第15話 さすまたと花束
その日の夜――。
閉店作業をしながら、アタシは何度も時計を見ていた。
いつもなら、この時間にはリュークが来る。
カウンターの向こうから顔を出して、「迎えに来た」と仏頂面で言う、あの時間。
「……遅いわね」
窓の外を見る。
人通りはとっくに絶えていた。
(仕事が長引いてるだけよね。うん、それだけ)
そう自分に言い聞かせながら、アタシは片付けの手を止めない。
グラスを拭き、椅子を上げ、最後の一杯を自分のために注いで――。
その時、扉が開いた。
「リュー……」
振り返ったアタシの声は、途中で止まった。
「あら、エミールさん、ごめんなさい。今日はもう閉店で……」
そこに立っていたのは、リュークではなかった。
エミール・ヴァイスは、いつもの神経質そうな笑みを浮かべていなかった。
目に、何の光も宿っていない。
いや――違う。
光はある。ただ、その光が、正気のものじゃなかった。
「今日は邪魔者がいないから、二人きりだ」
その声は、静かだった。
静かすぎて、余計に恐ろしかった。
(なんで、リュークがいないの知ってるの……まさか)
背筋が、一気に冷たくなる。
これまで感じていた違和感、覗かれていたとしか思えない絵、そして――今夜、リュークが来ないタイミングを、まるで知っていたかのようなこの登場。
(この人、ずっと見てたのね)
全身の毛が逆立つ感覚がした。
これは、熱狂的なファンの執着なんかじゃない。
(本物のストーカー……)
頭の中で、警鐘が鳴り響く。
「キャー! 誰か男の人ーたすけてー!」
アタシは大声で叫んだ。
叫びながらも、頭の隅は冷静だった。
(叫んでも、この時間じゃ誰も来ない。だったら……)
カウンターの下へ、素早く手を伸ばす。
指先が触れたのは、以前ガブリエルに「物騒すぎでは」と苦笑いされながら用意させた、防犯用のさすまただった。
「なっ……」
エミールが、一瞬怯んだ顔をする。
「叫んだって無駄ですよ。誰も来ませんよ」
「そうかしら」
アタシは、さすまたを構えながら、努めて余裕のある声を出した。
「うちの旦那様、そろそろ迎えに来る頃なんだけど」
「知っています。今夜は、遅れる」
その一言で、確信に変わった。
(……どこまで把握しているの?)
「ジェーン様」
エミールが、一歩近づいてくる。
「ずっと、あなただけを見てきました」
「はいはい、そういうのいいから」
「あなたを、誰よりも理解しているのは私です」
「そう、それは光栄ね」
アタシは、さすまたの柄を握り直す。
「でも、アタシ、人妻なの。知ってるでしょ?」
「形だけの結婚でしょう」
エミールが、静かに首を振った。
「望んでもいない。心も通っていない。あなたの心が泣いている……」
「勝手に決めないでくれる?」
思わず、声が低くなる。
「無理をしないで」
エミールが、うっとりとした目で続けた。
「あの悲恋の歌を聞けば分かります。あなたの心の奥には、まだ誰か忘れられない人がいる」
その言葉に、一瞬、コンサートの時の景色が頭をよぎる。
あれは、前世のヒット曲を歌っていただけだった。
それを、こんな形で利用されるなんて。
「歌は歌! アタシはアタシよ!」
「私ならあなたを分かってあげられます」
「そういう奴が一番分かってないのよ!」
その瞬間だった――。
エミールが、腕を伸ばしてくる。
アタシの体が、考えるより先に動いた。
ジェーンとして生きてきた十数年。
魂は入れ替わっても、この体に刻まれた剣の記憶は、消えていなかった。
「はぁぁぁ!」
さすまたが、綺麗な弧を描く。
一瞬の間があって、エミールがその場に崩れ落ちた。
「……え、あれ? 効いた?」
自分でもびっくりするくらい、綺麗に決まっていた。
そして、ほぼ同時に――。
扉が開いた。
「ジェー……なんだ、どうした!?」
リュークが、血相を変えて飛び込んでくる。
その目に映ったのは、さすまたを構えたまま仁王立ちするジェーンと、床に伸びているエミールだった。
「……」
リュークは、しばらく言葉を失っていた。
「いやーん、怖かったわー!」
アタシは、さすまたを素早くカウンターに立てかけると、急にか弱いふりをして、リュークの胸に飛び込んだ。
「……もう大丈夫だ」
リュークは、戸惑いながらも、アタシの肩をそっと抱いた。
その手は、少し震えていた。
「あの人、ずっとアタシを見てたみたいなの。今日、リュークが遅れることまで知ってて……」
アタシは、起きたことを一通り説明する。
話しながら、ふと気づく。
(あら、近い)
リュークの胸襟が、すぐ目の前にあった。
規則正しい鼓動と、少し早くなった息遣い。
