十話 銭 (2)
そう思うと、店先で笑う人々も、行き交う荷車も、軒先から下がる見慣れない品々さえ、不思議と以前より身近に感じられた。
その時、小春の目に一軒の店が留まった。
人々が色とりどりの石を差し出し、代わりに小さな銭を受け取っている。
「……あれ?」
「小春殿、どうされました?」
「彪基さん、あそこって何のお店ですか?」
「あぁ、あれは両替所です。玉を銭に替える場所です」
「へぇー……。そういえば私、お金持ってない!」
すると彪基は懐から白色の巾着袋を取り出した。
「ご安心を。白嶺様から旅支度のお金は私が預かっております。また、旅をする際のお金も私が預かっておりますので」
彪基が巾着袋の口を開くと、じゃらりと硬質な音がした。
「これが……お金?」
「はい。銭です」
彪基から一枚受け取り、小春は手のひらに載せた。
銭の中央には小さな穴が開いている。その周囲には山と、四頭の龍が細かく刻まれていた。
「この山……神胤嶺?」
「ええ。四国で共通して使われている銭です。周囲の四龍は、それぞれの国を治める国主を表しています」
小春は銭を顔の近くまで持ち上げ、まじまじと眺めた。
「じゃあ、この白龍が白嶺様?」
「はい」
指先で銭をくるりと回す。
「こっちの黒龍は……」
「それは俺だ」
小春の手が止まった。
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと振り返る。
「……玄霄様?」
「なんだ」
「なんでいるんですか?」
「俺が市場にいて何がおかしい」
「ここ瑞穂国ですよね?」
すると、彪基は玄霄の前で片膝を折っていた。
「幽冥国国主、玄霄様。お目にかかれて光栄でございます」
「挨拶はいい、立て」
彪基が立ち上がると小春は二人を交互に見た。
「彪基さん、玄霄様に会ったことなかったんですか?」
「ございません。四国の国主に直接お目通りできる者など、そう多くはありませんので」
「そうなんだ……」
小春は改めて玄霄を見る。
長い黒髪に、銀色の瞳。
初めて会った時から尊大な男だとは思っていたが、こうして彪基の態度を見ると、ようやくその立場を実感する。
──玄霄様って、本当に偉い人なんだ。
「なんだ、その顔は」
「いえ……玄霄様って、ちゃんと国主なんだなって」
「……小春」
玄霄の眉間に皺が寄った。
「俺を何だと思っていた」
「玄霄様です」
「答えになっていない。──まあいい、挨拶代わりだ」
そう言うと、玄霄は小春に歩み寄った。
「えっ?」
何をするのかと思う間もなく、頬に柔らかな感触が触れる。
「……っ!?」
小春は反射的に頬を押さえた。
「な、何するんですか!」
「口付けだ」
「それは分かります!」
「俺の番になるのであれば、このくらいどうということはない」
「あります! というか、番にはなりません!」
隣では彪基が固まっていた。
「……彪基さん? 彪基さん?」
「はっ」
彪基は何度か呼ばれて、ようやく我に返った。
「どうしたんですか?」
「いえ……その……」
彪基は言葉に詰まった。
他国の国主が、主上の大切にしている少女の頬へ口付けをした。
果たしてこれは、止めるべきだったのだろうか。
いや、そもそも自分に止められる相手なのだろうか。
「……何でもございません」
──白嶺様には、どのように報告すればよいのだ。
そんな彪基の気も知らず、玄霄は小春の手の中にある銭を摘まみ上げた。
「小春、これが俺だ」
玄霄は銭に刻まれている黒龍を指さした。
「知ってます」
「俺は幽冥国の国主だ」
「それも知ってます」
「それなら──」
その時、玄霄は並々ならぬ神気を感じた。
銀色の瞳が、すっと細められる。
「……来たか」
「え?」
小春が首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや」
玄霄は人混みの向こうへ目を向けた。
彪基もつられて振り返るが、そこには行き交う人々の姿があるだけだった。
「玄霄様?」
「……面倒な奴が来た」
その直後だった。
「──玄霄様」
穏やかな男の声が、人混みの向こうから聞こえた。
玄霄の表情が僅かに曇る。
やがて人々の間を縫うように、一人の男が姿を現した。
墨色の衣を纏い、長い髪を端正に束ねた男だった。
口元には柔らかな笑みを浮かべている。
しかし、その身から漂う神気は、到底穏やかとは言い難い。
「ようやく見つけました」
「……清真」
「はい」
清真と呼ばれた男は、にこりと笑った。
「お迎えに上がりました、国主様」
「俺はまだ帰らん」
「そうでございますか」
「ああ」
「では──」
清真の笑顔は崩れない。
「幽冥国より、未決の政務をすべてこちらへ運ばせましょう。……こちらでお仕事をなさいますか?」
「……帰る」
「賢明なご判断にございます」
小春は目を丸くした。
「玄霄様が……負けた」
「負けてなどいない」
玄霄と清真は小春と彪基の横を通った。
「また来る」
そう言い残して、玄霄と清真は市場を後にした。




