七話 現世ノ水鏡 (1)
雨の音が聞こえる。打ち付けるような激しい雨。どこかで聞いたことのあるような音。
『今日もいい天気だ』
優しい男の声が聞こえた。
『今日はしばらくお前の傍にいよう』
小春は寝台の中で目を覚ました。薄ら目を開けると、見慣れない天井が見える。
身体を起こして見回す。白を基調とした落ち着いた部屋だった。
布団から出ようと足を僅かに動かすと、何か重みを感じた。
煤丸が身体を丸めて、すぅすぅと寝息を立てている。小春は優しく微笑んだ。
ふと、神喰に噛まれ、滝壺に落ちたことを思い出した。恐る恐る肩に触れるが痛みはない。
「痛くない……?」
すると、扉をコンコンと叩く音がした。
「はい」
『小春様、お目覚めでしょうか』
扉の向こうから松の声がした。
「はい、起きてます」
『朝餉の支度をしてもよろしいでしょうか』
「……お願いします」
『かしこまりました』
松の足音が遠ざかっていく。
小春はもう一度、自分の肩に手を当てた。
──確かに、噛まれたはずなのに。
あれほど鋭い牙が食い込んだというのに、痛みどころか傷すら残っていない。
「どうして……」
不思議に思いながらも、小春は足元の煤丸へ手を伸ばした。
「煤丸、起きて。朝ご飯だって」
「むにゃむにゃ……もう食べれねぇ……」
「……何の夢見てるの」
小春の表情はふっと緩んだ。
「煤丸、そろそろ起きて」
「んん……あとちょっと……」
「ご飯、なくなっちゃうよ?」
「起きる!」
煤丸は勢いよく身体を起こした。
「ふふっ、やっぱり食べるんじゃない」
小春は寝台から降りようとして、ふと動きを止めた。
左腕に、見覚えのないものがある。
「……え?」
袖を捲ると、そこには背中にあるものとよく似た鱗の痣が浮かんでいた。
「これ、背中のと同じ……」
指先でそっと触れてみる。痛みはない。しかし、昨日までは確かになかったはずだ。
「なんで……」
小春が戸惑っていると、煤丸が肩に乗ってきた。
「どうしたんだ、小春?」
「痣が増えてるの……背中にしかなかったのに」
「痣?」
煤丸は小春の左腕を覗き込んだ。
「これか?」
「うん。神喰に襲われるまではなかったと思うんだけど……」
小春は鱗の痣を指先でなぞった。
「神喰に噛まれたところも、痛くないし……傷もないの」
「ほんとか?」
煤丸は今度は小春の肩へ視線を向ける。
「おいら、小春が死んじまうかと思ったんだぞ」
「……ごめんね、煤丸」
「でも、小春……」
「なに?」
「……なんでもねぇ」
煤丸はそう言って、小春からふいっと顔を逸らした。
「なにそれ。気になるんだけど」
「なんでもねぇって!」
「絶対なんか知ってるでしょ」
「し、知らねぇ!」
明らかに動揺する煤丸を、小春は訝しげに見つめた。
コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
『失礼します』
松に続いて、女中たちが朝餉を部屋の中に運び入れた。
女中の一人が、小春の左腕へちらりと視線を向けた。
小春が首を傾げると、女中は慌てたように目を伏せた。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。何もございません」
今度は小春が松を見る。
松は何事もなかったように、淡々と膳を整えていた。
「あの、松さん」
「はい」
「私が滝壺に落ちたあと……何があったんですか?」
膳を整えていた松の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「白嶺様がお助けになりました」
「そうなんですね……」
小春は袖を捲り、左腕を見せた。
「この痣、神喰に襲われるまではなかったんです──煤丸も何か知ってるみたいだし……」
煤丸が小春の肩の上で、びくりと身体を震わせた。
「……白嶺様にお尋ねください」
「白嶺様に?」
「私どもの口から申し上げることはできません」
「白嶺様は今日いらっしゃいますか?」
「はい。書院にいらっしゃいます──さぁ、朝餉の用意ができました」
小春は膳に並べられた料理へ箸を伸ばしながらも、先ほどの松の言葉が頭から離れなかった。
──私どもの口から申し上げることはできません。
煤丸も何かを知っている。女中も、自分の左腕を見て明らかに動揺していた。
そして、松は白嶺に聞けと言った。
「……やっぱり、何かあったんだ」




