一話 おかえり (1)
真っ暗な闇の中、雨音だけが静かに響いていた。その音はどこか穏やかで、胸の奥の不安をゆっくりと撫でるようだった。
そして、ここは不思議と怖さを感じない。どうしてだろう。と考えていると重く大きな扉が開く音が聞こえた。
規則正しい足音がゆっくりと近づいてくる。やがて、その音はすぐ近くで止まった。かと思えば、安堵のため息が聞こえる。
「あぁ、もうすぐ会える」
深みのある男の声に、不思議と懐かしさを覚える。顔も知らないはずなのに、その声だけはずっと昔から知っているような気がした。
「また、来るからな」
すると、足音が少しずつ遠ざかっていく。
──待って、あなたは……。
ジリリリリリ
少しずつ大きくなる電子音に、意識が引っ張られていく。
「……夢?」
薄ら瞼を開けると、 カーテンの隙間から煌めく光が差し込んできているのがわかった。
小春はゆっくりと身体を起こし、枕元にあるスマホを手に取り時間を見た。
──午前六時。
画面に映されているのは、時刻と二人の男女の写真──小春と彼氏である侑士が写っている写真だ。
小春は、スマホの画面を消して再び枕元に置くと、ベッドから降り、1階にある洗面所へと向かった。
洗面所には、先客がいた。母だ。
「おはよう。お母さん」
「おはよう。あら、今日は早いのね」
「うん、侑士と会う約束してるから」
すると、母はクスっと笑った。
「また、いつもの夢?」
「えっ……! どうしてわかったの?」
「いつも同じ顔するから。まったく、侑士くんがいるのにそんな夢みるなんてね」
洗面台を使い終えた母がキッチンに向かうと、小春はシンクにぬるま湯を溜め始めた。その音を聞いていると、昨夜見た夢を思い出す
。
『もうすぐ会える』
落ち着きがあり優しく、聞き覚えのある声だった。それを思い出そうとすると、頭に靄がかかったように輪郭がぼやけていく。
そう考えていると、シンクからぬるま湯が溢れそうになり、小春は慌てて蛇口を捻って顔を洗い始めた。
洗面と歯磨きを済ませると自室に戻り、小春はクローゼットから服を取り出し、姿見の前に立った。
寝間着を脱ぎ、姿見に背を向けて髪をかきあげると、肩甲骨の下に生まれた頃からある鱗状の痣が見えた。
「なんか、日に日に濃くなってる……?」
指先でそっと痣に触れてみた。痛みも痒みもない。病院で診てもらっても原因はわからないと言われている。
首を傾げながら服を着ると、小春は小さく息をついた。
──どうせ今日もいつもと変わらない1日だよ。
そう思いながら、部屋を後にした。
ダイニングキッチンでは、母が小春の好きなオムレツとウインナー、それにこんがりと焼けたトーストを並べて待っていた。
「ありがとう、お母さん。そういえば、お父さんは?」
「まだ寝てるわ。ゆうべ、急な仕事が入って書斎に篭もりっぱなしだったの」
小春は席に着くと、温かいトーストにバターを塗り始めた。じゅわっと溶けたバターの香りがふわりと広がる。
「ふぅん。思っていたけど、大変なんだね管理職って」
母は少し困ったような表情を浮かべながら、コーヒーを口に運んだ。
「責任がある仕事だからね──あなたもいずれそうなるのかしら?」
「まさかー」
すると、二階から扉の開く音がした。寝ぼけ眼の父が、あくびをしながら階段を下りてきた。
「おはよう、お父さん」
「おはよう。小春、今日はデートだったか?」
「ううん、侑士と朝陽と三人でお茶してくるの」
「そうか。母さん、コーヒーある?」
「あるわよ。ちょっと待っててね」
母はコーヒーメーカーにカップを置き、コーヒーを淹れ始めた。香ばしいコーヒーの香りが広がっていく。
小春はスマホを取り出し時間を確認した。画面には、六時五十九分と表示されていた。
父は母の隣、小春の向かいの椅子に腰掛け、テーブルに置かれた新聞を手に取った。
「何時に待ち合わせだ、小春」
「えっと、九時だったかな」
「終わったら、迎えに行くぞ」
「いいよ、子どもじゃないんだし。それにお父さん、今日仕事でしょ」
母は淹れたてのコーヒーを父の前に置いた。
「そういえば、今夜、飲み会があるって言ってたわね」
「ほら」
「飲み会ぐらい行かなくていいだろ。久々に、三人で食事でも行こう」
小春はぱっと顔を輝かせ、思わず身を乗り出した。
「私、お寿司がいい!」
そんな小春を見て、父は笑みを浮かべた。
「わかった、わかった。今日は寿司にしよう」
「あなた。この前もお寿司だったじゃない」
父は新聞を畳み、小さく肩をすくめた。
「良いだろ、小春が好きなんだから」
母は、呆れたように笑い、小さくため息をついた。