(さっきまで、恐怖でざわついてたのに、今は違う意味でドキドキしてきたわ……)
「あの、リューク……」
「何だ?」
「もう少し、このままで……」
そう言いかけた時、アタシは気づいた。
リュークの腕に、何か抱えられている。
小さな花束だった。
「……あら、それ何?」
リュークの視線が、慌てたように泳いだ。
「あ……」
「花、じゃない!」
白い、可憐な花だった。
まだ夜露に濡れている。
「……花屋を、探していた」
リュークは、視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。
「こんな時間まで開いている店なんて、ほとんどなくて……それで、遅くなった」
「……アタシに?」
「他に誰がいるんだ」
ぶっきらぼうな声だった。
でも、その耳は、真っ赤だった。
「……これ」
差し出された花束を、アタシは両手で受け取る。
さすまたを握っていた手に、今は花。
(さっきまで物騒なもの持ってたのに、今は花……アタシの人生、忙しいわね)
「リューク……」
思わず、また一歩、距離を詰める。
その瞬間――。
リュークは、逃げなかった。
代わりに、震える手で、アタシの手をそっと包み込んだ。
「……さっき」
声が、かすれていた。
「店に着いて、お前がさすまたを構えて立っている姿を見た時、俺は……」
リュークは、言葉を探すように、一度目を閉じた。
「頭が真っ白になった。もし、俺がもう少し遅かったら。もし、お前に何かあったら……そう考えただけで、息が出来なかった」
「リューク……」
「怖かったんだ。お前を失うことが……」
その一言で、アタシの中の何かが、静かに満たされていくのが分かった。
でも、同時に、ずっと胸の奥に押し込めていた問いが、口をついて出た。
「……ねえ、リューク」
「何だ?」
「もし……もしよ?」
アタシは、少しだけ声を落とした。
「ジェーンの前のアタシが、男だったらどうする?」
リュークが、目を見開いた。
アタシは、リュークの反応を待つのが怖くて、視線を少しだけ逸らした。
前世で、何度も飲み込んできた言葉だった。
嫌われるかもしれない。気持ち悪いと思われるかもしれない。
その恐怖は、世界が変わっても、消えていなかった。
リュークは、しばらく黙っていた。
その沈黙が、痛いくらいに長く感じた。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「――どうもしない」
迷いのない声だった。
「魂も、姿も、生まれた場所も関係ない。君なら、例えどんな姿でも構わない」
その一言に、アタシは息を呑んだ。
「男でも、女でも、どこの世界の人間でも――俺が惚れたのは、お前という人間そのものだ」
まっすぐな目が、アタシを見つめる。
「歌う時、笑う時、誰かを守ろうとする時。その全部が、お前だった。それ以外の何が、変わるっていうんだ」
アタシは、もう何も言えなかった。
涙が、堪えきれずに溢れた。
「……ちょっと、アタシ、泣くつもりなかったのに」
「俺の前では泣いてもいい」
「化粧も落ちちゃうし、今日だけよ」
そう言いながらも、涙は止まらなかった。
前世で、ずっと欲しかった言葉。
"そのままでいい"と、誰かにまっすぐ言ってほしかった。
それを、こんな異世界で、こんな不器用な男から貰えるなんて。
「……どうして、今日なの?」
リュークは、少し照れくさそうに続けた。
「本当は、もっと違う時に渡すつもりだった。もっと、ちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉と一緒に」
「……」
「だが、悠長に何かを待っている理由なんてないと気づいたんだ」
リュークは、片膝をつく。
「魂も、姿も関係ない。俺自身の意思で、お前に――ジェーンに、これからも隣にいてほしい」
夜露に濡れた花束を、そっとアタシの胸元へ寄せる。
「これは……プロポーズのつもりだった」
アタシは、しばらく声が出なかった。
「……あら、やだ」
声が、震えた。
「アタシ、こういうのに弱いのよ、本当に……」
涙腺が緩みそうになるのを、アタシは慌てて笑って誤魔化す。
「返事は?」
「……もちろん、イエスよ! アタシの旦那様」
花束を抱きしめながら、アタシは笑った。
「結婚式やり直そう」
アタシが頷くとリュークの顔に、これまで見たことのない、柔らかな笑みが浮かんだ。
カウンターに立てかけたさすまたと、腕の中の花。その両方が、今夜アタシに与えられたものだった。
物騒な武勇伝と、まっすぐなプロポーズ――。
その両方を抱えて、アタシは今度こそ、この世界で本当の意味の"妻"として生きていく。




