二話 神域 (2)
「行きましょう」
「あっあの……」
「なんでしょうか」
「白嶺って何者なんですか? なんか偉そうな人には見えるんですけど……」
「白嶺"様"とお呼びください」
「……白嶺様は、何者なんですか?」
「何も知らずに、この大地に立ってらっしゃるのですか?」
小春が頷くと、兵士は深くため息をついた。
「この神域は、四国一山より成り立っています。その一つ、瑞穂国──この地を治めておられるのが白嶺様です」
「国……? ここってそんなに広いんですか?」
兵士は怪訝そうに眉を寄せた。
「……あなたは一体どこから来られたのです」
「どこって……えっと、日本から」
「日本とは、現世からこられたのですか?」
「そう、その"うつしよ"ってところから来ました」
それを聞くと兵士は、不思議そうな顔をして小春を見た。
「ここは神聖な場所。本来、人間が立ち入ってよいところではありません」
「でも、私来れちゃったんですけど……あと、帰りたいんですが」
「あぁ、それは無理です」
「む、無理!?」
「ええ、現世とこちらの境界が今とても不安定ですので」
「じ、じゃあ、その境界が安定したら帰れるんですよね?」
「おそらくは」
「いつですか?」
「わかりません」
「一日後? 三日後? 一週間後?」
「ですから、わかりませんって」
「……そんなぁ」
ふと、小春は何かを思い出したようにバッグからスマホを取りだした。
「そうだ、連絡っ!」
電源ボタンを押したがスマホは反応しなかった。
「えっ、えっ、えっ!?」
何度も電源ボタンを押したが、スマホは全くと言っていいほど反応しなかった。
「うそ、壊れた!? 先週、機種変したばかりなのに!──ってか、朝陽たち待ってるのに!」
「それはなんです?」
「スマホ! なんかこう電話したり、メッセージ送ったりする……あぁもう、そんなことはどうでも良くて!」
「すまほ……」
小春は何度もスマホの電源を押したが、やはり画面は真っ暗なままだった。
「朝陽と侑士、心配してるだろうな……」
ふと、今朝のことを思い出した。
『今日は寿司だからな』
『絶対、帰ってくるから!』
「お父さん、お母さん……」
先ほどまでの勢いが嘘のように、小春の声が小さくなる。小春はその場に蹲り、鼻を啜った。
「こっちから連絡する方法ってないんですか?」
小春は涙ぐむ声で兵士に聞いた。
「私の知る限り、声を届ける方法はありません」
その時、小春は思い出した。現世で白嶺の声が聞こえていたことを。
「わ、私、聞こえたんです。現世で白嶺さんの声を……白嶺さんだったら何か知ってるんじゃ……!」
兵士の表情が変わった。
「……今なんと?」
「だから、白嶺……じゃなかった。白嶺様の声が現世で聞こえたんです。ここに来る前に」
「そのような事は有り得ません」
「でも、聞こえて。声を辿っていたらここに来てたんです!」
「現世と神域は隔てられています。ましてや、現世に声を届ける方法など──」
兵士はそこで言葉を止めた。
「……あなたは、本当に人間なのですか?」
「えっ……?」
小春は涙を拭いながら、兵士を見上げた。
「何を言って……どこからどう見ても人間ですよ」
兵士は何も言わず、小春をじっと見つめた。
「……なんですか、その目」
「いえ、あなたの言うことが真実なら不可解なことが多過ぎるのです」
「不可解?」
「人間でありながら神域に足を踏み入れたこと。そして、現世にいながら白嶺様の声を聞いたこと」
「それは……」
「どちらも本来ならば有り得ません」
小春は言葉を失った。
「じゃあ、どうして私はここに?」
「それは、私にもわかりかねます──ですが、白嶺様なら何かご存知かもしれません」
「やっぱり、白嶺に──」
「白嶺"様"です」
「今そこ重要ですか?」
兵士は深くため息をついて小春を見た。
「では行きましょう」
「行きましょうってどこへ?」
「あなたをそのまま置いていっては、私が白嶺様からお叱りを受けてしまいます。ですので、白嶺様の宮にお連れするのです」
「……わ、わかりました」
兵士が背を向けて歩き出すと、小春も慌ててその後を追った。
「あ、そういえば」
「帰りたい。は、ごめんですよ」
「違いますって──あなたの名前聞いてなかったなって」
兵士は歩みを止めて小春を見た。
「名乗るほどの者ではございません」
「ええぇ……」
「なんです、その反応は」
「だって、これからしばらくお世話になるかもしれないのに、ずっと『兵士さん』って呼ぶわけにもいかないじゃないですか」
「兵士で構いません」
「私が構います!──名前くらい教えてくださいよ」
兵士はしばらく黙っていたが、やがて観念したように小さく息をついた。
「……彪基です」
「ひゅうき?」
小春は何度か確かめるように、その名を口の中で転がした。
「彪基さん。よろしくお願いします」
「……好きにお呼びください」
