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第18話 発酵の精霊と、極限の衛生管理。

「……なるほど。この井戸、構造自体が致命的に歪んでいるな」


 拠点の端、数百年放置されていた石造りの古井戸。俺はその縁に腰掛け、トート神から授かった【神域の目録(Wiki)】に浮かび上がる文字を追っていた。


 視界の端に浮かぶ目録には、井戸内部の魔力の淀み、湿り気、そして浮遊する菌の分布が、古い羊皮紙に記された図解のように詳細に書き出されている。


【対象:古井戸(発酵精霊の停滞域)】

• 状態: 風が通らず、魔力の塵が積もっている。


• 漂う菌: 麹菌(眠ったまま)、雑菌(異常に増えている)、古の醤油の残り香。


• 問題点: 「清浄」の術式がボロボロに壊れている。発酵ではなく「腐敗」の一歩手前だ。


• 解決策: 魔法で風を通し、温度を常に二十八度五分に保つこと。


「主、中から何か聞こえます……。『暗い、不潔だ、菌のバランスが最悪だ』って、ブツブツと呪詛のような声が……」


 ガウルが耳を伏せ、井戸から漏れ出す濃厚な――だが、どこか酸っぱく歪んだ発酵臭に鼻をひくつかせている。


「……だろうな。発酵は、寸分の狂いも許されない精密な仕事だ。空気が淀めば、すべてが台無しになる。……ガウル、少し下がっていろ。手入れを始めるぞ」


 俺は右手を井戸の闇へと差し向け、魔法を練り上げた。

 まず行ったのは、目に見える汚れの掃除ではない。目録の知識を介した、目に見えない情報の整理だ。


 魔法の波動が井戸の底まで浸透し、不要な雑菌を焼き払い、沈殿していた濁った魔力を、透き通った水と新鮮な空気へと変えていく。さらに、井戸の壁面に刻まれた古い術式を真っさらなものへと書き換え、心地よい風が一定に流れるように整えた。


「なっ……なんだ!? 急に世界が……白く、清らかになっただと!? 視界の曇りが、一瞬で晴れた……!?」


 井戸の底から、弾かれたように半透明の人影が飛び出してきた。

 白い作務衣のような服を纏い、手には自分の背丈ほどもある大きなかいを持った少年姿の精霊。……発酵を司る精霊、コウジだ。


「貴様か! 私の仕事場を勝手にひっくり返したのは!」


 コウジは血走った目で俺を指差した。その瞳には、長年不潔な環境に耐え忍んできた職人特有の悲壮感と、一瞬で環境を整えられたことへの困惑が混ざり合っている。


「……ひっくり返したのではない。有給中に、こんなずさんな仕事場を見過ごすのは、寝覚めが悪いだけだ。……それより、その櫂。お前の『熟成』の腕、俺の醤油造りに貸せ」


「はぁ!? 私を誰だと思っている! 私は万物の『旨味』を形にする至高の精霊だぞ! 人間の下俗な調味料など……」


 俺は無言で、肩に乗ったピヨを指差した。

 ピヨが「ピヨッ!」と短く鳴き、浄化の炎を微かに放つ。その熱量は、井戸の隅々に残っていた微細なカビを、塵一つ残さず根絶やしにする。


「……ひっ! 不死鳥フェニックス!? しかも、この寸分の狂いもない温度の保ち方……。貴様、もしや名のある『醸造師』か?」


「……ただの、こだわりが強い男だ。……ほら、目録によれば、お前の力を使えば、この『魔導大豆』は三日で数百年分の深みが出るらしいぞ。……やるか、やらないか。今すぐ決めろ」


 俺が差し出した、魔力を帯びた大粒の大豆。その表面には、複雑な魔力の紋様が、まるで脈打つように浮かび上がっている。

 コウジは生唾を飲み込み、震える手で大豆を手に取った。


「……信じられん。これほどの純度……これほどの苗床……。貴様、この大豆をどうするつもりだ」


「……至高の『カエシ』を作る。マシマシ系という、神をも虜にする一杯のための醤油だ」


「……マシマシ系……? 聞いたこともない名だが、その響きには並々ならぬ執念を感じるな。……面白い。これほど整った場所、そして最高の素材。……よかろう、私のすべてを賭けて、貴方の望む『漆黒の雫』を仕上げてやる!」


 精霊コウジが加わったことで、拠点の調理場の一角は、もはや異世界の常識を超えた「魔導熟成室」へと変貌した。


 コウジが櫂を振るたびに、大豆と麦、そしてダンジョンの天然水が混ざり合い、空気を震わせるほどの濃厚な香りが広がり始める。


 それは、醤油の香りであって、醤油ではない何か。

 芳醇な大豆の旨味に、スカイエルフのチーズの残り香、そしてピヨの熱が加わった、一種の「香りの暴力」だ。


「……う、主、この匂いだけで……飯が三杯いけそうです……」


 ガウルが涎を垂らしながら、井戸の周りをふらふらと歩き回る。

 遠巻きに見ていたスカイエルフたちに至っては、その香りに当てられ、ある者は恍惚とした表情で膝をつき、ある者は「先祖代々の山が、醤油の香りに支配される……」と震えながら祈りを捧げている。


「……よし。醤油が馴染むまで三日かかる。その間に、次は『背脂』の純度を上げるぞ。目録によれば、西の湿地に……」


「主! 有給が終わるどころか、どんどんやることが増えてませんか!? というか、もう村が一つ作れるレベルの設備になってますよ!」


 ガウルの嘆きを背に、俺は目録の地図に次の目的地を定めた。

 醤油、ニラ、卵、チーズ。

 マシマシ系を構成するパーツが、一つ、また一つと、あるべき究極の姿へと磨き上げられていく。


 俺の有給休暇は、もはや一つの文明を塗り替える勢いで、加速し続けていた。

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