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七話 現世ノ水鏡 (2)

 小春と煤丸は朝餉を食べ終えると、松に案内されて書院の前まで来た。


「白嶺様、小春様がお見えです」

『……通せ』


 扉の向こうから、白嶺の声が聞こえた。

 その声を聞いた途端、小春は扉へ伸ばしかけた手を止める。


 ──そういえば、喧嘩したままだった。


「小春? 入らねぇのか?」

「……ちょっと待って」

「なんでだ?」

「心の準備してるの」

「なんの?」

「煤丸は黙ってて」


 小春は深く息を吸って、吐き出した。


「よし──失礼します」


 扉を開けると、白嶺は机に向かい、書簡に目を通していた。

 小春が入ってきたことに気づくと、白嶺は静かに顔を上げる。

 金色の瞳と目が合った。小春は思わず目を逸らした。


「……身体は、もうよいのか」

「はい。痛みもありません」

「そうか……」


 沈黙が流れる。重い空気の中、先に口を開いたのは白嶺だった。


「……現世に帰りたいと言っていたな」

「えっ、あっ、はい……」


 白嶺は椅子から立ち上がると、小春の傍に歩み寄った。そして、小春の肩に乗っている煤丸へ目をやった。


「煤丸と言ったな」

「は、はいっ」

「小春と二人で話がしたい。席を外してくれないか」

「はいっ」


 煤丸は小春の肩から降りると、開いていた窓から外に飛び出した。その姿が窓の向こうへ消える。

 部屋には、小春と白嶺だけが残された。

 先ほどまで煤丸がいた肩が、妙に軽く感じる。


「小春」

「は、はい」

「来なさい。見せたいものがある」


 書院から中庭に出ると、白嶺は庭の中央で足を止めた。


「白嶺様……?」


 小春が不思議そうに見つめる。

 白嶺は振り返り、静かに小春を見据えた。

 突然、突風が吹き荒れた。


「きゃっ……!」


 小春は思わず腕で顔を覆う。

 白嶺の身体が眩い金色の光に包まれ、その輪郭が大きく揺らいだ。

 光は次第に人の形を失い、天へ向かって巨大に膨れ上がっていく。

 風が止んだ。

 小春は恐る恐る腕を下ろす。


「……えっ」


 そこに白嶺の姿はなかった。

 代わりに、一頭の巨大な白龍が小春を見下ろしていた。


「大きい……」


 白嶺は地上に降り、頭を垂れた。


『小春、これから向かう場所は"禁域(きんいき)"と呼ばれている場所だ』

「禁域……?」

『本来、許しなく立ち入ることはできない』

「そんな場所に行っていいんですか?」

『既に許しは得ている──さぁ、私の背に』


 小春は恐る恐る白嶺の背に乗った。


「……ここでいいですか?」

『ああ。しっかり掴まっていなさい』

「ど、どこに掴まれば……」

『角でも構わない』

「角!?」

『落ちるよりはよいだろう』

「それはそうですけど……」


 白嶺はゆっくりと頭を上げた。次の瞬間、巨大な身体が地を離れる。


「きゃっ!」


 小春は咄嗟に白嶺へしがみついた。

 中庭がみるみる遠ざかっていく。やがて宮の屋根さえ眼下へ沈み、視界いっぱいに瑞穂国の景色が広がった。

 白嶺は、四国の中央に座す神胤嶺(しんいんれい)へと向かっていた。

 頂上へ近づくにつれて瑞穂国の景色は小さくなった。


 やがて雲を抜けると、神胤嶺の頂が姿を現した。

 その頂には、深い霧に包まれるようにして一つの神殿が佇んでいた。

 白木で組まれた柱に、黒々とした瓦屋根。軒先には古びた金の飾りが下がり、風に揺れるたび、澄んだ音を響かせていた。

 長い年月を経ていることは一目で分かる。それなのに柱には腐食ひとつなく、瓦にも欠けたところがない。

 古いのではない。

 まるで、時だけがこの場所を避けて通っているようだった。


「ここが……禁域?」

『ああ』


 白嶺は神殿の前へ静かに降り立った。

 小春がその背から降りると、白嶺の身体は金色の光に包まれて人の姿に戻った。

 小春は改めて、目の前にそびえる神殿を見上げた。

 静寂に包まれたその佇まいには、足を踏み入れることさえ躊躇わせるような厳かさがあった。


「さぁ、行こう」


 白嶺が歩き出す。

 小春もその後を追おうとして──ふと、胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。

 初めて訪れたはずの場所。それなのに、なぜか懐かしい。


「なんだろう、ここ……不思議な場所」


 遠くから、滝の音が聞こえる。


『今日はしばらくお前の傍にいよう』


「えっ……」


 優しい男の声が聞こえた。

 小春は慌てた様子で辺りを見回したが、いるのは白嶺と自分だけだった。


「どうした?」

「今……誰か、喋りませんでした?」

「誰か?」

「男の人の声が……」


 白嶺の表情が僅かに変わった。


「……何と言っていた」

「『今日はしばらくお前の傍にいよう』って……」


 白嶺はしばらく黙って小春を見つめていた。


「白嶺様?」

「いや……何でもない」


 白嶺は小春に背を向けた。


「行こう」


 白嶺が歩き出すと小春もその後に続いた。

 神殿の中へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が小春の頬を撫でた。

 長い回廊の両脇には太い柱が等間隔に並び、奥へ行くほど薄暗くなっていた。

 二人の足音だけが、静まり返った神殿に響いた。

 回廊を進んでいると、一枚の閉ざされた扉が目に入った。

 そして、その扉の向こうから──滝の音が聞こえていた。

 小春はなぜか、その扉から目を離せなかった。


『あぁ、もうすぐ会える』


 再び、あの優しい声が聞こえた。

 声は喜びを隠しきれないように、僅かに弾んでいた。


「……誰なの?」


 小春が扉へ手を伸ばす。

 しかし、指先が触れる寸前、滝の音も男の声も遠ざかっていった。


「……小春」


 背後から呼ばれ、小春はびくりと肩を揺らした。


「白嶺様……」

「そこには、まだ入ってはいけない」


 いつもと変わらない穏やかな声だった。

 しかし、その表情はどこか強張っている。


「この向こうには、何があるんですか?」

「……今はまだ、お前が知るべきものではない」

「でも、声が聞こえたんです」


 白嶺の金色の瞳が、僅かに揺れた。


「男の人の声でした。前にも聞いたことがあるような……」

「そうか」

「白嶺様は、この声を知ってるんですか?」


 白嶺は答えなかった。ただ小春と扉の間へ立ち、その視界を遮る。


右鏡(うきょう)左鏡(さきょう)が待っている。……行こう、小春」


 再び回廊を進んでいくと、やがて視界が開けた。

 そこは神殿の最奥にある、広い空間だった。

 その中央には、瓜二つの顔をした二人の少女が立っていた。

 二人はその間に、古びた一枚の銅鏡を大切そうに捧げ持っていた。


「小春、白嶺、よくぞ参られた」

「参られた」


 右の子に続いて、左の子が言った。


「右鏡、左鏡、今日は頼みがあって来た」


 白嶺がそう言うと二人は小春を見た。


「小春、現世が恋しいのだな」

「恋しいのだな」

「どうして、私の名前を……」

「知っている」

「知っている」


 二人は同時に小首を傾げた。


「我らは、ずっとお前を知っている」

「知っている」

「ずっと……?」


 小春は白嶺へ視線を向けた。

 しかし、白嶺は何も答えない。


「さぁ、現世ノ水鏡(うつしよのみずかがみ)に触れるのだ」

「触れるのだ」

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