三話 人ならざるもの (2)
「……ん?」
小春は足を止めた。木の陰から、白く小さな何かがこちらを覗いている。
白く丸みを帯びた身体は、ぼんやりと透けている。短い手足に、黒く丸い二つの目。口は申し訳程度に小さく、何を考えているのかまるで分からない。
それは木の陰から、小春をじっと見つめていた。
「……なにあれ」
小春が庭へ一歩踏み出そうとした瞬間、松がその腕を掴んだ。
「小春様!」
「えっ?」
「近づいてはなりません」
先ほどまで穏やかだった松の表情が、強張っている。
「どうしたんですか?」
「あれは──漂魂でございます」
「……ひょうこん?」
小春はもう一度、白いそれを見た。
漂魂は何をするでもなく、ただ小春を見つめている。やがて、こてんと首を傾げた。
「……かわいい」
松は、怪訝そうに首を傾げた。
「えっ、あっ、あの。ひょうこんってなんですか?」
「死してなお、龍脈に還ることが出来なかった魂でございます」
「還れなかった魂……」
「左様でございます」
「──どうして、還れないんですか」
松は困ったように小春を見た。
「それが、わからないのです。古の時代より、漂魂は神域を彷徨っております。生者は生者、死者は死者。決して交わることのないもの──ゆえに、むやみに関わってはならぬと伝えられております」
小春は視線を漂魂のいたところに移したが、いつの間にか居なくなっていた。
──還る場所。
その言葉が妙に胸に刺さった。自分には帰るべき場所がある。──父と母がいて、朝陽と侑士がいて。待っている人たちがいる。それなのに、帰れない。
小春は漂魂がいた所を振り返り、松と共に宮の中を巡り始めた。
宮は外から見た以上に広く、幾つもの殿舎が長い渡り廊下で繋がっていた。松はその一つ一つを小春にも分かりやすく説明してくれた。
客間に戻ってきた小春は、夕餉の時間まで暇を持てあましてしまった。寝台に仰向けで寝転び、ため息をつくと、電源のつかないスマホを取りだした。
「お父さん、お母さん……」
真っ暗な画面には、疲れきった自分の顔がぼんやりと写っている。
何度ボタンを押してもやはり反応はない。
「今頃、何してるんだろう」
枕元にスマホを置き、瞼を閉じると腕で目元を覆った。
朝陽と侑士にも連絡が取れないままだ。きっと待ち合わせ場所で待たせてしまっている。それに今日は、家族で寿司を食べる約束だった。
「帰りたい……帰りたいよぉ。お父さん、お母さん……」
嗚咽交じりに何度も呟くうちに、堪えていた涙が目尻から流れ、耳を伝い、髪と寝台を僅かに濡らした。
どうしてこんなところに来てしまったのだろう。
白嶺はここが自分の居場所だと言った。
けれど、小春にはそんなこと到底信じられなかった。
自分の居場所はここじゃない。父と母のいる家、朝陽と侑士がいるあの世界だ。
「……帰りたい、帰らせてよ」
もう一度呟いて小春は身体を丸めた。
泣き疲れたのか、やがて瞼が重くなっていく。
──今日は、色んなことがありすぎた。
そう思ったのを最後に、小春の意識はゆっくりと沈んでいった。
子の刻、寝静まった宮に主が帰ってきた。
東の邑から戻った白嶺は、出迎えの者たちに二、三の指示を与えると、長い廊下を歩き出した。
「主上」
声をかけたのは、白嶺から三歩離れて歩く松だった。
「小春は」
「客間でお休みになられております」
「そうか」
白嶺は短く答えると、そのまま歩き出した。
「あの、主上」
呼び止められ、振り返る。
「……なんだ」
「小春様、夕餉はほとんどお召し上がりになりませんでした」
白嶺の眉が僅かに動いた。
「なにかあったのか」
「帰りたい……と──お部屋から泣いておられる声が聞こえておりましたので」
白嶺はしばしその場に佇んだのち、静かに客間へ歩き出した。
客間の前に来ると、白嶺は足を止めた。中から物音はしない。
そっと襖を開けると、寝台の上で小春が身体を丸めて寝ていた。
静かな足取りで寝台の傍まで歩み寄り、薄明かりの中、小春の顔を覗き込んだ。
