閑話 ~言えなかった過去、もう聞こえない声~
トモエ・スタール視点の話です。
面会に指定された地下牢は、地下の小さな石造りの部屋だった。
窓もなく、灯りは一つだけ。
トモエは扉の前で、一度だけ息を整えた。
「本当に、会うつもりか?」
ブラッドが小さく聞く。
「ええ。元同僚だもの。たとえ過ちをおかしても話くらいは聞いてあげたいわ」
トモエは頷いた。
同じ会社にいた者として、聞きたいことがある――そう王妃に言った時は、本当にそう思っていた。
彼がどんな思いでこの世界に来たのか。何を失い、何を求めて、こんな結末を選んだのか。
元同僚のよしみで、それくらいは聞いてあげようと思っていた。
扉が開く。
椅子に座らされたその男は、調書に記載されていた内容よりも痩せており、目だけが、やけに鋭かった。
その姿を、トモエが見た瞬間――。
「……あなた」
男の口元が、僅かに歪んだ。
「尋問の次は……カウンセラー、か」
その声を聞いた瞬間、トモエの背筋が凍った。
この声を、トモエは知っていた。
「……先輩……」
トモエは誰にも聞こえないほど、小さな声で呟く。
「そこに立っているだけか?」
男は、乾いた笑いを漏らした。
「……まさか」
トモエの声が震える。
「あいつ……」
ブラッドが、トモエの肩越しに男を見た。
ブラッドの表情が変わる。
トモエは、男から目を逸らせなかった。
「私が、まだ新人だった頃、同じチームにいたのよ」
ゲーム会社に入って、まだ一年も経たない頃だった。
シナリオライターとして配属されたばかりのトモエに、優しく仕事を教えてくれた先輩。
最初は、感謝していた。
でも、ある時から。
「お前、随分とディレクターに気に入られてるみたいだな」
男は、当時と同じ笑みを浮かべていた。
「色目使って仕事もらってるって、結構噂になってたぞ。知ってたか?」
「……それ、先輩が流したのでは?」
トモエの声が、低くなる。
「さあ。俺はただの傍観者さ」
男は、肩をすくめた。
あの頃のことを、トモエは何度も思い出した。
急に、誰も声をかけてこなくなった日々。
会議室で、誰も自分の意見を聞かなくなった日々。
"広岡巴は実力じゃない"――
その空気だけが、確かにあった。
誰がそれを言い出したのか、ずっと分からないままだった。
「……だから私は、一人で頑張るしかなかった」
トモエは、ようやく言葉にした。
「一人で仕事を抱えて、一人で全部背負って、それで――、死んだのよ」
トモエの声が、震える。
「なんで……いや、今言っても仕方がない」
ブラッドの低い声が、響いた。
その目には、これまで見たことのない怒りが宿っていた。
拳が、固く握られている。
「あいつが、トモを……」
一歩、前に出る。
「お前のせいで、トモは……」
「ブラッド!」
トモエが、その腕を掴んだ。
「やめて!」
「トモエ……」
「お願い……」
ブラッドは、震える拳を、ゆっくりと下ろした。
それでも、男を見る目からは怒りが消えなかった。
「……今度は、私が傍観する番なの」
トモエは、静かに呟いた。
あの頃、ブラッドが何かに気づいて声をかけてくれた時――。
「大丈夫、自分でなんとかするから」
――そう言って、笑って誤魔化したのは自分だ。
誰にも本当のことを言わず、一人で全部抱え込んで。
そして、ブラッドが何もできないまま、私は過労で倒れた。
この世界で再会した時、ブラッドは何もできなかったことを、ずっと悔やんでいると言った。
だから今、目の前で怒りに震えている。
(あの時、私が一言相談していれば……)
トモエは、唇を噛んだ。
転移者である同僚がどんな悲劇を背負って、ここまで歪んでしまったのか。
同じ会社で働いていた者同士、何か分かり合える部分があるのではないかと、そんな甘いことすら考えていた。
でも、相手が違う。
「……何か、聞きたいことがあるんじゃないのか?」
男が、面白がるように言った。
「いいえ。私は、あなたの結末を見届けます」
トモエは、男を見据えた。
もう、聞きたいことは何もなかった。
「さようなら」
静かに言う。
男の笑みが、僅かに固まった。
「聞いてくれよ! 俺がどんな思いして、この世界に来たのか……」
「……」
トモエは、踵を返した。
「行きましょう、ブラッド」
「……トモエ」
ブラッドは、もう一度だけ男を見た。
何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言わず、トモエの後を追った。
扉が閉まる。
「おい、待て……! 一人にするな!」
男の声が、扉の向こうで響いた。
けれど、二人は振り返らなかった。
◇
地下牢を出ると、薄暗い廊下に陽の光が一筋差し込んでいた。
「……トモエ」
ブラッドが、静かに口を開く。
「すまない。あの時……お前が一人で抱えてたって、俺、本当に気づいてなかった」
「いいの。頼らなかった私も悪いわ」
トモエは、小さく笑った。
「もう、終わったことだから……」
「終わってない」
ブラッドの声は、真剣だった。
「お前が死んだのは、終わったことじゃない。俺がずっと、引きずっていたことだ」
トモエは、何も言えなかった。
「だから、今度は俺が言わせてくれ」
ブラッドは、トモエの手をそっと握った。
「もう、一人で抱え込まないでくれ。何かあったら、ちゃんと俺に言ってくれ」
トモエの目に、涙が滲む。
「……うん。私の旦那様は頼りになるわ」
ようやく、頷くことができた。
あの男に対する怒りも、悲しみも、まだ消えてはいない。
でも、隣にこの人がいることだけは、確かだった。
「……帰りましょう。私達の家に」
トモエは、ブラッドの手を握り返した。
地下牢の暗がりに、男の声がまだ響いていたが、もう二人の耳には届かなかった。




