八話 白胎殿 (2)
「まだ孵らんのか」
『急かすな』
「ふん──しかし、お前が瑞穂国の国主になるとはな」
『……遺言だ。仕方あるまい』
「近衛だった頃のお前は、国主など最も嫌いそうだったがな」
『今でも好んではいない』
「なら辞めればいい」
『そういうわけにはいかん』
「相変わらず堅物だな」
『放っておけ』
玄霄が桜色の卵へ手を伸ばした。その指先が触れようとした、その瞬間──。
白龍の長い尾が、するりと卵へ巻き付いた。
「……白嶺?」
幾重にも巻かれた白い尾の中へ、桜色の卵がすっぽりと隠れてしまう。
白嶺は何事もなかったかのように、玄霄を見つめていた。
『触るな』
「見るくらい構わんだろう」
『見ているだけならな』
「触れようとしただけだ」
『だから隠した』
「将来、俺の子を産むかもしれん」
『尚更、触れることは許さん』
──えっ。
小春は呆然と、その光景を見つめた。
──白嶺様ってこんな感じの人だったんだ。
白嶺の意外な一面に驚く一方で、玄霄は今と何ひとつ変わらないように見えた。
──玄霄様は、会った時と何も変わらない……。
小春はふと、松の言葉を思い出した。
──とても慈悲深いお方でございますよ。
確かに優しい人だとは思う。
それでも、現世には帰してくれない。
神喰に襲われ、滝壺に落ちた時も助けてくれた。
そして目の前では、玄霄に触れさせまいと、卵を護るようにその身を寄せている。
なのに、どうして──。
──どうして、私を帰してくれないの?
小春には、まだ分からなかった。
白嶺が何を知っていて、何を隠しているのか。
そして、なぜこれほどまでに卵を護ろうとするのか。
白嶺は来る日も来る日も龍の姿で、卵を護っていた。
朝も、夜も。
晴れの日も、雨の日も。
巨大な身体を幾重にも丸め、その中心に桜色の卵を抱くようにして。
『今日もいい天気だ』
雨が激しく滝を打つ日も、白嶺はそう言った。
『今日はしばらくお前の傍にいよう』
──あ……。
小春は息を呑んだ。
夢の中で何度も聞いた声。
どこか懐かしくて、ずっと忘れられなかった言葉。
あれは夢ではなかった。
それは、ある日のことだった。
いつものように白嶺は白胎殿へやって来た。
しかし、その日はどこか様子が違っていた。
龍の姿ではない。人の姿のまま、ゆっくりと卵の前まで歩いてくる。
いつもならすぐに龍の姿へ戻り、その長い身体で卵を包み込むというのに。
白嶺は台座の前に腰を下ろした。
何も言わない。
ただ、桜色の卵を見つめている。
──どうしたの……?
小春には、白嶺がひどく疲れているように見えた。
やがて白嶺は、そっと卵へ手を伸ばした。
大切なものに触れるように、その殻を優しく撫でる。
「……小春」
──え?
小春は目を見開いた。
「すまない。今日は、別れを言いに来た」
そう言うと、白嶺は卵をそっと抱き上げた。
その腕に抱いたまま、滝壺へと視線を向ける。
激しく水が打ちつけるその場所に、これまでなかった歪みが生じていた。
水面が捻じれるように揺らぎ、その向こうには見慣れた景色がぼんやりと浮かんでいる。
──あれは……?
そこには、龍神神社で祈りを捧げる一組の夫婦がいた。
「神様、どうか私たちに子を授けてください」
白嶺はしばらく黙って歪みを見つめていた。
やがて、腕の中の卵へ視線を落とす。
「ここに居ては、厄災がお前を飲み込んでしまう。だから……お前を、現世へ送る」
──現世……?
小春の胸が大きく脈打った。
白嶺は卵を胸元へ引き寄せ、そのまましばらく動かなかった。
「向こうなら、お前は生きられる」
自分に言い聞かせているような声だった。
「……いつか必ず、迎えに行く」
白嶺は卵へ額を寄せた。
「それまで、どうか──」
そこで言葉が途切れる。
やがて白嶺は顔を上げ、滝壺に生じた歪みへ歩き出した。
歪みの向こうでは、二人がまだ祈りを捧げている。
「神よ、どうか──」
白嶺は足を止めた。
腕の中の卵を、もう一度だけ見つめる。
「……この子を、頼む」
その声が届くはずもない。
それでも白嶺は、祈るように目を伏せた。
「愛してやってくれ」
そして──
桜色の卵を、歪みの中へそっと送り出した。
その姿が完全に消えるまで見届けると、白嶺は静かに背を向けた。




