五話 帰りたい (3)
宮を飛び出した小春は、閉じかけた門の隙間へ身体を滑り込ませた。
「お、お待ちください!」
背後で門兵の声が上がる。それでも小春は振り返らなかった。
「……帰るんだから」
涙を乱暴に拭い、そのまま走り続ける。
「絶対に、自分で帰る方法を見つける……!」
煤丸は全力で走る小春の肩にしがみついていたが、あまりの勢いに振り落とされそうになり、たまらず地面へ飛び降り並走した。
「お前、どこ行くんだよ!」
「帰るの! 自分の世界に!」
「はぁ? 現世には帰れねぇって白嶺様言ってたじゃねぇか!」
「そんなに言うなら煤丸は宮に戻って!」
「そんなわけにもいかねぇだろ! おいら、小春に借りを返すために来たんだ!」
「貸し借りとか、そんなんどうでもいいから!」
「よくねぇ!」
「しつこいなぁ! もう!」
小春は無我夢中で邑を走り続け、やがて郊外にある森へ迷い込んでしまった。それでも、足を止めることなく、木々の間を縫うように走り続けた。
「小春、止まれって! ここがどこか分かってんのか!」
「わかんないよ!」
「とりあえず一旦止まれ! 邑からだいぶ離れちまった!」
言われた通りに小春は足を止めた。肩で息をしながら辺りを見渡すと、鬱蒼と茂っている森の中にいた。
「……ここ、どこ」
「言わんこっちゃねぇ──おいら、来るときの匂い覚えてるから帰るぞ」
「でも──」
「なにも宮に帰るって言ってるわけじゃねぇ、とりあえず邑に帰って──」
──ぱき。
枝や木の葉を踏む音が聞こえた。
「煤丸、ちょっと!」
「ちげぇ! おいらじゃねぇ!」
二人は同時に口を噤んだ。
しん、と辺りが静まり返る。風に揺れていたはずの木々さえ、息を潜めたようだった。
──ぱき。
また聞こえた。今度は、先ほどよりも近い。
「……誰かいるの?」
「小春、声出すな」
煤丸が低い声で制した。耳を伏せ、暗闇の一点を睨みつけている。
──ざっ。
木々の隙間から、ゆっくりと何かが姿を現した。
「……人?」
小春には、そう見えた。二本の足で立ち、二本の腕を垂らしている。けれど──どこかがおかしい。
「小春……!」
煤丸の声が震えた。
「逃げるぞ──!」
二人は一斉に駆け出した。それを追うように人型を模した者も追いかけてくる。
「煤丸……! あれなに!」
煤丸は駆けながら、背後を確認した。
「ありゃあ、神喰だ!──しまった! 今日は満月か!」
「満月だと何なの!」
「あいつらは普段、森の奥から出てこねぇ! でも満月の夜だけは別だ!」
「別って……!」
「神気を喰うために徘徊すんだよ!」
「そんなの先に言ってよ!」
「おいらだって、お前がこんなところまで走ってくると思わねぇよ!」
神喰は執拗に二人を追いかけていたが、やがて小春だけに狙いを定めたように追ってくるようになった。耳まで裂けた口からは、だらだらと涎が垂れている。
「なんで、私ばっかり!」
「そんなの知るかよ! 大体、神喰は神気を纏ってるやつを喰うんだ! お前に神気なんて──」
「煤丸、もっと大きな声で!」
「十分、でけぇ声出してるよ!」
「聞こえない!」
「はぁ!?」
いつの間にか、辺りには地鳴りにも似た轟音が響いていた。
走れば走るほど、その音が大きくなっていく。
「なんなの、この音……!」
小春は辺りを見回した。しかし、月明かりも遮ってしまうほど生い茂った木々のせいで、その正体まで分からない。
その時、煤丸はなにかに気づいたように目を見開いた。
「小春! 止まれ!」
「え!?」
「止まれ! そっちは──!」
突然、目の前から木々が消えた。
「え──」
視界いっぱいに、眩い月明かりが広がった。森を抜けたのだと思った。
しかし、次の一歩を踏み出そうとした小春の足が止まる。
その先に――地面がなかった。
「うそ……」
眼下には、月明かりを受けて白く輝く巨大な滝壺が広がっている。
先ほどから聞こえていた轟音は、すぐ傍を流れ落ちる滝の音だった。
「危なかった……」
小春は胸を押さえながら、恐る恐る一歩後ずさった。
「だから止まれって言っただろ!」
「ご、ごめん……」
遅れて追いついた煤丸の声に、小春はようやく息を吐いた。
その時だった。煤丸の表情が凍りついた。
「小春……」
「なに……?」
「動くな」
「えっ……」
煤丸は小春ではなく、その背後を見ていた。
滝の轟音に混じって、ぬちゃり、と濡れた足音が聞こえた。
小春の背筋を、冷たいものが走る。ゆっくりと振り返る。
月明かりの下。森と崖の境に、神喰が立っていた。
耳まで裂けた口を大きく開き、粘ついた涎を垂らしている。
「……嘘でしょ」
前には、底知れぬ滝壺。後ろには、神喰。逃げ道はなかった。
「小春に近づくな!」
煤丸が小春の前へ飛び出した。小さな身体いっぱいに毛を逆立て、神喰を睨みつける。
「煤丸……?」
「おいらが時間を稼ぐ! その隙に逃げろ!」
「逃げろって、どこに!」
「どこでもいい! とにかくこいつから離れろ!」
神喰は煤丸など眼中にないかのように、ゆらりと首を傾げた。虚ろな眼は、その後ろにいる小春だけを捉えている。
「嘘だろ……なんで──」
──待てよ。
煤丸の脳裏に、先ほどまでの出来事が次々と蘇った。
小春から漂っていた、水のような不思議な匂い。玄霄も覚えがあると言ったという、その匂い。
そして──神気を喰らうはずの神喰が、神気を纏っているはずが無い小春だけを執拗に追っている。
──神喰が小春を狙っているということは。
「小春、まさかお前──!」
小春が煤丸を振り返る。
その瞬間、神喰が地を蹴った。
「小春!!」
「え──」
振り返るより早く、強い衝撃が小春の身体を襲った。
「っあ……!」
鋭い牙が、右肩へ深く食い込む。焼けるような痛みに、小春は悲鳴を上げた。神喰の重みに耐えきれず、身体が大きく後ろへ傾く。
咄嗟に踏み出した足が、地面を探す。しかし──そこには、何もなかった。
「……え?」
一瞬、身体が宙に浮いた。
「小春──!!」
煤丸の叫び声が、滝の轟音に呑み込まれる。
神喰に肩を噛みつかれたまま、小春の身体は暗い滝壺へと落ちていった。
──あぁ、死ぬんだ。ここで……。ごめんなさい。お父さん、お母さん……朝陽、侑士……。
肩から流れた血が水に溶けていく。息が続かない。身体から力が抜けて、沈んでいく。痛みも感じなくなっていく。
『絶対、帰ってくるから!』
──約束、守れなくてごめんなさい……。
小春は静かに目を閉じた。




