一話 おかえり (3)
「ちょ、小春!」
朝陽の声が背中から聞こえる。
「すぐ戻る!」
そう返しながら、猫を見失わないよう路地へ飛び込む。
三毛猫は立ち止まることなく、小春との距離を保ちながら歩き続ける。
角を一つ曲がり、また一つ。
見慣れたはずの住宅街はいつの間にか静まり返り、人の気配が消えていた。
風が吹き抜けるたび、木々の葉がさらさらと揺れる。
「待って……!」
猫は一度だけ振り返る。
青い瞳が「もう少し」と語りかけるように細められ、再び歩き出した。
やがて視界が開け、小さな石段が姿を現す。
その先には、苔むした古い鳥居が静かに佇んでいた。
小春は息を整えながら石段の下で立ち止まる。
「……こんな神社、あったっけ?」
見覚えがあるようで、ない。
それなのに胸の奥では、懐かしさが静かに波紋を広げていた。
三毛猫は鳥居の前で座り、小春を待つようにこちらを見つめている。
『おかえり、小春』
今度の声は、はっきりと鳥居の向こうから聞こえた。
小春は息を飲んで、鳥居まで続く石段をゆっくり登り始めた。
一段、また一段と踏みしめるごとに、街の喧騒から遠ざかっていく。車の走る音も、人の話し声も、いつの間にか風に解けるように消えていた。
代わりに耳に届くのは、小川のせせらぎや木々が揺れる音。
鳥居の前まで来ると、三毛猫は振り返り小春をじっと見つめた。
「あなた、私をここに連れてきたの?」
猫は答える代わりに「にゃあ」と小さく鳴いた。
その声に押されるように、小春はゆっくりと鳥居に手を伸ばした。
ところどころ朱塗りが剥がれている柱に触れた瞬間、ふわりと柔らかな風が頬を撫でた。
懐かしい匂いだった。雨に濡れた土の匂いと、若葉、それからどこか甘い花の香り。
「なんだろう、この匂い……」
知らないはずなのに、ずっと昔から知っているような。
その懐かしさに導かれるまま、小春は一歩、鳥居をくぐった。
世界が静まり返る。
風が止み、木々のざわめきでさえ遠のいていく。まるで時間だけが、その場から切り離されたようだった。
その時──
「おかえり、小春」
透き通るような優しい声が、すぐ近くから聞こえた。
小春は弾かれたように顔を上げた。
石段の上。──陽の光を背に受け、一人の青年が静かに佇んでいた。
雪のように白い長髪が風に揺れ、金色の瞳が穏やかに小春を見つめている。
その隣で三毛猫は、満足そうにしっぽを揺らしていた。
「誰……?」
思わずこぼれた問いに、青年は柔らかく微笑んだ。
「やっと会えた」
その笑顔を見た瞬間、小春の中で何かが熱く脈打った。
初めて会うはずなのに──どうしてこんなにも、懐かしいのだろう。
「どこかで会ったことありますか……?」
青年は少し目を細めた。
「覚えていない……か」
「えっ……?」
「それでもいい、こうして会えた」
小春は困惑したまま首を傾げた。
「あの、あなたは……」
青年は答えず、小春の横を通り過ぎた。
「一緒に行こう」
「えっ、いや。あのっ……!」
青年は足を止めることなく、穏やかな足取りで石畳の先へ進んでいく。
三毛猫もそのあとをついていき、時折、振り返っては小春の様子を窺っていた。
「待ってください!」
小春は思わず、青年を追いかけた。追いつくと青年は、静かに微笑んだ。
「ここはどこなんですか? あなたは誰なんですか?」
矢継ぎ早に問いかける小春に、青年は少しだけ空を見上げた。
「ここがどこなのかは、歩きながら話そう」
それだけ告げると、再び歩き始める。
小春は躊躇いながらも、その背中を見失わないように後を追った。
不思議と怖くはなかった。
小春は足を止めて、息を飲んだ。
石畳を抜けた先には、現実では見たことのない美しい景色が広がっていた。
澄み切った川が陽の光を受けてきらめき、そのほとりには色とりどりの花々が咲き誇っている。
風が吹くたび、木々の葉が優しく揺れ、どこからともなく鈴の音のような澄んだ音色が響いた。
空はどこまでも青く、高くそびえる御神木がこの地を見守るように枝を広げている。
「……きれい」
思わず漏れた言葉に、青年は静かに頷いた。
「ここは、神域と呼ばれる場所」
「神域……?」
「人の世と重なりながらも、決して同じではない世界だ」
小春は目を見開いた。
こんな場所が、本当に存在するなんて。夢でも見ているのだろうか。
そう思って頬をつねろうとした、その時。
「夢ではないよ」
まるで心を読まれたように青年が言う。
小春は驚いて顔を上げた。
「君は、帰ってきたんだ」




