十二話 旅立ちと天翔車 (3)
「いくらですか?」
彪基が懐から銭の入った巾着を取り出すと、男は申し訳なさそうな顔をした。
「それが……一人、二百五十銭なんだよ」
「二百五十銭! 以前は百五十銭で渡れたはずですが……」
「ああ。それがな……」
男は困ったように頭を掻いた。
「水鏡国で、疫病が流行ってるみたいでな」
「疫病……?」
小春の表情から、ふっと笑みが消えた。
「俺も詳しいことまでは知らねぇんだ。ただ、向こうじゃ病に倒れる者が増えてるらしい。それで水鏡国へ向かう商人も旅人も、めっきり減っちまった」
男は並んでいる天翔車へ目をやった。
「当然、便の数も減った。荷も人も集まらねぇから、以前の値段じゃ飛ばせなくなってな」
「そうだったのですか……」
彪基は巾着を握ったまま、わずかに眉を寄せた。
「疫病って……どんな病気なんですか?」
「さあ、そこまでは。ただ――」
男は少し言い淀んだ。
「どうも、普通の病とは違うって噂もある」
「普通の病と……違う?」
「ああ。まあ、旅人から聞いただけの話だ。あんたらも向こうへ行くなら、気をつけた方がいい」
小春は大渓谷の向こうへ目を向けた。
霞の彼方にある、水鏡国。
つい先ほどまで、まだ見ぬ国への期待でいっぱいだった胸の奥に、冷たいものがひとつ落ちた。
「ところで、あんたら身分証は持ってるか?」
男が思い出したように尋ねた。
「身分証?」
「ああ。不審な輩を他国へ通すわけにはいかねぇからな。天翔車に乗るなら必要なんだ」
「身分証なんて、私……」
持っていない。
そもそも、この世界にそんなものがあることすら知らなかった。
困って彪基を見ると、彼は何も言わず懐へ手を入れた。
「小春殿、こちらを」
「え?」
差し出されたのは、手のひらに収まるほどの木製の札だった。
小春はそれを受け取り、まじまじと眺める。
滑らかに磨かれた木の表面には、小春の名と見慣れない文字が刻まれていた。
「これ……私の?」
「ええ。出立に際し、白嶺様が用意されたものです」
「白嶺様が……」
札を裏返す。
そこには、白い龍を象った紋が刻まれていた。
「瑞穂国が身元を保証する証です。それがあれば、他国でも身元を疑われることはないでしょう」
「いつの間に……」
身体に気をつけろ。
無茶をするな。
知らぬ者について行くな。
出立の前、あれこれ心配していた白嶺の姿が脳裏に浮かぶ。
こんなところまで、きちんと準備してくれていたらしい。
「……ありがとうございます、白嶺様」
小春は小さく呟いて、木札を大切に握った。
「どれ、見せてくれ」
男に木札を差し出す。
受け取った男は刻まれた文字を確認し――裏面を見たところで、ぴたりと動きを止めた。
「……ん?」
もう一度、白龍の紋を見る。
それから小春を見る。
「……これ、瑞穂国主の印じゃねぇか」
「はい?」
「あんた、一体何者なんだ?」
「えっ」
小春は答えに困り、彪基を見る。
「……小春殿は、白嶺様の客人です」
「国主様の客人!?」
「そんなにすごいものなんですか、これ!?」
「知らずに持ってたのかよ!」
「今もらったんです!」
「なんで本人が一番分かってねぇんだ!」
「私だって分かりませんよ!」
彪基が料金を払うと、三人は天翔車に乗り込んだ。
中は思っていたよりも広く、向かい合わせに木製の長椅子が据えられていた。窓は大きく取られており、そこから翼を休める天馬の姿が見える。
小春は窓際に腰を下ろした。
煤丸は当然のようにその隣へ飛び乗り、前脚を窓枠にかける。
「おお! よく見えるぞ!」
「煤丸、落ち着いて。まだ飛んでもないから」
「だから今のうちに見てんだよ!」
「飛んでから見ればいいじゃん」
「それも見る!」
「全部見るんだ……」
向かいに腰掛けた彪基が、二人のやり取りを見て小さく笑った。
ほどなくして、他の旅人たちも乗り込んでくる。
商人らしき男。大きな荷を抱えた旅人。親子連れ。
やがて扉が閉じられた。
外から御者の声が聞こえる。
「──出ますよ!」
小春は思わず背筋を伸ばした。
「……いよいよですね」
「ええ」
からん、と鈴が鳴った。
四頭の天馬がゆっくりと歩き始める。
ごとり、ごとり。
最初は、普通の馬車と何も変わらなかった。
けれど、次第に蹄の音が速くなる。
窓の外を流れていく景色も、どんどん速くなっていった。
「えっ、ちょっと……」
前方で、四頭の天馬が大きく翼を広げた。
ばさり、と。
風を叩く重い音が響く。
そして――。
ふっと、身体が浮いた。
「……え?」
それまで聞こえていた蹄の音が消えた。
車輪が地面を転がる音もない。
代わりに聞こえてきたのは、風の音だけ。
小春は恐る恐る窓の外を覗き込んだ。
「──っ!?」
地面がない。
遥か下にあるのは、白い雲。
その向こうには、どこまでも続く大渓谷が広がっていた。
「飛んでる……!」
怖い。
なのに、それ以上に──。
「すごい……!」
目が離せなかった。
「小春! 見ろよ!」
隣では煤丸が窓に張りついて、尻尾をぶんぶんと振っている。
「雲が下にあるぞ!」
「見えてる! っていうか煤丸、危ないから!」
「大丈夫だって! 落ちなきゃいいんだろ?」
「またそれ!?」
こうして、三人は水鏡国へ向かった。




