五話 帰りたい (2)
客間に戻った小春は、座卓に腰掛けながらそわそわしていた。座っては立ち上がり、縁側から空を眺めては、また座卓へ戻る。
そんなことを何度繰り返しただろう。
「……まだかな」
空はまだ明るい。戌の刻までは、随分と時間がある。
分かっているのに、どうにも落ち着かなかった。
「さっきから何してんだ?」
座卓の傍で星の実を抱えていた煤丸が、不思議そうに小春を見上げた。
「白嶺様を待ってるの」
「白嶺様?」
「うん。帰ったら、どうしても話したいことがあって」
煤丸はしばらく小春を見つめていたが、やがて星の実へ視線を落とした。
「……言いてぇことがあるなら、ちゃんと言った方がいいぞ」
「え?」
「言えなくなってからじゃ、遅ぇから」
そう言うと煤丸は、抱えていた星の実を食べだした。
「そういえば小春、おめぇから不思議な匂いがすんな」
「……匂い?」
小春は自分の袖を鼻元へ寄せ、くんくんと嗅いだ。
「私、臭い?」
「そうじゃねぇよ」
「今日二回目なんだけど、それ言われるの」
「二回?」
「玄霄様にも言われた。不思議な匂いがするって」
煤丸は星の実を齧るのを止め、小春を見つめた。
「……玄霄様も? 玄霄様はなんて?」
「うん。どこかで覚えがあるとかなんとか」
「ふぅん……」
煤丸は鼻先をひくつかせると、小春へ少し近づいた。
「なんつーか……水みてぇな匂いだ」
「水?」
「でも、ただの水じゃねぇ。雨が降る前っつーか……川の底っつーか……」
「なにそれ」
「おいらにもわかんねぇよ──でも、不思議な匂いだ」
煤丸は星の実を食べ終えると、小春の右肩に乗った。
「おめぇ、瑞穂の生まれじゃねぇだろ。どこから来たんだ?」
「どこって、現世ってところから……」
「へぇ、すんげぇところから来たもんだな──現世といえば、こっちじゃ伝説の世界って呼ばれてるんだぜ」
「伝説……?」
「ああ。おいらも母ちゃんから聞いただけだけどな。神域の向こうには、人間だけが暮らす世界があるって」
「人間だけって……まあ、そうだけど」
「龍神様も神使もいねぇんだろ?」
「少なくとも、私は見たことないかな」
「物の怪は?」
「いない……と思う」
「漂魂は?」
「幽霊ならいるっていう人もいるけど……」
「ゆうれい?」
「あー……なんでもない」
「そういえば、時の数え方も違うって母ちゃん言ってたな──時間にうるさいのも困ったもんだな」
「時間にうるさいって……」
「だってそうだろ。朝になったら起きて、腹減ったら飯食って、暗くなったら寝りゃいいじゃねぇか」
「いや、現世でそんな生活してたら遅刻するから」
「ちこく?」
「決められた時間に間に合わないこと」
「間に合わねぇとどうなる?」
「怒られる」
「……現世って大変なんだな」
「なんか可哀想な目で見ないでくれる?」
そうこうしている間に日も暮れて、夕餉の時間になった。
座卓には温かな料理が並べられていたが、小春は先ほどから何度も廊下の方へ目を向けている。
「……まだ帰ってこないのかな」
「白嶺様のことか?」
「うん」
「飯くらい落ち着いて食えよ」
「分かってるけど……」
そう言いながら箸を取った、その時だった。
廊下の向こうが、にわかに騒がしくなる。
「主上がお戻りになられたぞ」
小春の手が止まった。
「……帰ってきた」
次の瞬間、小春は箸を置いて立ち上がった。
「小春、落ち着けって」
煤丸がなだめるのも聞かず、小春は客間を後にした。
長い廊下を足早に進む。どこにいるのかも分からない。それでも、じっと待っていることなどできなかった。
角を曲がった、その時だった。
「小春……?」
聞き慣れ始めた声に、ぴたりと足が止まる。
廊下の向こうから歩いてきたのは、待ち続けていた白嶺だった。
「白嶺様……!」
小春が駆け寄ってくるのを見て、白嶺は僅かに目を見開いた。
「どうした。そんなに慌てて」
「話があります」
「……話?」
小春は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。高鳴る鼓動を落ち着かせるように、もう一度深呼吸をする。
「小春?」
顔を上げたその時だった。
「私を現世に帰してください」
白嶺の表情から僅かに笑みが消えた。
「……なぜ、急に」
「急じゃありません。私はずっと帰りたいって言ってます」
「それは分かっている。だが──」
「今日、目の前でお母さんを亡くした子を見ました」
白嶺は口を噤んだ。
「その子、お母さんに『大好き』って伝えたんです。お母さんもその子に『愛してる』って伝えてた。なのに──」
小春の拳に力が入る。
「なのに、私は何も言ってない。『いってらっしゃい』って言われて『絶対、帰ってくる』って伝えただけ……」
「小春……」
声が震えそうになる。それでも、白嶺から目は逸らさなかった。
「だから、帰りたいんです……! お願いします。私を現世に返してください! お願いします……!」
小春は深々と白嶺に頭を下げた。
白嶺は何も答えなかった。
頭を下げたままの小春の前に、長い沈黙が流れた。
「……小春、頭を上げなさい」
小春は恐る恐る頭を上げた。
そこに居るのは、ひどく苦しい表情をした白嶺だった。
「現世に帰すことはできない」
「えっ……」
「昨日も言ったが、今は龍脈が乱れている。また時が経てば──」
「それじゃ、だめなんです!」
小春は声を荒らげた。
「またって、いつですか? 明日? 一週間後? それとも一ヶ月後?」
「それは──」
「分からないんですよね?」
白嶺は答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。
「だったら待てません……!」
小春の目に、じわりと涙が滲んだ。
「昨日までいた人が、今日もいるなんて保証はどこにもないんだって……分かったんです──お父さんも、お母さんも……ずっと待っててくれるなんて、誰にも分からないじゃないですか!」
「小春」
「私が帰れるようになるまでに、もし何かあったらどうするんですか!」
白嶺の表情が僅かに歪んだ。
「だから、帰りたいんです……帰らせて──!」
白嶺は口を開いた。
「……それでも、返すことはできない」
その言葉を聞いた瞬間、小春の身体から力が抜けた。
「……そんな」
膝が床につく。立っていられなかった。
「小春──」
白嶺が手を伸ばす。しかし、小春はその手を振り払った。
「……触らないで」
白嶺の手が宙で止まった。やがて、その手を静かに下ろす。
「……すまない」
小春は俯いたまま、涙を拭った。
「どうして……どうして、そんなに私を帰したくないんですか……?」
白嶺は答えなかった。
「ここが私の居場所だとか、帰る場所だとか……ずっとそう言いますけど……」
小春は涙に濡れた顔を上げた。
「私の帰る場所は、ここじゃない!」
白嶺の瞳が揺れた。
「もういいです──」
小春はゆっくりと立ち上がった。
「私は自分の足で、自分の帰る場所を探します! 白嶺様にはもう頼りません! お世話になりました──!」
「小春──!」
小春は長い廊下を駆け出した。白嶺は追いかけようと手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴んだ。
遠ざかっていく足音を、白嶺はただ聞いていた。
追えば、すぐに追いつける。名を呼べば、きっと足を止める。それでも、白嶺は動けなかった。
先ほど振り払われた右手を、静かに握りしめる。
「──私は、大きな過ちを犯してしまったのだな……」




