十二話 旅立ちと天翔車 (2)
そんな煤丸に苦笑しながら、小春は再び窓の外へ目を向けた。
馬車は一定の速さで街道を進んでいく。
瑞穂の都を出たばかりの頃には、道の両脇を淡い桜色が彩っていた。けれど、進むにつれてその数は少しずつ減り、代わりに背の低い草木や、風雨に削られた岩肌が目につくようになっていた。
窓から吹き込む風も、先ほどより強い。
小春の髪がさらりと頬を撫でた。
「……なんだか、景色が変わってきましたね」
「大渓谷が近い証でしょう」
彪基が窓の向こうへ視線を向ける。
小春もつられるように、その先を見た。
遠くに連なっていた山々が、いつの間にか途切れている。
いや──山だけではない。
その先には、あるはずの大地がなかった。
「……え?」
小春は窓辺へ身を寄せた。
馬車が進むほどに、その異様な光景がはっきりとしてくる。
大地が、裂けていた。
どこまでも続く巨大な亀裂。
切り立った岩壁は遥か下方まで落ち込み、その途中には白い雲が幾重にも漂っている。
谷底は──見えない。
「なに……これ」
小春は言葉を失った。
聞いてはいた。
四つの国を隔てる、大渓谷。
けれど、頭の中で思い描いていたものとはあまりにも違う。
「……これ、落ちたらどうなるんですか?」
「さあな!」
足元から煤丸の元気な声が返ってきた。
「……聞く相手を間違えた」
「なんでだよ!」
煤丸が不満そうに頬を膨らませる。
その様子がおかしくて、小春はくすりと笑った。
先ほどまで胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ軽くなる。
馬車はそのまま街道を進み、大渓谷へと近づいていった。
やがて前方に、大きな建物が見えてくる。
切り立った崖から少し離れた場所に、いくつもの長い屋根が並んでいた。その周囲では旅人たちが行き交い、荷を積んだ馬車が次々と出入りしている。
そして、そのさらに奥──。
小春は目を見開いた。
大きな白い翼を持つ馬がいた。
一頭ではない。
二頭、三頭と、見慣れた馬よりひと回り大きな天馬たちが並び、翼を休めている。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
陽の光を受けた翼は、真珠のような光沢を帯びていた。時折大きく翼を広げるたび、ふわりと風が巻き起こり、周囲の草を揺らしていく。
「あれが天馬……?」
「ええ。そして、あちらが天翔車です」
彪基が示した先を見る。
二頭の天馬の後ろに、頑丈そうな馬車が繋がれていた。
普通の馬車とよく似ている。
けれど――あれが空を飛ぶのだ。
「……本当に、あれで大渓谷を?」
「渡ります」
小春はもう一度、遥か下まで続く大渓谷を見た。
それから天翔車を見る。
「怖くなりましたか?」
「……ちょっとどころじゃなくなってきました」
すると煤丸が、小春の足元からひょこりと顔を出した。
「大丈夫だって! 落ちなきゃ──」
「それはもう聞いた」
「なんでだよ!」
やがて馬車が天翔車乗り場へ着くと、彪基は先に降り、翼を休めている天馬の世話をしている男へ声をかけた。
「すまない。水鏡国へ向かいたいのだが」
「水鏡国ですね」
男は手を止めると、並んでいる天翔車へ目を向けた。
「次の便でしたら、もう間もなく出ますよ」
「二人と一匹だ」
「ん? 一匹っておいらのことか!? 彪基!」
すかさず煤丸が声を上げる。
男は足元の煤丸を見下ろし、目を丸くした。
「……鼬?」
「煤丸だ!」
「ああ、すまんすまん」
男は笑いながら頭を掻いた。
「そいつくらいなら、そのまま乗せても構わないよ」
「そいつじゃねぇ! 煤丸だって言ってんだろ!」
「はいはい、煤丸な」
すっかり子ども扱いされ、煤丸はむっと頬を膨らませた。
小春は思わず笑いそうになるのを堪えながら、天馬を見上げる。
間近で見ると、想像していたよりずっと大きい。
白い翼は折り畳まれていても存在感があり、羽の一枚一枚が陽の光を受けて淡く輝いていた。
天馬がふいに鼻を鳴らす。
「わっ」
小春が一歩退くと、男が笑った。
「大丈夫。大人しい子たちですよ」
「触ってもいいですか?」
「もちろん」
小春は恐る恐る手を伸ばした。
天馬は逃げることもなく、その手のひらへ自ら鼻先を寄せてくる。
「……あったかい」
柔らかな毛並みの下から、生き物の温もりが伝わってきた。




