六話 神隠し (2)
「あら、朝ちゃん。侑士くんも」
いつもと変わらない小春の母の声だった。その声を聞いて、朝陽は少しだけ安堵した。
「おばさん、小春……帰ってきてる?」
「え?」
母の表情が変わった。
「今朝、朝ちゃんと侑士くんと遊んでくるって、家を出たきり帰ってきてないわ……」
「……おばさん」
「なに?」
「小春ね、途中で私たちと別れたの」
「え……?」
「猫を追いかけて、龍神神社の方に行って……それから戻ってこなくて」
朝陽は握っていた手を開いた。
「これ……神社に落ちてた」
掌の上には、小さなライオンのマスコットがあった。
「……小春の」
母の顔から、すっと血の気が引いた。
「私たち、境内も探した。でも……どこにもいなかった」
「電話は?」
「何度もかけた。でも、ずっと繋がらない」
母はしばらく何も言わなかった。
「……警察に連絡するわ。二人ともとりあえず上がってちょうだい」
二人は促されるまま、家へ上がった。
玄関には小春の靴が何足か並んでいる。
廊下の先からは、朝まで小春がいたはずの生活の気配が残っていた。
母はリビングへ入ると、すぐにスマートフォンを手に取った。
「……もしもし、警察ですか」
朝陽と侑士は、並んでソファに腰を下ろした。
テレビはついている。時計もいつも通り時を刻んでいる。何も変わっていない。
ただ、小春だけがいなかった。
それから一時間後、父は血相を変えて帰宅した。
「小春は!?」
玄関の扉が勢いよく開く。
「まだ見つかってないわ……」
「警察は?」
「さっき来てくださって、今、神社の周辺を捜してくれてる」
「そうか……」
父はそこで初めて、リビングにいる朝陽と侑士に気がついた。
「朝陽ちゃん、侑士くん」
「……おじさん」
「二人とも、小春と最後に会った時のことを聞かせてくれないか」
そこで二人は改めて、父に事の経緯を説明した。朝陽が涙声で話すのを父は静かに頷きながら聞いた。
「……ごめんなさい」
すべてを話し終えると、朝陽は俯いた。
「私、小春を一人で行かせちゃった……。あの時、私も一緒についていってたら……」
「朝陽ちゃん」
父は穏やかな声で、その言葉を遮った。
「君のせいじゃない」
「でも……!」
「小春が自分で猫を追いかけていったんだろう?」
朝陽は唇を噛み、こくりと頷いた。
「だったら、自分を責めなくていい」
「……おじさん」
「それよりも、二人とも小春を探してくれてありがとう──あとは、大人たちに任せて今日は帰りなさい」
「でも……!」
侑士が立ち上がった。
「俺も探します。小春がまだどこかにいるかもしれないのに、帰るなんて──」
「侑士くん」
父は静かに首を横に振った。
「君が小春を大切に思ってくれていることは分かってる」
「だったら……!」
「だからこそ、今日は帰りなさい。何か分かったら、必ず連絡するから」
侑士は拳を握りしめた。
その後、母は二人を玄関まで見送った。
二人の背中を見送った父は、ふと、テーブルに置かれているタバコに手を伸ばした。
『あー! お父さん、たばこは体に悪いんだよ!』
脳裏に小春の声が蘇る。伸ばした手が止まった。
「小春、どこにいるんだ……!」
返事はない。いつもなら、うるさいほど聞こえてくる娘の声が──今日は、どこにもなかった。
それから、小春の捜索は日が暮れるまで続いた。
龍神神社を中心に、警察や消防が周辺の山林まで捜索した。しかし、小春に繋がるものは何ひとつ見つからなかった。
まるで、忽然とこの世界から消えてしまったかのように。
小春の部屋は、あの日の朝のままだった。
読みかけの本。使いかけの化粧品。脱ぎっぱなしにされた部屋着。
今にも扉が開いて「ただいまー!」そんな声が聞こえてきそうだった。
しかし、扉が開くことはない。
そして──小春が姿を消してから五日が経った。
捜索は続いていたが、未だ小春の行方に繋がる手掛かりは見つかっていない。
そんなある日、朝陽と侑士は小春の母に呼ばれ、家を訪れることになった。
母は小春の部屋に二人を案内した。室内は綺麗に片付けられている。
「いつでも帰ってきていいようにね、お掃除したの」
そう言って、母は少しだけ笑った。
そして本棚の前にしゃがみ込むと、一番下の棚から一冊のアルバムを取り出した。
「二人に、見てもらいたいものがあるの」
母はベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりとアルバムを開いた。
そこには、生まれたばかりの小春を抱き、嬉しそうに笑う若い頃の父と母の姿があった。
「私たちね、なかなか子どもに恵まれなかったの」
母は写真を見つめたまま、静かに話し始めた。
「病院にも通ったし、できることは何でもした。それでも授からなくて……最後は神頼みまでしたわ」
「神頼み……?」
朝陽が尋ねた。
「龍神神社よ」
朝陽と侑士が同時に顔を上げた。
「あの神社……?」
「ええ。二人でお参りしてね。『どうか私たちに子どもを授けてください』ってお願いしたの」
母は次のページを捲った。
「そしたら、そのひと月後に小春を授かったの」
「……ひと月後」
「お医者様にも驚かれたわ。『奇跡ですね』って」
母は懐かしそうに微笑んだ。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「だから私たち、小春はあの神社が授けてくれた子なんだって……ずっとそう思ってた」
アルバムの上に、一粒の涙が落ちた。
「なのに……どうして」
母は震える手で口元を覆った。
「どうして、あの神社で小春がいなくなるの……」
「おばさん……」
朝陽は優しく母の背中を撫でた。
「朝ちゃん、ありがとう。大丈夫よ」
母はそう言って涙を拭うと、アルバムを最初のページへ戻した。
そこには、生まれたばかりの小春がいる。
「おかしなことを言っていると思われるかもしれない。でも、私、思うことがあるの……」
母はアルバムに視線を落とした。
「小春は、神隠しにあったんじゃないかって……」
「神隠し……?」
「あの神社にお願いして、私たちは小春を授かった。だからずっと、龍神様が小春を私たちのところへ連れてきてくださったんだと思ってた」
母は、生まれたばかりの小春が写る写真をそっと撫でた。
「でも……違ったのかもしれない」
「おばさん……?」
「もちろん、小春は私たちの大切な娘よ。それだけは何があっても変わらない。でも……もしかしたら、あの子は十七年間だけ、神様が私たちのもとに預けてくださった子だったんじゃないかって……」
母の目から、また涙が零れた。
「それで今度は、神様が小春を取り上げてしまったんじゃないかって……」
侑士はアルバムに写る小春を見つめた。
──龍神神社、そこに行けば小春が見つかるかもしれない。
根拠なんてない。
神隠しなど、今まで信じたこともなかった。
それでも──小春の足取りが途絶えたのは、あの神社なのだ。
侑士は静かに拳を握りしめた。
──もう一度、龍神神社に行こう。




