七話 現世ノ水鏡 (3)
小春は二人の前へ歩み寄った。
差し出された現世ノ水鏡を見つめ、恐る恐る手を伸ばす。
そして、指先が鏡面に触れた──。
その瞬間、鏡面が水面のように揺らいだ。
「えっ……?」
映っていた小春の顔が消え、代わりに見慣れた部屋が浮かび上がる。
「……私の、部屋?」
そこでは母が、朝陽と侑士に小春のアルバムを見せていた。
『私たちね、なかなか子どもに恵まれなかったの』
「お母さん……?」
『病院にも通ったし、できることは何でもした。それでも授からなくて……最後は神頼みまでしたわ』
小春は目を見開いた。初めて聞く話だった。
『龍神神社よ』
「……え?」
小春の指先が、鏡面に触れたまま僅かに震えた。
「お、お母さん……私はここだよ!」
小春は鏡へ顔を近づけ、必死に呼びかけた。
「ここにいるよ! 私、生きてるよ! お母さん!」
けれど、母がこちらを見ることはない。
鏡の向こうでは、ただ静かにアルバムのページが捲られていく。
「……聞こえてないの?」
小春は縋るように白嶺を振り返った。
「白嶺様……どうして……」
「現世ノ水鏡は、現世を映すだけのものだ。こちらから声を届けることはできない」
「そんな……」
小春は再び鏡を見た。
『もちろん、小春は私たちの大切な娘よ。それだけは何があっても変わらない。でも……もしかしたら、あの子は十七年間だけ、神様が私たちのもとに預けてくださった子だったんじゃないかって……』
「違う……」
小春は小さく首を横に振った。
「違うよ、お母さん……」
鏡面に触れた手に、ぎゅっと力がこもる。
「私は、お父さんとお母さんの子だよ……」
しかし、その声は届かない。
『それで今度は、神様が小春を取り上げてしまったんじゃないかって……』
「取り上げられてなんかない……!」
小春の目から、涙が零れた。
「私、ここにいるよ……。帰りたいよ……」
白嶺は、ただその姿を見ていることしかできなかった。
その時だった。
小春の左腕に浮かぶ鱗の痣が、淡い光を帯びた。
──ピシッ。
「え……?」
現世ノ水鏡に、一筋の罅が入った。
その罅は瞬く間に鏡面を走り、全体へと広がっていく。
「なっ──」
白嶺が声を上げるより早く、現世ノ水鏡は大きな音を立てて砕け散った。
「小春!」
白嶺が手を伸ばす。
しかし、砕け散った欠片のひとつが光を反射し、小春の瞳へ吸い込まれるように消えた。
小春は咄嗟に目を押さえ、その場に蹲った。
「小春!」
白嶺が駆け寄り、小春の身体を抱き起こす。
「目を見せなさい」
「痛い……」
小春が恐る恐る瞼を開く。
その瞳を見た白嶺が、息を呑んだ。
「……これは」
「白嶺様……?」
小春の片方の瞳が、淡い銀色の光を帯びていた。
その奥では、水面に波紋が広がるように光が揺らめいている。
「水鏡が宿った」
「宿った」
右鏡と左鏡が、静かに告げた。
「……え?」
小春は何を言われたのか分からず、二人を見つめる。
「どういうこと……?」
しかし、右鏡と左鏡は答えなかった。
ただ、小春の瞳をじっと見つめている。
「小春」
白嶺が小春の頬へ手を添えた。
「痛みはあるか」
「……もう、ありません」
「見えるか?」
「はい……」
小春は何度か瞬きをした。
視界に異常はない。
──いや。
違う。
小春は目を見開いた。
「……白嶺様」
「どうした」
「向こうに……誰かいる」
小春が見つめていたのは、何もないはずの空間だった。
『私がそばに居る』
「……また、この声」
次の瞬間、小春の視界が揺らいだ。
白い光に包まれていた神殿が消えていく。
代わりに聞こえてきたのは、轟々と響く水の音だった。
「……滝?」
目の前に、一頭の巨大な白龍がいた。
長い身体を幾重にも丸め、その中心にある何かを守るように伏している。
小春は息を呑んだ。
桜色の、小さな卵だった。
『心配するな。私がそばに居る』
白龍が、卵へそっと顔を寄せる。
「……白嶺、様?」
その瞬間、景色は跡形もなく消えた。
「白嶺」
右鏡と左鏡が、声を揃えて呼んだ。
「小春を白胎殿に」
「白胎殿に」
白嶺は小春を見つめた。
その金色の瞳には、僅かな迷いが浮かんでいた。
「……白胎殿って?」
小春が尋ねても、白嶺はすぐには答えなかった。
やがて小さく息を吐く。
「先ほど、お前が気にしていた部屋だ」
「あの扉の……?」
「ああ」
小春の脳裏に、先ほど見た光景が蘇る。
巨大な白龍。その身体に守られるように置かれていた、桜色の卵。
「あそこに……あの卵があったんですか?」
白嶺の表情が僅かに強張った。
「……行こう」
それだけ告げると、白嶺は小春へ背を向けた。
「あなたは知らなければならない」
「知らなければならない」
「本当の自分を」
「本当の自分を」
右鏡と左鏡の声が、静かな神殿に重なって響いた。