涙の跡があった。泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
枕元には見慣れない黒い板があった。それに触れようと右手を伸ばしたが、触れる直前で止まった。行き場を失った右手は、小春の柔らかな髪を優しく撫でていた。
翌朝、小春は縁側から差し込む柔らかな朝日に照らされ、ゆっくりと目を覚ました。
「夢だったらよかったのに……」
枕元に置いてあるスマホを確認したが、やはり電源はつかない。
小春は身体を起こし、辺りを見回した。
昨夜と何一つ変わらない部屋が、昨日の出来事が嘘ではなかったことを否応なく突きつけてくる。
「……はぁ」
深いため息をついた、その時だった。
「小春様、お目覚めでしょうか」
襖の向こうから松の声がした。
「はい」
「朝餉の準備をしてもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「失礼いたします」
松が襖を開けると、その後ろから数人の女官が膳を運び入れてきた。
「……すご」
焼き魚に、炊きたての白米。色鮮やかな野菜の小鉢。その中には、小春の好物であるだし巻き玉子まである。
「いただきます」
小春は手を合わせて、箸を手に取った。
真っ先にだし巻き玉子を口に運ぶ。
「……おいしい」
ふんわりとした玉子から、優しい出汁の味が口いっぱいに広がった。
満足げに食事をしていると、松は安心したように微笑んだ。
「お口に合いましたか?」
「はい、とっても」
「それは、ようございました」
そして、小春は食事を摂りながらふと白嶺のことを思い出した。
「そういえば、白嶺様は……」
「昨夜、子の刻にお戻りになりました」
「……子の刻」
小春はピンと来なかった。
「子の刻って何時ですか?」
松は首を傾げた。
「何時……でございますか?」
「はい。何時頃に帰ってきたのかなって」
「子の刻でございますが……」
「えっと、子の刻って朝? 昼? 夜?」
「夜でございます」
「じゃあ、夜中?」
「左様でございます。夜半の頃でございます」
「夜半……真夜中ってことかな──そんな遅い時間に帰ってきたんだ」
小春は一度箸を置いた。
「実は、白嶺様に言いたいことがあるんです」
「白嶺様に、でございますか?」
「はい。会えますか?」
「申し訳ございません。白嶺様は今朝早く宮を出られ、戻られるのは戌の刻──日が暮れてしばらくした頃でございます」
「戻ってくるの遅いんだ……」
小春は残念そうに呟き、再び箸を手に取った。
「お急ぎの御用でございますか?」
「……はい。私、どうしても現世に帰らなきゃいけないんです」
松の表情が僅かに曇った。
「だから、もう一度ちゃんと白嶺様と話したいって思ったんです……」
「そうでしたか……」
箸を手に取ったものの食事が進まず、小春はため息をついた。
「松さん」
「はい」
「この近くを散歩したいんですけど、いいですか?」
「散歩、でございますか?」
「はい。昨日は宮の中を見たので、今度は外を歩いてみたいなぁって」
「左様でございますか。宮の周辺でしたら構いませんが、お一人では危のうございます」
「危ないんですか?」
「宮を離れれば、物の怪など、人ならざるものもおりますゆえ」
「──漂魂みたいな?」
「いえ、それだけではございません」
「……ちなみに、どんなのがいるんですか?」
「──人にとてもよく似た、神を喰らう物の怪などがその一例でございましょう」
──じゃあ、ここに来るまで怯えられてたのって。
昨日、宮へ向かう道すがらに見た人々の顔が脳裏をよぎった。
小春を見て目を逸らす者。慌てて道を譲る者。幼い子どもを背に隠す者までいた。
「みんなが私を避けてたのって……」
「物の怪と間違われたのでしょう」
「……私が?」
「そのお召し物も着替えた方がよろしいかと」
小春は自分の服を見下ろした。
「……変、ですか?」
「……少々、目立ちます──ですので、こちらを」




