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一話 おかえり (2)

 九時少し前、小春はバッグとスマホを持って玄関に向かった。

 すると父と母も玄関まで見送りに来てくれた。


「いってきます」

「いってらっしゃい、気を付けてね」

「今日は寿司だからな。いってらっしゃい」


 父は笑いながらそう言った。


「絶対、帰ってくるから!」


 小春は二人に手を振ると、軽やかな足取りで玄関の扉を開けた。

 雨上がりの空気が、頬を優しく撫でる。


「あっ、ミケちゃん!」


 小春は、自宅の塀の上を悠々と歩いている三毛猫を見つけると嬉しそうにそっと手を伸ばした。


「シャー!」


 鋭い威嚇の声に、小春はピタリと手を止めた。


「やっぱダメかぁ……今日こそ仲良くなれると思ったのになぁ」


 肩を落とす小春をよそに、三毛猫は塀の向こうへ姿を消していった。


「……あ、のんびりしてる場合じゃなかった」


 小春はスマホを取り出して時間を確認する。待ち合わせまでは、まだ少し余裕がある。

 バッグを肩に掛け直すと、小春は駅へ向かって歩き出した。

 昨夜まで降っていた雨はすっかり上がり、濡れたアスファルトが朝の光を反射してきらきらと輝いている。

 駅前が見えてくると、人通りも次第に増えてきた。

 行き交う人々の間を縫うように歩いていると、遠くから聞き慣れた声が飛んでくる。


「小春ー!」

「……朝陽?」


 声のする方を見ると、朝陽がこちらへ向かって大きく手を振っていた。

 弾むような明るい声に、小春は思わず笑みをこぼす。


「朝陽、おはよう」

「おはよう! 今日は珍しく私の方が早かった!」

「いつも、私か侑士が先だもんね」

「うん! 今日は聞いて欲しい話があって」

「え、なになに?宝くじでも当たっちゃったとか!」


 朝陽はいたずらっぽく笑って人差し指を唇に当てた。


「それはひ・み・つ」


 小春は頬をふくらませた。


「えー!知りたい知りたい知りたいー!」

「いつもの喫茶店で話すからさ、小春の好きなプリンアラモードも奢る!」

「えー!本当に!?」

「ほんと、ほんと」

「じゃあ、ぜっっったい聞く!」

「何を聞くんだ?」


 突然現れた低く通る声に二人は振り向いた。


「おはよう、侑士!」

「おはよう、二人とも。待たせて悪いな」

「ううん、私たちも今来たところだから」

「ほんと、ほんと。小春を今焦らしてたところだから」

「朝陽、まだ言ってなかったのか」


 朝陽は慌てた。


「もー!侑士は黙ってて!」

「悪い悪い──ほら、行こう」


 侑士がそう言うと、三人はいつもの喫茶店に向かって歩き出した。

 雨上がりの街は、まだ少し湿った空気に包まれ、歩道には小さな水たまりができていた。

 他愛もないことを話しながら歩く、何気ないこの時間が、小春はとても好きだった。

 朝陽はどこか落ち着かない様子で、何度もバッグの中を確かめていた。確認する度に、

 それでも、小春と侑士は他愛もない話で笑いあっていた。

 

 

 喫茶店までの道のりを歩いていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。


「にゃあ──」


 小春は辺りを見回した。石垣の陰か、それとも屋根の上か。姿は見えない。


「猫ちゃん?」

「え? 小春どうしたの?」


 そう呟きながらも、朝陽と侑士との会話は続いていく。

 その時だった。


『──小春』


 耳元で、誰かが優しく名前を呼んだ。


「えっ?」


 思わず足を止めて振り返る。しかし、そこには朝陽と侑士が不思議そうな顔で立っているだけだった。


「どうした?」

「……今、誰か呼ばなかった?」


 二人は顔を見合わせ、同時に首を横に振る。


「いや、何も言ってないけど」


 小春はもう一度周囲を見回した。

 風が木々を揺らし、遠くで猫がもう一度鳴く。しかし、さっき確かに聞こえた声は、それとは違う。懐かしくて、胸の奥が少しだけ温かくなるような、不思議な声だった。


『小春、こっちだ』


 今度は、交差点の喫茶店とは真逆の方向から呼ばれる。

 その声は風に乗って届くように優しく、それでいて不思議なほどはっきりと耳に残った。


「……また」


 小春は思わず立ち止まり、声のした方へ目を向ける。

 細い路地の先。木漏れ日に照らされた石畳の向こうへと続く道。

 そこには誰の姿もない。

 なのに、胸の奥では「行かなきゃ」と何かが囁いている。


「小春?」


 朝陽が不思議そうに声をかける。


「どうした? 店、こっちだぞ」


 侑士が交差点の向こうを指差した。


「あ……うん」


 返事はしたものの、小春の視線は路地から離れない。

 まるで、その先に大切な何かを置き忘れてきたかのように。

 その瞬間、先程見た三毛猫が路地の奥からひょっこりと姿を現した。

 青の瞳が、小春をまっすぐ見つめる。

 そして一度だけ鳴くと、振り返り、小春を誘うようにゆっくりと歩き始めた。


「ごめん、ちょっと先行ってて!」


 誘われるように、小春は小走りで猫の後を追った。



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