「白嶺様はちゃんと“様”付けろって言うのに、自分は適当なんですね」
「白嶺様と私を一緒にしないでください」
「はい」
「……本当に分かってますか?」
「分かってます、彪基さん」
二人はしばらく歩いた。やがて木々が途切れ、道が開けた。
「わぁ……」
小春は思わず声を漏らした。
眼下には、青々とした水田がどこまでも広がっていた。その間を縫うように細い水路が走り、ところどころに立つ桜の木が、淡い花を咲かせている。
その向こうには瓦屋根の家々が軒を連ね、さらに遠くには霞んだ山々が連なっていた。
「……なんか、懐かしい」
初めて見る景色のはずなのに、不思議とそう思った。
歩いていると、水路の中で何やら淡く光るものが動いている。小春は足を止めると、興味津々に水路を覗き込んだ。
「あっ、お魚! 光ってる!」
「何も不思議なことではありません」
「そうなの?」
「ええ。瑞穂ではどこにでもいます」
「へぇー……」
小春がしゃがみ込むと、魚たちは逃げるどころか、彼女の指先へ吸い寄せられるように集まってきた。
「わっ、いっぱい来た! かわいいなぁ」
楽しそうに笑う小春の隣で、彪基は怪訝そうに眉を寄せた。
「……おかしい」
「え?」
「いえ。なんでもありません」
「絶対なんかありましたよね?」
その時、小春の目に、ひときわ巨大な山が映った。
周囲の山々を従えるように聳え立ち、山腹には白い雲が幾重にもたなびいている。その頂は雲を突き抜け、ここからでは見ることすらできない。
「……すごい」
小春は思わず立ち止まり、その山を見上げた。
「あの山、なんていうんですか?」
「神胤嶺です」
「しんいんれい……」
「四国一山の中心に座す、この神域で最も古い霊山です」
「一番上、見えないですね」
「ええ。神胤嶺の頂を目にした者は、ほとんどおりません」
「彪基さんも?」
「もちろんです」
「白嶺様は?」
「……さぁ、行きますよ」
「あれ、そこは答えてくれないんだ」
初めて見るはずの山なのに、小春はその姿から目を離すことができなかった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
──懐かしい。
そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。
「……私、あの山……」
「どうしましたか?」
小春は首を横に振った。
「ううん。なんでもない」
そう答えて、小春は再び歩き出した。
どうしてあんな気持ちになったのか、自分でもわからない。
それでも小春は、何度も振り返っては、遠ざかっていく神胤嶺を見つめていた。
しばらく歩いていると、辺りが少しずつ賑やかになってきた。どうやら市場らしい。
道の両脇には野菜や果物、見たことのない品々が並び、威勢のいい声が飛び交っている。
しかし、小春が足を踏み入れた途端、様子が変わった。
一人、また一人と話すのをやめ、小春へ視線を向ける。
先ほどまで聞こえていた呼び込みの声も、いつの間にか消えていた。
小春は辺りを見回した。皆、怯えたような表情でこちらを見ている。中には幼い子どもを自分の後ろへ隠す者までいた。
「あの……彪基さん」
「なんでしょう」
「私、めちゃくちゃ見られてません?」
「見られていますね」
「なんで!?」
「人間だからでしょう」
「人間ってそんな珍しいんですか?」
「珍しいどころではありません。ここにいること自体、有り得ないのです」
小春は改めて周囲を見回した。
「なんか私、珍獣みたいになってません?」
「珍獣の方がまだ見慣れています」
「ひどい!」
歩き進めていると、一人の子どもが鞠を追いかけて飛び出してきた。
「あっ!」
小春は咄嗟に手を伸ばし、転びかけた子どもの身体を抱き止めた。
「危ない!」
腕の中を見ると、まだ五、六歳ほどの小さな女の子だった。
「大丈夫? 怪我してない?」
女の子は答えず、目を丸くして小春を見つめている。
「こ、こら!」
人混みから母親らしき女性が駆け寄ってきた。
女性は小春を見るなり一瞬足を止めたが、すぐに女の子を抱き寄せた。
「申し訳ありません! 彪基様!」
「これからは気をつけなさい」
小春は、転がってきた鞠を拾った。
「はい」
女の子は母親の陰に隠れながら、小春の差し出した鞠をじっと見つめている。
やがて、おそるおそる小さな手を伸ばした。
「……ありがとう」
「うん。今度は飛び出しちゃ駄目だよ」
小春が笑いかけると、女の子もほんの少しだけ笑った。
母親は小さく頭を下げると、女の子の手を引いて人混みの中へ戻っていった。
その途中、女の子が一度だけ振り返る。
小春が小さく手を振ると、女の子も母親に隠れるようにしながら手を振り返した。
「そういえば……」
「なんでしょう」
「さっき、彪基“様”って呼ばれてましたよね?」
「……それが何か?」
「彪基さんって、もしかして偉い人?」
「小春殿が知る必要のないことです」




