明日からだ。
「神無月、明日はキッチンカーだけなのか?」
「いや、場所が大きいからテーブルと椅子も借りてオープンカフェ風でいく予定」
「それだと直射日光キツくないか?」
「イベント用の大型テントを手配済みだ。それなら日陰になってお客も休めるだろ?」
「じゃあ今日のやることは?」
「特にない。マスターも近くの厨房借りて仕込みするから適当に過ごせだってさ」
「そういうことはもっと事前に知らせてほしいものだ。というか僕は仕事を手伝いたい」
「ま、マスターは喫茶店関連以外はアウトオブ眼中だから諦めろ」
乙環さんはため息をつく。
それはそうか、気合入れていたのにいきなり空き時間が沢山できたのだ。
今日の過ごし方がだいぶ狂うだろう。
「ならどう時間を潰すか。伊豆半島自体温泉地だが、そこまで行く手段が限られているのは困ったもんだ」
「なら一緒に色々回らないか?」
「うーん、宿の温泉でまったりも良かったが、その提案乗った」
「まだ時間がたっぷりあるが半島自体巨大なアミューズメントパークだ。ガッチリ予定組まないとすぐに時間が過ぎていくぜ」
バイクで何度も訪れているが、それでもまだ半分も回りきれてない。
恐るべし超巨大観光地。
「そこら辺はツーリングのプロに任せる」
「具体的には何処がいい?」
乙環さんは爛々に目を輝かせている。
さては元々何処かに行く気だったな?
その証拠にカバンから付箋ビッシリの旅行雑誌が覗いていた。
「伊豆の踊子の浄蓮の滝とか、天然記念物の大室山、映画のモデルな龍宮窟、断崖絶壁の吊り橋と城ヶ崎ブルースの石碑がある城ヶ崎海岸、大きな灯台と神社がある石廊崎。ジオパークの宝庫だから僕の興味が尽きない」
「俺はワニが見たいな」
「愚か者が。それは近くの動物園で見れるだろ?」
「温泉卵でもいい」
「時間の無駄、家で茹でろ。で、足はどうする? 電車は論外としてレンタルサイクルやバスだと回りきれない」
「レンタカーで行こう、俺は留年しているから免許はあるんだぜ」
「神無月もしかして僕より年上なのか……?」
「二、三年海外の学校のない地域で生活していたからな」
「だからどこか大人びて頼りがいがあると思った」
「買いかぶりだ」
こうして急遽、乙環さんと伊豆を観光することになる。
確実にお竜が後で騒ぐのは火を見るよりも明らか。
なのでこのことは俺と乙環さんの秘密にした。




